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天草氏
●隅切角に隅立四つ目結/剣梅鉢
●大蔵氏岩門流
*細川氏に仕えた天草氏は「隅切角に隅立四つ目結」を用いたことが分限帳から知られる。一方、河浦町文化会館(天草コレジョ館)では「剣梅鉢」が天草氏の家紋として展示されているとのこと。


 天草氏は本姓大蔵氏で、天慶三年(940)の「藤原純友の乱」に活躍した大蔵春実(春種とも)の後裔である。春実の孫大蔵種材は、寛仁三年(1019)の「刀伊賊の来寇」に功があり、大宰大監となった。以後、大蔵氏の代々は大宰大監に任じられ、種資(輔)の代に、鞍手・岩門・別府らの庶子家が分かれた。さらに、秋月・原田・高橋・田尻・三原などの諸家が分かれて、大蔵氏は鎮西の大族となったのである。
 種資の子種綱は三男があり、嫡男種永は安永太郎大夫を、二男の宗綱は米生二郎を、そして三男の種貞は右馬允を称した。そして、右馬允種貞の子右馬太郎種有は貞永二年(1233)、本砥島の地頭職を女子の播磨局に譲渡している。種有には系図から嫡男種秀、二男種資、播磨局、次女の二男二女があったことが知られる。嫡男種秀は高浜・平浦などを譲られ、二男種資は河内浦を譲られたようだ。惣領制による分割相続で、女子も所領を譲渡されていたことがうかがえる。
 その後、種資の子種増(益)が播磨局の養子となって本砥島の地頭職を譲られた。種増は弘安の役に出陣して軍功があり、のち天草大夫に任じられた。ここにはじめて天草氏を称することになり、以後、天草・亀川・河内浦・嶋子などを支配下におき、天草氏は在地領主(国衆)として成長していったのである。

本砥島をめぐる抗争

 元文二年(1205)、菊池氏一族の兵藤左衛門尉光弘が鎌倉幕府から志岐六ヶ浦の地頭職に補され、ついで建暦二年(1221)に天草郡六ヶ浦の地頭職に補任された。ちなみに、六ヶ浦は天草下島の北部一帯の海をさすものである。その後、志岐氏は志岐浦を得宗(鎌倉幕府執権北条氏嫡流)に寄進してその代官職となることで、幕府と密接な関係を築き、天草島に勢力を拡大していった。
 志岐氏の台頭は、必然的に天草の開発領主系の地頭職である天草氏との対立をうみだした。そして、両者の対立は、天草島の中心である本砥をめぐる武力抗争へと発展していった。
 南北朝時代の建武四年(1337)より、天草大夫三郎入道が天草郡本砥島・亀河地頭職をめぐって、北朝方に属する志岐隆弘と争っている。大夫三郎は城に立て籠り、北朝方の使者に対して矢を放つなど反抗した。この大夫三郎は天草南朝方の河内浦大夫三郎と同一人物と思われ、「大蔵系図」に見える天草大夫資種に比定されている。
 その後の興国七年(1346)、南朝方の阿蘇大宮司惟澄に属していた佐津津貞弘が、天草大夫三郎の闕所跡の天草郡本砥島の地頭職を望んでいることから、天草氏は本砥島の地頭職を失ったものと思われる。とはいえ、その後も河内浦天草氏は、南朝の菊池氏に属して本砥河内浦に拠り、北朝方の志岐氏の支配に抵抗したようだ。しかし、南北朝の合一がなったのちの応永期(1394〜1427)にいたって菊池氏の支持を失い、本砥は菊池氏に従った志岐氏領となった。
 ところで、さきの佐津津貞弘は志岐隆弘の一門とみられ、志岐一族が南北両朝に分かれていたことが知られる。加えて、南北両朝方が一つの土地に対して、それぞれ属した武将を地頭職に任じていたことも分かる。南北朝の動乱期は、武士の去就、土地の所有権などまことに混沌を極めた時代であった。

