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細川氏(京兆家)
●二つ引両/五三の桐
●清和源氏足利氏流


 室町幕府の三管領の一家として権勢を振るった細川氏は、同じく三管領の斯波氏・畠山氏とともに、足利氏の一支族で清和源氏である。すなわち、足利義康の四代目にあたる義季が、三河国額田郡細川郷に住み、地名にちなんで細川二郎を称したことに始まる。
 足利氏宗家は三河守護であったことから、庶子家を三河の要所に配置した。義季も兄弟の実国(仁木祖)・義宗(戸賀崎祖)らとともに三河に本拠を移したのであろう。鎌倉期における細川氏の動向は、本宗足利氏のかげに隠れてほとんど詳らかではない。おそらく、足利氏庶子家としてその経済基盤も弱いものであったと思われる。
 やがて、鎌倉末期から南北朝の動乱期において、義季の孫(実際は曾孫)にあたる公頼・頼貞兄弟の諸子が、足利宗家に属してめざましい活躍をしたことで細川氏は世にあらわれた。

足利幕府創業に尽す

 元弘・建武の争乱に際し、公頼の子和氏・頼春・師氏の三兄弟、頼貞の三子顕氏・定禅・皇海らは足利尊氏に従い、各地に戦功を挙げのちの発展の基礎を築いた。建武二年(1335)に起った中先代の乱をきっかけに足利尊氏が建武新政に叛旗を翻すと、細川一族は挙って尊氏に従った。新田義貞を破って京都を征圧した尊氏は、奥州から攻め上ってきた北畠顕家軍に敗れ九州に没落した。尊氏は和氏、顕氏を四国に派遣して、後日の再起に備えた。
 和氏らは尊氏の期待に応えて四国の軍勢を糾合し、九州で態勢を立て直した尊氏が上洛軍を起すと、これに参加した和氏は湊川の戦いで足利方勝利の突破口を切り開く戦功をあげた。尊氏が室町幕府を開くと、頼春が阿波・備後の守護に、頼春の従兄弟の顕氏は讃岐・河内・和泉三ケ国の守護に、同じく定禅は土佐守護、頼春の弟師氏は淡路の守護に補任され、四国・中国・畿内において細川一族で七ケ国もの守護を兼ねる幕府の重鎮となったのである。和氏は引付頭人、ついで侍所頭人に任じられ、初代の阿波守護職にも補任された。かくして、細川一族は足利尊氏を援けて南朝方と戦った。
 建武新政当時、一族の惣領は和氏で、その子清氏も勇猛な武将として名を馳せた。一方、頼貞の嫡子顕氏も弟の定禅・皇海たちを統率して軍事面で活躍、顕氏は讃岐を拠点として河内・和泉・土佐に勢力を伸ばすなど、華々しい巧名をあげていた。
 やがて、尊氏の執事高師直と直義の対立から観応の擾乱が起ると、清氏、頼春らは尊氏に味方して軍功をあげ、清氏は伊賀の守護職に任ぜられた。文和二年(1353)六月に足利義詮が直冬に追われて近江・美濃に逃れたとき、義詮軍の殿をつとめた和氏は鎧の上から後光厳天皇を背負って山越えをしたという有名な逸話を残している。その後、文和四年正月から始まる尊氏の京都奪回戦に奮戦して負傷するなど、幾多の軍功が認められて若狭の守護となり、評定集・引付頭人となった。
 尊氏が死去したのち義詮が二代将軍になると執事に任じられ、楠木氏の拠点赤坂城を陥落させるなど活躍した。ところが、権勢に奢るようになった清氏は次第に諸将の反感を招き、さらには越権行為を犯したことで、ついに若狭に没落となった。その後、南朝に転じた清氏は楠木正儀とともに京都に突入したが敗れて、讃岐に落ち延びた。

