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大矢野氏
●帆掛船
●劉姓大蔵氏流
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大矢野氏は鎮西の大族である大蔵氏の分かれである。大蔵系図をみると、大宰大監大蔵種資の孫安永種永の子種能が大矢野十郎を称している。おそらく種能は大矢野島の地頭職に補され、大矢野を称したとみて間違いないだろう。
大矢野氏が歴史に名をあらわしたのは、蒙古襲来においてである。文永十一年(1274)の文永の役には、大矢野種保が肥後の菊池武房や竹崎季長らと出陣した。ついで、弘安四年(1281)の弘安の役には、弟の種村も兄種保とともに出陣した。兄弟の活躍は『蒙古襲来絵詞』にも描かれており、種保・種村兄弟は種能の子孫とみられる。また、絵詞には種保・種村兄弟らが桐の紋を打った旗を掲げて異国の敵に打ちかかっている様子が描かれているが、これは旗紋の記録として古いものの一つである。
・丸に五七の桐:『蒙古襲来絵詞』に見える大矢野氏の紋
大矢野氏の登場
大矢野氏は元寇の乱に種保・種村兄弟が活躍してのちの事蹟はまったく不明で、南北朝動乱の時代の動向も一切分からない。とはいえ、天草上島の上津浦を拠点として一定の勢力は維持していたようだ。
大矢野氏の動向が知れるようになるのは、戦国時代のはじめにいたってからである。このころ、天草諸氏は一揆を結び、それぞれの権益を守るとともに外敵に備えていたことが知られる。明応十年(1501)、肥後守護菊池武運の使者を迎えた天草一揆衆が談合のために参集したとき、大矢野氏は代理を送っている。ついで、文亀三年(1503)、相良氏が八代に出兵したとき、他の天草諸氏とともに相良氏に合力した。以後、大矢野氏は相良氏との関係強化につとめている。
永正二年(1505)、菊池氏の申次から天草衆に送られた書状は、宮地・長島・栖本、そして大矢野氏宛であった。
天文年間(1532〜54)になると、天草諸島でも合戦が続くようになった。天文元年、大矢野氏は天草・志岐・栖本・長島氏らと結んで、上津浦氏を攻めた。これに対して相良義滋は、上津浦氏に援軍を送り、一ヵ月にわたる戦いのすえに連合軍は敗退した。結果、天草諸将は相良氏に従うようになり、天文十三年、大矢野氏は相良長唯に使者を送り、ついで天文十五年に晴広が相良氏を継ぐと家督を祝っている。
やがて戦国時代の中期を過ぎるころになると、栖本・上津浦・大矢野・天草・志岐の五氏が天草郡を分割して天草五人衆と呼ばれた。そのころの九州は、豊後を本領とする大友氏、薩摩・大隅を統一した島津氏、そして肥前東部を抑えて勢力拡大を狙う龍造寺氏らが最大の勢力であった。
乱世を生きる
天正六年、日向に進攻した大友軍と島津軍とが高城で激突した。戦いは大友氏の敗戦となり、兵をひきあげるところを追撃をうけた大友軍は耳川において壊滅的敗北を喫した。この戦いを契機として、島津氏の肥後への進出が活発化し、それは天草にも及んだ。天正八年、天草諸氏は島津氏の命を受けて水軍を出し、玉名郡の沖で龍造寺の水軍と戦い敗れた。その結果、龍造寺隆信は天草に攻め込み、志岐麟泉は人質を出して降伏した。大矢野氏らも龍造寺に降った。
翌天正九年になると、島津義久みずからが兵を率いて肥後に出陣、相良義陽は島津氏の攻勢に敗れてその麾下に属し、響ヶ原の合戦で討死した。かくして、天草諸氏は島津氏の圧力をもろにこうむるようになった。天正十二年、島津氏は有馬氏と連合して龍造寺軍と戦い、隆信を討ち取る勝利をえた。このとき、天草勢は島津氏の命を受けて島原に出陣している。
龍造寺隆信を討った島津氏は、天正十三年、阿蘇氏を滅ぼして肥後を征服した。そして、豊後の大友氏攻略を開始し、天草諸将も豊後への出兵を命じられた。島津氏の攻勢に万事窮した大友宗麟は、上坂して豊臣秀吉に援助を請うた。ただちに秀吉は島津征伐の陣ぶれを出し、天正十五年にはみずから九州に入った。秀吉軍に接した島津軍は兵を撤収し、豊後勢と戦っていた天草勢は戦場に取り残されてしまった。
天草勢を攻撃したのは、大友氏の一族志賀親次(ドン・パウロ)で、熱心なキリシタン信者であった。親次は天草勢のなかのドン・ジョバン(天草久種)だけは命を助けようと申し入れた。これを聞いたジョバンは自分だけ助かることはできないといい、全員の命を助けてくれれば城を明け渡そうと返事を送った。パウロはジョバンの言葉に応じて一同を許し、歓待したのちに安全に肥後に送り帰した。このやりとりを見た大矢野種基は、キリスト教の教えに打たれ、のちにキリシタン信者になった。
豊後から帰郷した天草諸氏は、豊臣秀吉のもとに出向いて秀吉への服属を誓った。大矢野民部大輔は秀吉軍の水軍の将である加藤嘉明に属し、その先陣として薩摩攻めに活躍した。その後の論功行賞で、天草郡に九十町の所領をえ、さらに翌十六年には郡内に千七百五十五石を賜った。
大矢野氏、近世へ
秀吉の九州平定後、肥後一国は佐々成政が与えられた。しかし、成政は国衆への対応を誤り、肥後国人一揆が起こった。乱は制圧されたものの、責任を問われて自害した。そのあと肥後は二分されて、北部を加藤清正、南部を小西行長が与えられた。天草五人衆は、小西行長に与力として付けられた。
天正十七年、小西行長は宇土城普請の夫役を天草五人衆に課した。これに反発したのが志岐麟泉で、麟泉は志岐城に拠って反抗した。はじめ、栖本親高らは事態を静観していたが、ついには志岐氏に加担して小西行長、加藤清正らと戦った。しかし、結果は天草五人衆の敗戦で、戦後、志岐氏は天草から逃亡し、大矢野氏らは本領を没収されたうえで小西氏の家臣に組み込まれた。
その後、種基と嫡男の種量は行長に従って朝鮮に出陣、種量は順天で戦死した。そのあとは二男の直重が継ぎ、関ヶ原の合戦で小西行長が滅亡したのち、加藤清正に仕えた。加藤氏が改易されたのちは、肥後国主となった細川氏に召し抱えられ、子孫は熊本藩士として続いた。・2005年5月8日
【参考資料:本渡市史/苓北町史/天草郡史料/天草の歴史 ほか】
■天草五人衆:
天草氏/
志岐氏/
大矢野氏/
栖本氏/
上津浦氏
■参考略系図
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