南奥州の肥沃な地「会津」を支配した葦名氏には、領国支配に参与して「葦名四天」と呼ばれる重臣がいた。「葦名四天」とは、松本・富田・平田・佐瀬の四氏から成り、十五世紀末ころから葦名家の管領・代官・守護人として、一定地域内における法権を代行する一方、土豪を統率して葦名家の軍事力を構成していた。四天のうち松本・富田の両氏は葦名氏が会津に入部してから仕えたが、佐瀬氏と平田氏は葦名氏譜代の直臣であったという。 佐瀬氏の出自は、伝によれば桓武平氏村岡氏流である上総介常長の後裔・伊北常仲の四男円阿禅師が、上総国山辺郡佐是村に住んで佐是を称したことに求められるという。円阿禅師は千葉一族の椎名胤光の娘を室に迎えたことから、同氏の伝承では千葉氏の流れと伝えられている。ちなみに、会津佐瀬氏の代々は名乗りに上総氏一門の通字である「常」の字を用いていた。 佐瀬氏の歴史への登場 佐瀬氏が記録に現れてくるのは、文亀三年(1503)に佐瀬平左衛門尉久常の名が、葦名盛高の代官としてみえるのが初めである。すなわち、盛高は桂林寺造営の所用のため屋敷を六貫文で瓜生勘解由に売り渡したが、その際に代官を務めたのが久常であった。ついで、天文元年(1532)芦名盛舜の代に、佐瀬大学助が取次ぎをつとめ、盛氏の代には同じく佐瀬大学助が盛氏の手紙の返信として武田信玄よりの手紙を取り次いだことが知られる。その他、天文四年には佐瀬常教、天文九年には佐瀬信濃守常和・佐瀬大和守種常らが、葦名氏の重臣として見えている。 葦名氏は盛氏の代に全盛期を迎え、その威勢は南奥州に振るった。しかし、盛氏の晩年から家勢に翳りが見えはじめ、それは盛氏の死によって決定的となった。盛氏在世中に嫡子盛興は早世し、二階堂氏から盛隆を養子に迎えたが盛隆も家臣の手で殺害されてしまった。さらに、盛隆の遺児亀若丸も夭逝するという始末で、家勢は一気に斜陽となったのである。 葦名氏家中では、亀若丸のあとに伊達政宗の弟を迎えようとする派と、佐竹義重の二男義広を迎えようとする派とに分かれて内訌が起った。結局、義広が迎えられて家督を継いだが、家中には拭いきれない内部抗争の種が残された。さらに、弟を養子に入れることに失敗した伊達政宗が、葦名氏に対して強烈な揺さぶりをかけてきた。 そして、天正十七年(1589)六月、葦名義広と伊達政宗と磐梯山麓摺上原で激突した。奥州戦国史に特筆される「摺上原の戦い」である。戦いは緒戦こそ葦名氏が優勢であったが、戦力に優る伊達氏が次第に押し返し、ついには葦名氏の総崩れとなった。この戦いに種常の養嗣子佐瀬常雄は敗走する葦名勢の殿軍をつとめ、討死を遂げた。いまも、摺上原古戦場には佐瀬常雄・金上盛備らを称える「三忠碑」が建っている。 敗れた葦名義広は会津黒川城に逃げ帰ったが、家臣たちの不穏な動きもあって、実家の佐竹氏のもとに奔った。ここにおいて、南奥の名門葦名氏は没落となった。 葦名氏の滅亡により、佐瀬氏一族も離散の運命となった。のちに会津藩保科松平家に仕えた佐瀬氏がおり、会津藩士の先祖書上である『要略会津藩諸士系譜』に佐瀬氏が記録されている。それによれば、佐瀬氏の家紋は「月星」、本姓は「千葉」であったと記されている。・2006年09月15日 ・お奨めサイト…■千葉氏の一族 ■参考略系図 ・『葦名時代名家系譜』『千葉氏系図』を底本に作成。 |