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一族・部将たち
大友氏の覇業を支えた家中の存在
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大友氏における家臣団の中核的存在は加判衆であった。加判衆は家令とも呼ばれるように、本来的には大友家の私的な家政機関で、守護家の家宰に淵源するものであった。
制度的には文明期以降認められ、主として譜代家臣・弱小庶家・他姓衆などが任命されていた。しかし、義長から義鑑代へと領国の掌握が進行するに従って家政機関から国政機関へと変質していった。同時に一万田・臼杵・大神・入田など有力な同紋衆が加判衆に進出し、これを独占する勢いを見せはじめる。
このため、分国の政治的主導権をめぐって同紋衆と他姓衆の間には権力闘争がしばしば繰り返されることとなった。亨禄三年、大友一族と大神一族の対立が爆発し、武器をとっての私闘にまで発展したこともあった。天文十九年、義鑑が義鎮に与えた遺言のなかで、加判衆は同紋衆三人、他姓衆三任の六人で編成するように述べた裏にはこのような背景があった。
加判衆は大友家臣団中、最上位に位置して、領国支配の中枢的役割を果たした一種の評定衆で、大友氏の領主権力行使の具体的内容に関して同意を与えるものであった。加判衆は集団として個々の決定に参加するほか、分国を国(豊後以外)郡(豊後)単位に責任分担し、各々担当地域の軍事・行政全般にわたって専管した。
■大友氏を支えた一族、属した武将家
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■大友氏家臣団構成
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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