戦国乱世への序奏

 室町時代を経て戦国時代はじめの明応期(1492〜1500)、天草氏は志岐・大矢野氏らの諸領主とともに天草一揆を結成、菊池氏の支配下にあった。明応十年(1501=文亀元年)、菊池武運は天草一揆衆中に対して八代郡小野.豊福の地を与えた。この宛行状は託磨重房が天草に渡海して、蒲牟田で一揆中に与えた。その場には、志岐氏をはじめ、上津浦・宮地・長島、そして天草氏、さらに大矢野氏、栖本氏、久玉氏の名代らが集まっている。この面々が一揆の構成員であり、戦国時代はじめの天草における有力者たちであった。
 その後、菊池氏家中で家督をめぐる内紛が起こり、宇土為光に敗れた武運は肥前高来の有馬氏を頼った。文亀三年(1503)、武運は家臣の城重峯・隈部運治らに擁され、さらに相良氏・阿蘇氏らの支援をえて宇土為光を討ち、隈府城に復帰した。このとき、天草の諸将も武運を支援して兵を出したようだ。ほどなく武運が早世すると、一族の政隆が菊池重臣らによって肥後守護に擁立された。ところが、永正二年、菊池重臣らは政隆を廃して阿蘇惟長を菊池氏の家督に迎えて肥後守護とした。このころ、菊池氏は重臣らの下剋上によって当主は実権を奪われ、守護とは名ばかりの存在になっていた。
 そのような永正二年、宮地・長島・栖本・大矢野の諸氏に送られた書状に、天草大夫跡のうち本砥・嶋子は、昨年、志岐・上津浦氏に約束したが、嶋子村は上津浦に与えるとの上意の旨を申し送っている。このことから、菊池氏をめうぐる一連の争乱のなかで、天草大夫は菊池氏重臣と対立したのか勢力を失ったようだ。
 やがて、天草郡には相良氏の勢力が伸長してきた。天文元年(享禄五年=1532)、天草・志岐・栖本・ 大矢野・長島の五氏は同心して、相良氏に与する上津浦治種を攻撃した。相良義滋はただちに治種に援軍を送り、激戦のすえに連合軍は敗退した。このころの天草氏の当主は尚種で、尚種は享禄期(1528〜31)までに失地を拡張、本砥を回復していた。
 敗戦後、天草郡の諸将は相良氏に属するようになり、相良長唯は天文十二年に上津浦種教に右衛門大夫の官名を与え、同十三年には栖本氏に兵部大輔の官名を与えている。同十五年、相良氏の家督を晴広が継承すると、天草氏、上津浦氏、大矢野氏らは八代に使者を派遣して晴広の家督を祝った。尚種は翌年、翌々年と連続して、晴広と会談をしている。その内容は明確ではないが、天草氏をはじめ上津浦・大矢野氏らは相良氏との関係強化につとめている。

天草の乱世

 天文二十年、天草氏は上津浦・大矢野氏と連合して栖本氏を攻めた。このころより、天草郡の諸領主の間で抗争が繰り返されるようになった。一方、豊後大友氏の家督を継いだ義鎮が、菊池義武を滅ぼし、北九州一円に勢力を拡大してきた。義鎮は肥後守護職に任じられ、天草氏らは大きな時代の変化にさらされることになる。
 弘治二年(1556)、栖本氏と上津浦氏が合戦、相良氏は栖本氏を支援して出陣した。天草氏、志岐氏らは上津浦氏を支援して栖本氏を攻め、上津浦勢は栖本馬場を破る勢いを示した。相良氏は天草氏と栖本氏の和議を図ったが、成功せず、上津浦・栖本両氏の争いは膠着状態となった。ところが、翌年になると天草氏は栖本氏側となり、天草・栖本連合軍は上津浦氏を攻撃したが敗退をした。
 その後も小競り合いが続き、永禄三年(1560)になると有馬・大村勢が栖本氏攻撃に参加し、さらに志岐氏も栖本氏に味方した。相良氏は天草氏に援軍を送り、ついに十一月、栖本氏と上津浦との間に講和が成立して抗争に終止符がうたれた。その間の永禄三年七月、尚種は相良氏が菱刈氏から水俣城を請け取るにあたって、仲介の労をとるとともに、舟を出して城請取に協力、相良氏から感謝をされている。相良氏が天草氏に援軍を送ったのは、このときの返礼の意味もあった。
 永禄七年、相良氏の仲介で天草氏と上津浦氏との間に講和が成立した。ところが、翌年、和泉の島津義虎が長島を攻撃、これに志岐・栖本氏らが味方した。さらに有馬氏も加わって、天草氏の本拠である本砥・嶋子を攻撃した。対する天草氏は、上津浦・大矢野氏らの支援を得て、志柿で合戦となった。
 やがて、天草では天草氏、志岐氏を双璧に大矢野・上津浦・栖本の五氏が天草五人衆として割拠し、相良氏、島津氏、大友氏ら近隣の有力大名の影響を請けながら、集散離合を繰り返した。

