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平田氏
●丸の内に三つ矢筈
●清和源氏  
・『米府鹿子』にみえる平田氏の家紋。  


 平田氏は会津蘆名氏の四天宿老の筆頭とされ、至徳元年(1384)、蘆名直盛が会津へ下向した際に従った大隅守光範が始まりとされる。そして、室町時代初期に蘆名氏により滅ぼされた新宮氏の根拠地を与えられたものと考えられる。至徳元年(1384)、光範は源太屋敷に築城、その壮麗な城を称えた当時の人々が鏡ヶ城と呼んだとされる。鏡ヶ城は会津北辺の最も重要な拠点であり、戦国期の典型的な平城の形態を持っていた。
 平田氏の出自は清和源氏といい、『葦名時代名家系譜』によれば、初代は戸島左近将監頼範となっている。清和源氏系図をみると源満仲の七男に頼範が見え、摂津国豊島郡に住して戸島を称したとなっている。そして、頼範には数人の男子があるが、平田氏二代という義範の名は見えない。いずれにしろ、平田氏は出自を清和源氏といい、戸島左近将監頼範の十二代の孫が大隅守光範ということになっている。そして、光範が鏡ヶ城を築いて以後、戦国時代に至るまでの平田氏の動向は、史料もなく不明というしかない。

平田氏の軌跡

 天文十三年(1544)、平田宗範が渋河源左衛門尉に蘆名盛氏の承認の下で土地を売却している。永禄九年(1566)の血判起請文に宗範の子と思われる実範が署名している。 一方、天文九年に黒川城下の火災で焼失した諏訪社が再建されたときの棟札に、左衛門尉輔範(尾張守)が名を連ね、落成時には輔範の弟石見守盛範、長男左京亮舜範らが連署している。
 戦国時代後期の永禄十一年(1568)、平田尾張守常範が上杉家の重臣河田長親に対して上杉と蘆名の友好を求める書状を送っている。『関川町史』に掲載された系図をみると常範は輔範の子とあり、舜範の弟にあたる人物と思われる。天正六年(1578)、大槻政通・山内重勝らが上杉謙信に応じて兵を挙げると、舜範は鎮圧のために出陣した。
 このころ、葦名氏は相継ぐ当主の死と、その後の家督をめぐる伊達派と佐竹派との内部抗争で大きく動揺していた。平田氏は富田美作らとともに伊達派に属したが、佐竹氏義重の二男義広が葦名氏の家督に迎えられた。しかし、葦名を継いだ義広は家中の混乱をおさめることができず、南進を企てる伊達政宗への対応に苦慮した。そして、天正十七年(1589)、葦名義広と伊達政宗は摺上原で決戦を演じた。結果は、葦名方の敗北となり、義広は黒川城に逃げ帰った。平田氏は摺上原の合戦では後陣を担当したが敗れ、黒川城に逃げ帰っていた盛重を追放すると政宗に降伏した。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置きによって会津を収公された伊達政宗は、米沢へと去っていった。翌年、平田常範(舜範の弟か)は越後の上杉景勝に仕え、長男の長範は清野氏を継ぎ、次男の鮮範が平田氏の家督を継承した。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦に際して鮮範も出陣したが、西軍の敗北で戦うことなく兵を退いている。
 その後、上杉氏が米沢に減封されると、鮮範の長男は武士を捨てて帰農し、次男の範吉が上杉氏に仕えた。米沢上杉藩士の記録である『米府鹿子』には、平田氏がみえ「丸の内に三つ矢筈」の家紋が描かれている。以後、平田氏は米沢上杉藩士として江戸時代を生き、幕末を迎えたという。・2006年09月14日


■参考略系図
・『葦名時代名家系譜』を底本に作成。
  


●別世系による参考系図
大隅守光範─…─範政┬輔範┬舜範─範重
          │  ├常範┬長範
          └盛範│  └鮮範─能範─続範
             ├房範─光範─元範─延範
             └重範


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