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会津松本氏
二つ引両*
(清和源氏伊那氏流)
*米沢藩士の家紋を記した「米府鹿子」に会津を本貫とする 松本氏がみえ、家紋は二つ引両と記されている。


 戦国大名葦名氏に仕えた松本氏は、富田・佐瀬・平田氏と並び称される葦名氏宿老の一であった。その出自は清和源氏伊那氏族といわれ「伊達世臣家譜」によれば、はじめ薄氏を称していたという。早くから会津に土着していた豪族なのであろうが、葦名氏に対する反乱の記録が多い。  その本拠は、大沼郡屋敷邑の船岡館であり、そのほか、松本右馬允の允殿館、松本対馬の中野館、松本勘解由の綱取城、松本備中の関柴館などであった。
 会津の大名は葦名氏であったが、延徳・明応〜永正期(十五世紀〜十六世紀初め)にかけての当主盛高は激しい内乱に直面した。延徳四年(1492)の三月から四月にかけて、猪苗代伊賀・松本藤右衛門・富田淡路らの反乱が起こり、盛高は一時難を黒川の伊藤氏の館に避けた。明応三年(1494)には、隣国の伊達家で成宗・尚宗父子の争いが起こり、伊達尚宗が盛高を頼って猪苗代へ落ちてきた。盛高は自ら三千騎の兵を率いて長井へ行き、尚宗を帰還させている。しかしその後、盛高は松本氏の反乱に苦しむことになる。
 明応四年(1495)十一月、松本備前・伊藤民部が盛高に背いて宇都宮へ逃れる途中、一行三十三人は糸沢で南山殿長沼政義によって討ちとられた。ついで、同七年五月、盛高は松本備前を松本右馬允の居館で討ちとり、ついで松本丹後守の子息大学頭・小四郎兄弟を討ち、さらに松本右馬允らも誅した。この反乱も「手負打数不知」という激しいものであった。
 明応九年になると、盛高は松本対馬の拠る中野館を陥した。対馬は弟の松本勘解由の拠る綱取館に逃れたが、盛高の兵によって攻められ、勘解由は降伏し対馬は打ち取られた。これら、一連の松本一族の打ち取りは謀叛の確証はないが、長年にわたって松本一族の反乱に苦しめられた盛高が先手を打って松本氏を排除したものと思われる。

葦名氏の内訌

 永正二年(1505)八月、葦名盛高・盛滋父子の争いが起こり、盛高時代最大の内乱となった。この争いの原因は、葦名家臣団のなかで重要な位置を占めていた松本氏と、やはり葦名氏の重臣である佐瀬・富田氏との対立であった。
 盛高は佐瀬.富田の両氏を支持して白川口へ兵を進めた。一方、盛滋は、松本源三・勘解由を支持して勘解由の居城である綱取城に立て篭った。葦名父子の抗争をみて、白川の結城義親が会津へ来て和議を斡旋しあが、成功しなかった。
 同年十月、両者は塩川で激突し合戦が繰り広げられた。結果、盛滋が敗れ伊達家を頼って長井へ落ち伸びた。翌永正三年八月、葦名盛滋は長井から会津へ侵入したが、その後、父子の和睦がなり、盛滋は会津へ帰った。結局、この盛高・盛滋父子の争いも、盛高と家臣たちの争いであり、このような内乱を克服し、主従関係を強化することで、葦名氏は戦国大名として成長していったのである。
 盛高は永正十四年(1517)に亡くなり、盛滋が葦名氏の家督を継いだ。盛滋は永正十七年六月、伊達稙宗を援けて最上に出兵するなどの活躍をしたが、大永元年(1521)二月に亡くなり、弟の盛舜が葦名家を継いだ。
 盛舜が葦名家の当主となった直後、家臣団の反乱が相次いで起こり、盛舜はその対応に苦しまねばならなかった。同年四月、盛舜は松本大学とその弟の藤左衛門を討った。同年六月、猪苗代氏の兵が黒川に侵入し、葦名氏の居館を攻めた。このとき、松本新倉人・松本宇門・塩田刑部ら葦名の重臣たちも猪苗代に味方する有様であった。盛舜はこの一味を八葉寺へ追ってこれを討ちとっている。
 盛舜は、家臣団の反乱を鎮めて領国の支配を固めつつ、積極的な外交も行い内外ともに葦名氏の戦国大名化を推進した。天文七年(1538)三月、黒川に大火があり、葦名氏の居館をはじめ、松本氏・常世氏・西海枝氏・富田氏など重臣の屋敷や神社仏閣が焼失し、盛舜は平田石見守の、嫡子盛氏は佐瀬山和守の屋敷へ移った。このことから、会津各地に所領おもってそこに居館を構える重臣たちが、黒川にも屋敷をもっており、葦名氏の城下である黒川への家臣団の集住がすすんでいる状況がうかがわれる。
 葦名氏の会津統一が進み、やがて戦国大名化をとげていくことになる。しかし、そのようななかにあって、松本氏は葦名氏の四天んぼ宿老として重きをなしながらも、一族から多くの反乱者を出しているのである。