戦国時代の終焉

剣梅鉢  ところで、鎮尚は軍事力確保のためキリスト教の受容と南蛮貿易の利益享受を求め、永禄十二年(1569)アルメイダを河内浦に招きキリシタンの布教を行った。ルイス・フロイスの「日本史」にも「五人の殿のうちでももっとも重要な人物は天草殿」と記されている。しかし、鎮尚が洗礼を受けることを知った弟の刑部大輔と大和守は猛反対し、鎮尚は本渡城に立て籠った。刑部大輔らはこれを攻撃したため、鎮尚は志岐麟仙を頼った。これを知った刑部大輔らは和泉の島津義虎に助力を求めたが、鎮尚・志岐連合軍に敗れ、二人は天草から逃亡した。刑部大輔は相良氏を頼り、最期は義陽とともに戦死した。かくして鎮尚をはじめ妻や嫡男の久種らも洗礼を受け、領内に教会を立て、信者は一万二千人を数えたという。
 戦国時代の後期になると、薩摩・大隅を統一した島津氏の勢力が肥後に伸びてくるようになり、天草五人衆にも影響を及ぼしてきた。天草氏が後ろ楯とした相良義陽は、島津氏の北進に対抗するため、大友氏と結ぶようになった。しかし、天正九年(1581)、義陽は島津義久に屈し、肥後南部は島津氏が制圧した。そして島津氏と大友氏は、肥後をめぐって対立、ついに響ヶ原合戦が起こった。
 大友氏は阿蘇氏に出兵を命じ、重鎮甲斐宗運が兵を率いて出陣した。一方の島津氏は相良義陽を先陣として、これに当たらせた。甲斐宗運と相良義陽はかつて誓紙を交した間柄であったが、島津と大友の代理戦争を演じるはめとなったのである。両者はたがいの交した誓紙を焼き捨てて出陣し、響ヶ原で遭遇、激戦のすえに相良軍は総崩れとなり相良義陽は戦死した。この戦いに天草氏は相良氏に味方して出陣、天草鎮尚の弟刑部大輔が奮戦したことが知られる。
 このころ、大友氏の勢力は衰退の色を深め、代わって肥前の龍造寺隆信が勢力を拡大し、九州は大友・島津・龍造寺の三氏が鼎立状態になっていた。
 天草氏は島津氏に属して転戦、鎮尚の嫡男久種は島津義久に従っていた。天正十二年、島津氏は有馬氏を支援するかたちで、龍造寺隆信と沖田畷で戦いこれを討ち取った。ついで、大友氏攻撃を進めたが、宗麟の救援要請をいれた豊臣秀吉が九州征伐の陣ぶれを発した。島津氏は果敢に秀吉軍を迎え撃ったが、物量ともに圧倒的に優勢な秀吉軍の前に天正十五年(1587)屈服した。このとき、天草氏も秀吉に服属し本領を安堵された。
・参考家紋:天草コレジョ館の展示で紹介されている「剣梅鉢」紋

天草氏のその後

 その後、天草氏ら天草五人衆は肥後の領主となった佐々成政に従った。間もなく、肥後国衆一揆が起こると、志岐氏は安国寺恵瓊に人質を送って異心のないことを示し、天草氏もこれにならったものと思われる。一揆の結果、肥後国は北部を加藤清正、南部を小西行長が与えられ、天草氏ら天草五人衆は小西行長の支配に属した。年月不明の小西行長書状によれば、天草弾正忠(久種)は六千七百八十五石を知行していことが知られる。一方、本砥は行長に没収され伊豆守種元がその代官となった。
 天正十七年、種元は志岐麟仙らとともに、小西行長に反乱を起こしたが鎮圧され、種元ら天草一族の多くが討死した。種元らの死を見た久種は、これ以上抵抗する愚を悟って行長に降伏、本領を安堵され行長の与力となった。許された久種は、行長との関係修復につとめ、文禄・慶長の役にも行長に従って渡海した。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いにも行長に従って出陣したが、西軍の敗北で小西氏は滅亡した。戦後、所領を失った久種は、小早川秀秋の家臣となったが同氏の改易とともに天草氏は没落した。
 久種には何人かの弟があったようで、新介種景は加藤清正、寺沢堅高につかえ、さらに中川氏を経て、四国松山松平家に仕えたことが知られる。また、肥後細川氏の家中にも天草氏がみえ、八代与力衆として二百石を与えられていた。他方、久種のもう一人の弟喜右衛門の系、相良義陽とともに戦死した刑部大輔の子孫の系などが、天草氏の血脈をいまに伝えているという。・2005年4月20日

参考資料:本渡市史/苓北町史/天草郡史料 ほか】

■天草五人衆: 天草氏/ 志岐氏/ 大矢野氏/ 栖本氏/ 上津浦氏


■参考略系図
 
  


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