細川氏発展の基礎を築く

 和氏とともに尊氏を支えて活躍した頼春は武芸に長じて、建武三年春、宮中の射礼に能射の名をあげた。これを賞して後醍醐天皇が御衣を賜ると、即座に和歌を詠んで献上したというから、歌道にも秀でていたことがわかる。頼春の武功として著名なのは、暦応元年(1338)五月、従兄弟の顕氏とともに和泉の石津で北畠顕家と戦いこれを討ったことである。その後、阿波・備後の守護となり、康永元年(1342)、伊予に侵入して南朝方守護の大舘氏明を討ち取っている。観応の擾乱には尊氏党として活躍し、義詮を助けて京都を守った。その功により従四位下・讃岐守に叙任され、侍所頭人・引付頭人をつとめたが、正平七年(観応三年=1352)、京都へ侵入してきた南朝軍と戦って七条大宮で戦死した。
 頼春のあとを継いだ嫡男頼之は阿波・伊予守護職を兼帯し、文和四年(1355)に南朝と足利直冬の連合軍を摂津神南の戦いで撃退する功をあげた。翌延文元年(1356)、尊氏から中国管領に任ぜられると、中国方面の直冬党の軍勢と戦う一方、行政面にめざましい効果をあげた。その間の貞治元年(1362)、南朝方に降って四国に奔った細川清氏が讃岐白峰城で勢力挽回を策すと、幕府から討伐の命を受けた頼之は、ただちに讃岐に渡ると清氏を討ちとって叛乱を征圧した。こうして、南朝方と直冬党を壊滅させることに成功した頼之は中国管領の任を解かれ、従来の阿波・伊予の守護に加えて讃岐と土佐の守護に任ぜられ四国管領とよばれた。
 貞治六年(1367)、将軍義詮に招かれて上洛し、同年十二月、義詮の遺命により管領となって三代将軍義満を補佐した。幕府管領職に就任した頼之は阿波守護職は弟詮春にまかせ、以後、頼之は上屋形と呼ばれ、弟の詮春は下屋形もしくは阿波屋形と呼ばれるようになった。
 頼之の管領在任は十二年間に及び、公武にわたって将軍家の権威を増大させたが、とくに今川了俊を鎮西探題に起用して南朝征西府を壊滅させ、全国制覇を実現したことは特筆に価する。しかし、頼之政権の長期化にともない諸大名の反感が募り、康暦元年(1374)、斯波義将を盟主とする反頼之派の挙兵によって、管領を罷免された頼之は四国に退いた。 男子のなかった頼之は弟頼元を養嗣子として幕府に出仕させると、みずからは讃岐宇多津にあって分国支配に専念した。
 その後、康応元年(1389)、義満の厳島詣でに供奉し、明徳元年(1390)の山名氏の内紛に際して義満から命じられて山名時熈を降した。翌年、義満に招かれて上洛した頼之は、管領に就任した頼元を後見して幕政に復帰した。さらに、同年十二月に明徳の乱が起ると、一族を率いて乱鎮圧に功を挙げ丹波の守護職が頼元に与えられた。翌年三月、頼之は病死したが、奇しくもこの年に南北朝の合一がなった。
 頼之は武もさることながら文にも秀でた武将で、漢詩文を愛好し、和歌にも堪能で、かれが詠んだ和歌十三首は勅選集に入っている。細川一族が八ケ国におよぶ世襲分国を獲得し、室町幕府において確固たる地位を占めることができたのはこの頼之の功績であったといえよう。

