ヘッダイメージ



備前松田氏
筋違/九曜
(秀郷流松田氏一族か?)


 藤原秀郷の後裔波多野氏の一族といわれる。源義朝の重臣だった波多野義通の子義常(義経ともいう)が、足柄上郡松田郷を領して松田右馬允と名乗った。義常は治承四年の石橋山合戦で平氏方に属し、のち自刃した。その子有経は許されて鎌倉御家人となり、一時大庭景義に与えられていた義常の遺領を与えられた。以降、『吾妻鏡』には、右衛門太郎、九郎、小次郎、平三郎、弥三郎常基ら、松田姓の人物が見える。
 「松田系図」によれば、元来相模の松田元国が南朝方につき、鎌倉幕府討伐の功をあげて備前国御野郷伊福郷を賜り、同地方に居住して富山城を拠点としたとある。以後、元喬−元泰−元方−元運−元澄と続くが、元澄(元隆)は応仁の乱にあたり、赤松方に加わり、山名氏の追い落しに功をあげて赤松氏被官となり、旧領を安堵されて伊福郷の守護代的地位となり、文明五年(1473)に富山城で死去した。
 ところで、伊福郷松田氏とのちに松田氏の本拠となる金川の金川松田氏とは本来別系であって併存していたとされ、元国の子元喬が金川に移って両松田氏が併合して備前松田氏として一本化されたとする説もある。また、松田氏系図をみると、年代に対して世代数が多いことに気がつく、これは兄弟・叔父などの相続が一つの系として現わされた結果か、両松田氏の存在が併合された結果なのか、一考を要するところであろう。

金川城主、備前松田氏

 建武中興のとき、松田十郎盛朝が備前守護職となった。後醍醐天皇に謀叛旗を翻して九州に逃れた足利尊氏が、軍を整えて建武三年(1336)東上したが、そのとき、備前国一宮神社を造営寄進し、守護松田盛朝が寄進状を持参したと『一宮文書』にみえる。また、同年六月、一宮政所宛の松田権守盛朝花押の下知状があるから、盛朝が守護の地位にあったことは間違いない。ただ、正平十年(1355)には赤松則祐が備前守護職となっているから、松田の守護時代は比較的限られた時期であったようだ。
 松田氏はもともと伊福郷の地頭職であったという伝承がある。備前守護となった盛朝は「松田系図」にみえる七郎太郎重経の子といい、あるいは、孫二郎胤秀の子ともいうが、その出自は詳らかではない。  戦国時代、西備前にゆるぎない勢力を誇った松田氏は、備前国守護であった松田氏の一族であろう。応仁元年(1467)、松田遠江入道道栄が備前国守護代もしくは守護使として、赤松氏からの遵行をうけて、打ち渡しを行ったことが『西大寺文書』『備前難波文書』などにみえる。赤松氏の支配機構のなかに組織されていたようだ。
 松田遠江入道道栄は、遠江守藤栄と同一人物と思われ、藤栄は「備前松田系図」などの松田諸系図にはみえないが、実在の人物と思われ、備前松田氏は応仁期の赤松氏が備前守護として再興したのに伴って、台頭したものと考えられる。
 文明十二年(1480)には、松田元成が富山城から本拠を金川に移した。伊福郷の地頭であった松田氏は、武蔵国の金川の地名をとって金川と名付け、七曲神社を勧請したという。そして、この元成こそ戦国松田氏の祖とされ、法名を妙国といい、妙国寺を建立し左近将監を名乗っている。

