松田氏
丸に二本松
(桓武平氏良兼流) |
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松田氏は室町幕府のもとで二階堂・波多野氏とならんで評定衆に列した、どちらかといえば文系の武家であった。
応永年間には政所執事代として活躍し、嫡流と思われる満秀・秀興・数秀らは奉行人の筆頭の公人奉行に任じられた
。応仁・文明の乱以後、数秀・長秀・晴秀らは政所寄人の筆頭である政所執事代に任じられ、飯尾氏・清氏らとともに
永禄年間(1558〜1570)に至るまで幕府奉行人として活動している。応仁の乱のころに成った『見聞諸家紋』には、
奉行松田丹後守秀興「平氏 奉行 丸に二本松」、松田助太郎頼純「升に唐花」、松田幸松丸「二重直違い」などの家紋が
記載されている。
室町幕府奉行人松田氏の足跡は歴然たるものであるが、その出自に関しては『姓氏家系大辞典』に
丹後国与謝郡日ケ谷城主松田氏は藤原姓公親流、室町幕臣松田氏は秀郷流波多野氏の分かれと記されているものの、
まとまった系図が紹介されることもなく必ずしも明確にはされていなかった。ところが、1996年の春より刊行された
『宮津市史』の資料編に、伝来する「丹後松田氏系図」が収録され丹後松田氏のおおよその姿が明らかになった。
出自の考察
「丹後松田氏系図(松田系図)」によれば、松田氏は桓武平氏の一流で、平良兼に始まり十三代頼盛が
松田八郎左衛門尉を名乗っている。そして、頼盛は六波羅引付衆也とあり、建治元年(1275)の御家人交名に
見える丹後の御家人「松田八郎左衛門入道」と思われ、在京御家人として活動していたことがわかる。また、
宮津市日置にある金剛心院の縁起によれば、同院は、この地の領主松田八郎左衛門頼盛の女で後宇多天皇の
後宮にあった千手姫が帰郷して開いたのだという。
金剛心院の本尊愛染明王坐像は後宇多上皇に卸匣として仕えた千手姫が院から賜ったもので、
千手姫は金剛心院に入って薙髪して願蓮と称した。その出自については諸説があるが『尊卑分脈』にみえる
三条嫡流藤原公親(十三世紀後半の人、内大臣)の娘に「中宮御匣」であろうというのが定説である。
そして、『丹哥府誌』の「松田山城守城址」には、日ヶ谷城に拠った松田氏は公親を祖とし、その九代の孫八郎右衛門頼盛が松田を称したのだという。たしかに、松田系図を見ると平良兼五代の孫に公親が記され、その九代の孫が松田八郎左衛門尉頼盛である。ところが、公親から頼盛に至る代々に関しては名前が列記されるだけで、その経歴は一切空白である。丹後松田氏の出自に関しては、藤原姓公親流説にしろ、松田系図の桓武平氏説にしろ、ルーツはといえば不詳というしかないようだ。とはいえ、頼盛以降に関しては、記録に残る松田氏の人物との整合性もあり、非常に貴重な系図であることは間違いない。
松田系図をみると、頼盛のあと頼直と頼行に分かれ、さらに丹後守系、対馬守系、十郎左衛門尉系、弾正左衛門尉系などに分流している。そして、丹後守系を嫡流として、対馬守系・豊前守系が室町幕府奉行人として活躍、弾正左衛門尉系が日ヶ谷城主として在地にあったようだ。
さて、十四世紀はじめの嘉元二年(1304)、若狭に所領をもつ御家人として松田十郎頼成がみえ、大田文朱注には遠敷郡鳥羽上保の下司、同保内多烏田の領主として松田九郎左衛門大夫らがみえる。九郎左衛門尉は嘉元三年(1305)まで六波羅の四番奉行人であった人物と思われ、鎌倉末期における松田氏は六波羅に出仕する在京後家人として活動しながら、在地においては所領の拡大に努めていたようだ。そして、元弘の変で鎌倉幕府が倒れたあとも、その行政能力をかわれては室町幕府奉行人として生き残った。