幕府管領として活躍

 頼之の死後、名実ともに細川氏惣領家の家督となった頼元は、幕府管領に任じて丹波・讃岐・摂津・丹波の守護職を兼帯した。頼元は従四位下右京大夫に任ぜられ、明徳三年八月の相国寺供養には郎党二十三騎を率いて参列した。頼元の子孫は、代々右京大夫の官途を踏襲したことから、頼元系の細川氏は京兆家と呼ばれるようになった。これは、中納言を唐風に黄門と呼ぶように、右京大夫の唐名を京兆と呼ぶことにちなんだものである。細川氏宗家たる京兆家は、頼元のあと満元−持之−勝元−政元と続き、代々幕府管領として幕政の中枢に位置しつづけた。
 満元が管領の代の応永二十一年(1414)、幕府が南北朝合一時の約束を反故にしたことに憤った伊勢国司北畠満雅が小倉宮を奉じて反乱を起した。ついで、応永二十二年(1415)、鎌倉府の前管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起した。この禅秀の乱は、幕府をも巻き込んだ大がかりなもので、満元は将軍を援けて反乱の鎮圧に尽力した。満元のあとは嫡男の持元が継いだが早世したため、二男の持之が家督を継承した。
 持之は永享四年(1432)斯波義淳のあとを受けて管領となったが、当時、将軍義教と鎌倉府の公方足利持氏が対立関係にあった。関東管領上杉憲実は公方持氏をよく諌めて決定的対立の回避につとめていたが、ついに持氏は憲実を幕府寄りと決めつけてこれを討とうとした。永享十年、身の危険を感じた憲基が領国の上野に奔ると、持氏は討伐の兵を発した。この永享の乱に際して持之は、義教の意を受けて上杉憲基を支援して幕府軍を送り持氏を自害させた。その後、結城合戦が起ると幕府は上杉憲実・清方に命じて追討軍を組織させ、嘉吉元年(1441)、結城城を落すと反乱を鎮圧した。
 一連の東国の争乱を征圧した将軍義教は得意絶頂となったが、嘉吉元年六月、赤松満祐の謀叛によってあえない最期をとげてしまった。難を逃れた持之は諸大名を召集すると、義教の嫡男義勝を将軍に立て、赤松満祐追討の軍を進発させた。この嘉吉の乱は下剋上の典型的事件であり、その後の幕府の権威を失墜させる要因となった。 義教横死後の幕政をよく主導した持之は、翌年、病をえて管領職を辞任してほどなく病死した。そのあとは、わずか十三歳の聡明丸が継ぎ、将軍義勝の偏諱を受けて勝元と名乗った。
 かくして、のちの応仁の乱において東軍の総帥として歴史に名を残す勝元が歴史に登場してきたのである。

戦国乱世への序曲

 持之が辞任したのちの管領には畠山持国が就き、勝元は文安二年(1445)に管領職に就任したが、文安六年(1449)ふたたび畠山持国が管領職となった。この間、将軍義勝が没し、文安六年義政が将軍職に就いた。男子のなかった畠山持国は、一族から政長を養子に迎えて後嗣としていたが、のちに実子義就が生まれたことで畠山氏は家中を二分しての内訌が起った。
 このころ、細川氏は一族で八ケ国の守護職を有し、四職の山名氏は九ヶ国の守護を有して、幕府内における二大勢力であった。勝元は山名氏の惣領持豊(宗全)の女婿となり、畠山氏の内訌には持豊とともに政長を支援した。また義政の赤松政則取り立てに反対した持豊を義政が討とうとすると、それを諌めるなどして持豊と協調しながら勢力を強化していったのである。しかし、将軍家の継嗣問題、管領斯波氏の内訌が起ると、勝元と持豊の協調関係は対立関係へと変化していった。
 寛正六年(1465)、勝元は持豊の支援する斯波義廉をしりぞけ、一方の斯波義敏を支援した。対して持豊は畠山義就を支援するようになり、勝元は政長を支援し続けた。さらに、将軍義政が先に嗣子として迎えた弟義視と、日野富子が生んだ実子義尚とが後継争いを演じた。この事態に義政は政治を顧みなくなり、ついに義視は勝元を頼み、日野富子が持豊を頼んだことで勝元と持豊の対立は決定的となった。
 かくして、応仁元年(1467)、持豊は義政に迫って管領畠山政長に代えて斯波義廉を管領に据えた。管領を逐われた政長は勝元を後楯に上御霊社に兵を集め、それを持豊と斯波氏の支援を受けた義就が攻撃したことで応仁の乱となった。以後、乱は京を中心として全国に広まり、世の中は確実に戦国乱世へと推移していった。この戦乱の最中の文明五年(1473)三月に持豊が死去し、同年五月には勝元も病没した。しかし、戦乱は慢性的に止むことなく続き、文明九年(1477)に至って一応の終熄をみせた。
 翌年、勝元のあとを継いで京兆家の家督となっていた聡明丸が元服、義政の偏諱を受けて政元を名乗り、文明十八年右京大夫に任じられて幕府管領となった。ほどなく、畠山政長が管領職に就き、政長は将軍義尚を支えて幕府権力の確立につとめた。ところが、延徳元年(1489)近江六角攻めのために出陣した義尚が鈎の陣中で病没してしまった。