備前争乱と松田氏

 そして、文明十五から六年(1483〜4)に備前国で勃発した騒乱に一役をかい、赤松・浦上氏の備前支配を排除しようとしたことでもわかるように、その頃には備前国西部に一大勢力を張っていたようだ。この合戦は福岡合戦と呼ばれ、備前国における戦国時代への突入の契機と考えられている。
 すなわち文明十五年、守護赤松政則は、備前西部に強大な力を持ってきた松田氏を滅ぼそうと、備前三石城の浦上則国に追討を命じた。これに対し、松田元成は山名氏へ援軍を依頼し、元成らは赤松方の小鴨大和守が守る福岡城を攻撃目標として、本拠金川城を出陣した。年末から翌年にかけて小競り合いが続いたが、正月松田勢は福岡城を落とした。
 元成はその勢いに乗じて、備前一国を手中にしようと、一挙に三石城へ攻め寄せようとした。しかし、その途中松田勢は吉井川の東、天王原において大敗し、元成は傷を負いつつ、ただ一騎で敗走中の二月、磐梨郡弥上村山で浦上勢の追撃にあい自害して果てた。
 その後、元成の子元勝、その子元隆が金川城を本拠にして、西備前に君臨し、浦上氏と対立した。大永二年(1522)将軍義晴は松田元隆を京都に招いた。このころ、松田氏の勢いは強盛で、京では所司代をつとめ、かたわら妙覚寺の別当職についていた。そして、元隆は亨禄四年(1531)天王寺合戦で、浦上村宗とともに討死した。天王寺合戦とは、亨禄元年、細川高国が細川晴元と争い、将軍義晴とともに近江に逃れ、さらに浦上村宗を頼って三石に来たことから村宗は軍を率いて上洛し、摂津天王寺で細川晴元軍と合戦におよび、このとき、妙覚寺別当職であった松田元隆をはじめ多数の戦死者が出た戦である。
 なお、南北朝期に松田氏は、中国地方に日蓮宗の布教活動を行っていた大覚大僧正に深く帰依し、代々日蓮宗を篤く保護し「備前法華」の基礎を築いた。『備前軍記』によれば、松田元成、元勝、元隆三代は日蓮宗不施不受派に熱中し、読経をこととしていたという。
 松田氏は元隆の戦死後、元盛−元輝と継承した。一方、備前国では宇喜多直家の台頭が著しくなり、近隣の諸豪族を、戦で、あるいは謀略で内倒して、勢力を拡大していった。そして、元輝の子元賢は直家の娘を室としていた。永禄十一年(1568)宇喜多直家は、元輝を誘い金川山中で鹿狩りを行い、松田氏家中の中心人物であった宇垣兄弟を謀殺した。さらに、松田方の有力者である虎倉城主の伊賀左衛門久隆を招いて、松田討伐に先導する旨を約した。

金川城址を訪ねる

宇甘川方面から城址を見る ・道林寺丸の石垣 ・本丸の松田氏供養塔 ・その大きさに驚く天守の井戸 ・松田氏が氏神として崇敬した七曲神社

→ 金川城址に登る


松田氏の没落

 同年七月、直家は松田氏攻撃を開始し、左近将監元輝は城を固めて宇喜多勢を迎え撃った。このとき、伊賀氏は直家の攻撃んび和して城攻めに加わった。これをみて、元輝は伊賀勢に向かって「不信者よ、主に向かって叛逆を続け地獄に落ちるか」と罵った。そのよき、伊賀氏から発せられた銃弾が元輝に当たり、元輝はあえなく討死した。
 元賢は士卒を励まして防戦に努めたが、次第に押され、元賢と弟の盛明は城を出て逃れようとしたが、虎倉勢の伏兵に取り巻かれ、元賢は討死し、盛明一人が備中に逃れ、城は落城した。かくて、南北朝以来、西備前最大の国衆勢力であった松田氏も、宇喜多氏の前に没落した。

■お奨めサイト:城が好き!

●丹後松田氏 ●相模松田氏

●河村氏の家紋─考察



■参考略系図
・下記系図は、『日本中世地域社会の構造「備前松田氏に関する基礎的考察」:榎原雅治氏著』で復元された系図を底本に作成。  

旧版系図


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ


地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
………
奥州葛西氏
奥州伊達氏
後北条氏
甲斐武田氏
越後上杉氏
徳川家康
播磨赤松氏
出雲尼子氏
戦国毛利氏
肥前龍造寺氏
杏葉大友氏
薩摩島津氏
を探究しませんか?

日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、 乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
戦国山城

日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る…
諸国戦国史

丹波播磨備前/備中/美作鎮西常陸

安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、 鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が 全国に広まった時代でもあった。
もののふの時代 笹竜胆


人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。
家紋を探る
………
系譜から探る姓氏から探る家紋の分布から探る家紋探索は先祖探しから源平藤橘の家紋から探る

約12万あるといわれる日本の名字、 その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
ベスト10

丹波篠山-歴史散歩
篠山探訪
www.harimaya.com