松田氏の足跡
元弘の乱ののち建武の新政がなったとき、飯尾・斎藤氏らかつての六波羅探題に出仕した武士たちが新政に登用されるなかで、松田氏は新政権に距離をおいていたのであろうかその動向は知られない。当時の軍忠状などから丹後国丹波郡内にあった松田平内左衛門入道の城が官軍の攻撃で焼け落ちたとあり、松田氏は鎌倉幕府の崩壊にあたって幕府に与し新政権下で冷遇されたようだ。
やがて、南北朝時代を迎えると松田氏は足利氏に仕えるようになり、「御評定着座次第」には康暦元年(1379)、至徳二年(1385)、明徳二年(1391)に松田丹後守貞秀が登場し、ほかにも豊後守・豊前守ら松田氏一族の名がみえる。そして、貞秀の孫満秀は足利義満に仕えたが、その名乗りは義満から一字を賜ったものと考えられる。かくして、松田氏は室町幕府の奉行衆として歴史に名を刻むのである。一方、丹後日ヶ谷城主松田氏は丹後守護一色氏に属して、勢力を保持したのであった。
室町時代中期に成立した『丹後国諸荘郷保惣田数目録帳』には、
松田刑部左衛門尉 与謝郡豊富保・伊根庄
松田丹後守 光富保
松田九郎左衛門尉 光富保・吉光保 竹野郡是安保・吉末保・松吉保
松田三郎左衛門尉 物部葛保・周枳保
など、松田氏一族が伊根庄を中心として丹後にかなり所領をもっていたことが記され、在地領主として、幕府奉行衆として相応の勢力を有していたことが知られる。
奉公衆としての松田氏はといえば、
「永享以来(1429〜)御番帳」に、一番として松田三郎左衛門尉・松田豊前守・松田二郎左衛門尉・
同七郎左衛門尉がみえ、「文安年中(1444〜49)御番帳」には一番に松田二郎左衛門尉・七郎左衛門尉、
奉行衆に松田、ついで応仁の乱後に将軍足利義尚が行なった佐々木六角攻めの陣における「長享元年(1487)
常徳院江州御動座当時材陣着到)に右筆奉行松田九郎左衛門尉、御陣奉行松田丹後守、などがみえている。
さらに、戦国時代の永禄六年(1563)諸役人帳には、奉行衆に松田丹後守、同左衛門大夫頼隆、同主計允光秀、
三番松田将監頼秀、奉行衆松田九郎左衛門尉、ほかに松田左衛門大夫・同主計允・同対馬守などがみえている。
室町幕府政権内において松田氏が重要な位置を占めていたことが知られるのである。
落日の室町幕府
応仁の乱ののち世の中は戦国時代へと推移し、室町幕府の統制力はおおいに揺らいでいた。将軍義尚・義材らは将軍の命に従わない近江守護佐々木六角氏を討伐するなどして将軍権力の威勢回復に努めたが、一度動揺した屋台骨の建て直しは前途多難であった。そのようななかで、松田氏も将軍の側近くに仕えて活動したであろうが、知られるところは少ない。明応二年(1493)、将軍義材は管領畠山政長の要請を入れて、政長と対立する畠山基家を討伐するため河内に出陣した。ところが、その留守を突いて細川政元がクーデターを起こしたことで、義材は幽閉され、のちに京を脱出して流浪のすえに周防の大内義興のもとで庇護された。この明応の政変ののち、細川政元が幕府管領として幕政を牛耳るようになったが、松田氏豊前守流の頼亮が政元政権下の奉行人として活躍した。
政元は男子がなかったため、九条家から澄之、阿波細川家から澄元を養子に迎えていた。ところが、細川家の家臣団は澄之派と澄元派とに分かれて反目しあうようになり、永正四年(1507)、政元は澄之派によって殺害されてしまった。澄之が家督となったが、澄元派の巻き返しで澄之は討たれて澄元が家督となったが、つぎは澄元と細川高国が対立するようになった。この細川氏の内訌をみた前将軍義材が大内義興に奉じられて上洛、高国と結んで澄元と将軍義澄を京から追い出した。以後、細川氏二流の乱が続き、幕府体制は確実に崩壊への傾斜を深めていくことになる。