関柴地頭-備中守輔弘

 天正十三年(1585)、伊達政宗は原田左馬助の家臣平田太郎左衛門を使いとして、関柴の地頭松本備中守輔弘に内応の工作を進め、輔弘はこれに応じた。政宗は原田左馬助と新田常陸に兵三千余騎を率いさせて米沢を出発、その先導をつとめたのは輔弘であった。
 この内応は黒川城に直ちに知らされ、黒川場内では輔弘一人あけの内応か、他に協調者がいるのかが判然とせず、即戦派と慎重派に分かれたが、中ノ目式部大輔の出陣論が事態を制し、平田・富田・佐瀬・沼沢らの諸将が出陣した。
 中ノ目式部らは小荒井を経て寺窪に布陣し、佐瀬源兵衛らは、勝から稲田に向かい、残りは合して熊倉に向かった。伊達勢は各地で敗れて後退するなかで、輔弘らは踏み止まって戦った。しかし、新田常陸は中田村に退き、葦名の三軍もそこに向かい、中田村附近が主戦場となった。ここでも伊達勢は敗れ、輔弘は姥堂川まで逃れたが、そこで沼田出雲守に追い付かれて組み打ちとなったが、首を掻かれた。このとき、輔弘の弟も討たれ、他の一族は伊達氏を頼って逃れ、子孫は伊達氏に仕えた。

松本図書と太郎左衛門実輔

 大沼郡屋敷船岡城主の図書は、天正三年(1575)五月、安積郡福原における田村清顕との戦いにおいて討死にした。このとき、嫡子の太郎はまだ三歳であったが、葦名盛興の思し召しによって俸禄は父の代と変わりなく与えられ、家の子郎党たちには太郎を大事に育てるようにと仰せがあった。盛興の子盛氏が死んだとき、太郎は十三歳になっていた。
 盛氏は「この者が十五歳になったならば、四天の宿老の列に加えよ」と遺言した。翌年、盛隆が田村清顕を討つべく黒川を出陣するに際し、太郎は従軍を願い出たが、盛隆はまだ幼いとの理由で黒川に残し置かれた。そればかりか、松本氏の領地を召し上げ、三の丸のあった松本氏の屋敷も幼少では物の用に立てぬといいうことで近習のものと交替させられた。
 そして翌年、太郎は十五歳になったが、盛隆からは何の沙汰もなかった。これを恨みに思った太郎は、笈川村の地頭栗村盛胤に加勢を求め、天正十二年(1584)六月、盛隆の留守を狙って黒川城を急襲、これを占拠した。
 事件の発生を知った黒川に居合わせた武士たちや、近郷の地頭などが甲冑を付けて馳せ参じ、やがて城に対する攻撃が開始された。反乱軍は、僅かに八百、城内は広く東奔西走して防戦したが味方は次第に討たれ、やがて太郎も討死を遂げた。


■参考略系図
・詳細系図不詳。
富田氏は藤原南家伊東氏族で、岩代国安積郡富田村より起こり、富田館に拠ったのが始まりいわれている。安積伊東氏の一族で、『伊東家譜』には「伊東大和守祐盛、享禄三年秋、富田に移り住む。これ富田伊東の祖なり」とみえる。また、「富田左衛門晴光、富田城に住す。天正九年、安積城に於いて討死」などともある。さらに、『仙道記』によれば「富田右近あり、田村清顕に属す」と記されている。
    


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