 
●細川勝元、ゆかりの地を訪ねる
・応仁の乱勃発地の碑【左】
応仁の乱は、細川勝元をたのむ畠山政長が陣をはった上御霊の森を畠山義就が攻撃したことhが端緒となったのである。義就方には山名宗全らが加勢したが、勝元は動かず、戦いは政長方の敗北となった。以後、十一年間にわたって乱は続き、時代は戦国へと動いた。京都市上京区にある上御霊神社鳥居の右脇にひっそりと立つ「応仁の乱勃発地」の碑。

・龍興寺【右】
丹波八木城の麓にたつ龍興寺。享徳元年(1452)、細川勝元がみずからの香華寺として建立したという。境内の瓦を見ると、細川氏の「二つ引両」が刻まれている。


下剋上の世の中

 義尚には男子がなかったため、将軍後継をめぐって幕府内では対立が起った。細川政元は掘越公方の子で僧籍にあった清晃(義澄)を推挙したが、畠山政長は足利義視の子義材(のち義尹、義稙)を擁立して将軍職に就けた。そして、明応二年(1493)、政長は将軍足利義材を伴って対立する畠山義就の子基家を討とうと河内に出陣した。これを好機とした政元はクーデターを起し、重臣の安富元家、上原元秀らを河内に派兵させて政長を攻撃した。政長を河内正覚寺城で自害させ義材を京都に幽閉した政元は、清晃を還俗させると義澄と名乗らせて十一代将軍職に就けた。かくして、政元は幕府管領となり、畠山氏、斯波氏らを押えて幕府の最高実力者にのしあがったのである。以後、政元は将軍を傀儡化して幕府の実権を掌握、「半将軍」と呼ばれる専制体制を確立した。
 ところが、政元は「足利季世記」に「京管領細川右京大夫政元ハ、四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ、魔法飯綱ノ法アタコノ法ヲ行ヒ、サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ、(以下略)」とあるように修験道に凝り、生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなかった。そのため、関白九条政基の子・聡明丸を養子にし澄之と名乗らせた。ついで、文亀三年(1503)には阿波守護家の細川義春の子を養子に迎えて澄元と名乗らせた。さらに、典厩家から高国を養子に迎えた。
 やがて、政元は澄之を廃嫡して澄元に家督相続を約束したため、家臣団は澄之派と澄元派に分かれて対立するようになった。永正元年(1504)、摂津守護代の薬師寺元一が細川政元に反旗を翻したが、元一は弟長忠によって討たれた。永正三年(1506)、澄元が三好之長に擁されて上洛してくると、政元は京兆家の分国であった丹波を澄之に、摂津を澄元にそれぞれ分割継承させた。これは、澄之を丹波に追いやって丹後の一色義有と戦わせようとした措置であったという。これに反応した澄之派の香西元長・薬師寺長忠は、政元が湯殿で行水をしているところを襲撃して殺害、澄之を家督に擁立した。
 これに対して澄元は、細川高国・政賢らの支援をえて澄之を倒すと細川惣領家の家督を継いだ。この細川氏の内訌につけこんだのが、政元に追われて周防に逃れていた前将軍義稙であった。永正五年(1508)、義稙は大内義興に擁されて上洛してくると、細川高国はこれと結んで澄元=義澄らから離反した。劣勢となった澄元は将軍義澄、三好之長らとともに近江に逃れ、義稙が将軍に返り咲いた。義稙のもとで高国は細川家の家督を継承して管領に任じられ、大内義興らと連合政権を立ち上げたのである。