豊前守頼亮は澄元・義澄に属し、永正八年の船岡山合戦において戦死した。子の頼康・亮致らは近江岡山城に逼塞した義澄に仕えたこともあって、義稙・高国政権下では不遇をかこった。そして、義澄が近江で客死したのちは、丹後日ヶ谷城主松田頼信のもとに身を寄せていたようだ。東京大学史料編纂所助教授の榎原雅治氏は、このとき松田氏系譜に関する情報が日ヶ谷松田氏に伝えられ「丹後松田系図」が成立したのだろうと推測されている。
その後、播磨赤松氏のもとに庇護されていた義澄の子義晴が将軍に就くと、頼康・亮致らも播磨から従って上洛、従奉行人へと返り咲いたのであった。しかし、すでに将軍権力は地に堕ち、幕府体制は崩壊寸前にあり、世の中は群雄が割拠する戦国乱世そのものであった。義晴ののち、義輝、阿波三好氏に奉じられた義冬、そして信長に担がれた義昭へと将軍職は継承された。その間、松田氏は幕府奉行衆として活動し、先述のように永禄六年(1563)諸役人帳には、松田丹後守、同左衛門大夫頼隆、同主計允光秀らの松田氏一族がみえる。その後、幕府の記録も途絶え、幕府奉行人に任じた松田氏の動向も知られなくなるのである。
・水茎岡山城址を遠望、左の山上に城址遺構が残る (2009/02)
中世の終焉
一方、松田氏の本貫地である丹後は、守護一色氏が衰退して混乱状態となっていた。永禄十一年に上洛したのち、畿内・近国を制圧していった織田信長は、天正六年、細川藤孝に丹後平定を命じた。一色義道の反撃にあった藤孝は明智光秀に援軍を求めて義道を討伐、さらに抗戦を続ける義道の子義定を謀略で殺害して丹後の平定に成功した。この間、日ヶ谷城主松田頼通は一色氏に属して細川軍と戦ったようだが、一色氏が藤孝に屈したのちは頼通も細川氏に従った。
天正十年、本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀に討たれると、丹後では細川氏が一色氏討伐の軍を起こした。
『丹哥府誌』に「松田山城守、天正十年夏五月、細川藤孝のために亡ぶ」とあり、一色氏とともに滅亡した
ものであろう。系図によれば、日ヶ谷城最後の城主は山彦四郎頼通で「館尽亡丹波国へ引退」とあり、鎌倉時代以来、
丹後国与謝郡に勢力を保った松田氏は没落の運命となった。頼通の二男で日ヶ谷に残った福寿丸は、
のちに幸右衛門信実と改めて帰農、子孫は「七役庄屋」をつとめた。そして、「丹後松田系図」は、
福寿丸の後裔にあたる松田氏に伝来したものであった。
旧家に所蔵される系図は、概して歴史史料としては三級品とみなされ重要視されることが少ない。しかし、「松田氏系図」のように重要な内容を持った系図もあり、史料としての系図の見直し作業、新たな系図が発掘されることによって戦国史が書き換えられる可能性もあるのではなかろうか。
【参考資料:宮津市史・榎原雅治氏論文・与謝郡誌・姓氏家系大辞典 など】
●備前松田氏
●相模松田氏
■参考略系図
・「宮津市」所収の松田氏系図から作成。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
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約12万あるといわれる日本の名字、
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