戦国山城を歩く
西備前の雄松田氏が拠った金川城址


臥龍山山頂に築かれた山城で、戦国時代、西備前に勢力を誇った松田氏の居城であった。築城の時期は明確ではないが、文明十二年(1480)、松田元成が富山から本拠を金川に移したことに始まるという。以後、松田氏五代、約九十年にわたって西備前随一の山城として存続した。永正六年(1509)、松田元勝は三条西実隆より玉松・麗水の二書を送られ、玉松城と命名したと伝えられる。備前西部の戦国大名に成長した松田氏であったが、元輝の代の永禄十一年(1568)、宇喜多直家の攻撃を受け、元輝をはじめ嫡子元賢らは壮烈な戦死をとげ、金川城も陥落した。その後、直家の舎弟浮田春家が城主となったが、慶長八年(1603)、徳川幕府の一国一城令によって廃城となった。
・城址案内板の縄張り図


・金川駅から城址を遠望 ・木戸跡 ・雄大な竪堀 ・道林寺丸の曲輪跡/金川駅方面を見る


・道林寺丸の石垣跡 ・意外に広い曲輪が連なる ・北の丸北方の堀切 ・白水の井戸



金川城は臥龍山部の本の丸をはじめ、北方の尾根筋に北の丸、南西部に道林寺丸で構成された壮大な規模の山城だ。 本丸は大手曲輪・二の丸が配置された連郭式で、北の丸、道林寺丸もそれぞれ曲輪群が設けられている。そして、 竪堀、堀切、土塁が配置され、一部だが石垣も残っている。金川城で驚かされるのは、「天守の井戸」、北の丸の 「白水の井戸」、二の丸の「杉の木井戸」の三つの井戸の存在である。なかでも「天守の井戸」は直径5m、 深さ10m以上はあろうというもので、覗き込むと足がすくむほどだ。廃城のときの破壊のあとであろうか、 本丸をはじめ二の丸、出丸などに崩落したと思われる石垣が散乱していた。城址へは役場支所前と 妙覚寺西側とがあるが、いずれも登山道が整備されている。本来の大手道は支所前であるが、ひたすら1210段の階段を 登ることになる。

・驚く大きさ、天守の井戸 ・本丸跡 ・虎口下の石垣跡 ・二の丸の杉の木井戸 ・出丸への道に崩落した石垣


城下を歩く



松田氏が氏神として相模国から勧請したという七曲神社(本殿に三つ輪違いの紋が刻されている) ・松田氏も庇護した備前法華の流れを汲む妙覚寺と楓紋


松田氏
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