●細川氏系図



両細川氏の乱

 政権奪回を狙う澄元は、永正六年(1509)・永正八年(1511)の二度にわたって京都に迫った。しかし、両度とも義稙を擁する高国・大内義興の連合軍に敗れ、本拠地阿波に雌伏し、義稙・高国・義興政権打倒の機会をうかがった。永正十五年(1518)、連合政権の一翼を担う大内義興が帰国すると、高国と将軍義稙の対立がしだいに深まっていった。永正十七年(1520)、軍を率いて入京した澄元は、将軍義稙の支持を得て家督に返り咲いた。しかし、六角定頼の助けを得た高国の反撃にあって三好之長を失い、再び阿波へ没落、ほどなく失意のうちに死去した。そのあとは、わずか八歳の晴元が三好氏の支援をえて家督を継承した。
 京都を奪回した高国は義稙を追放すると、播磨赤松氏のもとにあった義晴(義澄の遺児)を将軍に迎えた。ここに、高国が家督抗争に勝利をおさめ、高国=義晴政権は安定をみせるかと思えた。ところが、大永六年(1526)、高国は従兄弟の細川尹賢が有力部将香西元盛を謀殺した事件の収拾を誤り、元盛の兄弟波多野稙通・柳本賢治らを晴元の側へと離反させてしまう。
 この高国政権の内訌につけこんだ細川晴元・三好元長は、大永七年(1527)、堺に上陸し足利義維を擁立して堺公方府を設立した。高国と将軍義晴は京都を追われて近江へ逃れ、二つの幕府が出現する事態となった。政権奪回をはかった高国は、支援者を求めて諸国を流浪したすえに備前の浦上村宗のもとに落ち着き反撃を開始した。享禄三年(1530)、上洛の軍を起こした浦上勢は播磨を席巻すると、柳本賢治を破って摂津へと進んだ。翌享禄四年、摂津天王寺で晴元=三好軍と戦った高国=浦上軍は大敗を喫し、村宗は戦死、高国は摂津尼崎で捕えられて切腹した。


高国方が壊滅した大物崩れの碑、捕らえられた高国が切腹した広徳寺(右=尼崎駅前寺町)


 天文元年(1532)、北河内守護畠山氏の内部抗争が原因で、晴元は有力部将三好元長と対立を深めた。晴元は一向一揆と結んで、河内に出陣している元長を攻めて殺した。このとき、堺公方義維は元長の側についたため淡路に逃れ去った。その後、晴元は義晴に接近し、天文三年(1534)に義晴を迎え、その二年後には管領に相当する地位についた。

細川京兆家の終焉

 晴元政権は一応の安定をみせたが、一向一揆の蜂起が続くと、晴元は法華宗と結んで法華一揆を起こさせ、山科本願寺を攻撃した。その後、法華宗が勢力を伸長すると、比叡山・六角氏らと連合して法華一揆を壊滅させた。その間、三好元長の子長慶が晴元の招きによって麾下に加わり、失地を回復していった。
   天文十二年(1543)、高国の養子氏綱が畠山氏や遊佐氏らと結んで挙兵し、義晴も将軍職を義輝に譲って氏綱を支持した。十七年(1548)には有力部将三好長慶が氏綱擁立に転じたため、晴元政権は危機に陥った。翌十八年、晴元は摂津江口で三好勢と戦い敗れると、将軍義晴・義輝父子を擁立して近江に逃れ、晴元政権は崩壊した。
 以後、氏綱を擁立した三好長慶が京都に入り、事実上畿内は長慶の制圧下におかれたのである。天文二十二年、足利義輝が京都に迎えられ、細川氏綱が管領職に補任されたが、幕政の実権は長慶が掌握していたことはいうまでもないだろう。
 その後も晴元は復権を策して反撃を試みたが、ついに政権に返り咲くことはなく、永禄四年(1561)、六角氏の仲介を入れて三好長慶と和睦した。その二年後、摂津普門寺において病死した。いまも、普門寺に晴元の宝篋印塔が残されている。


足利十四代将軍義栄の居城でもあった慈雲山普門寺(摂津富田)、境内の一角に晴元の宝篋印塔が立っている。


 晴元の子信良は義輝に仕えたが、義輝が三好三人衆によって謀殺されると、他の幕府奉行衆とともに三好氏に属した。 永禄十一年、織田信長が義昭を通じて上洛すると、信長に通じた。その後、将軍となった義昭から一字を拝領して昭元と 名乗り、正式に細川氏の家督を継承した。やがて、義昭が信長と対立するようになると、義昭に属して信長と戦った こともあるが投降し、天正四年(1576)信長の妹と結婚した。天正十年、本能寺の変で信長が横死したのちは、 豊臣秀吉に従った。武将としての才能には恵まれなかったようで、細川氏の衰勢を挽回できないまま文禄元年(1592)に 没した。嫡男に範頼がいたようだが、昭元の死をもって室町幕府の中枢に座りつづけた細川氏は終焉を迎えたといえよう。 ・2006年06月18日

参考資料:戦国大名系譜人名事典/室町幕府守護職事典/戦国期歴代細川氏の研究/国史大辞典 ほか】

●阿波細川氏 ●備中細川氏 ●細川幽斎家 ■細川氏概説

●細川氏の家紋─考察

■参考略系図
 


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