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一万田氏
●抱き杏葉
●大友氏一族
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一万田氏の祖は、大友氏初代能直の六男時景で、史料上では大友時景あるいは大和守景直として出てくる。また、時景は豊前国城井大和壱岐前司景房の養子となって、豊後国大野郡野鳥屋城に住んでいたともいう。
南北朝前期の建武元年〜三年(1334〜36)、宣政は大友貞戴に従軍し、その子の貞政(真政)や一万田越前入道らは、足利尊氏に従って上洛した角違一揆の中に名を列ねている。
その後、九州では南北朝の戦いが繰り返されたが、足利尊氏と弟の直義の不和から観応の擾乱が起ると、武家方は二分されて政治情勢はさらに複雑な様相を呈した。直義の養子直冬が九州に入ると、これを少弐頼尚が支持した。ここに九州は武家方の九州探題、南朝、そして題三勢力として直冬党が三つ巴の争いを展開するようになった。ときに九州南朝勢は征西宮懐良親王を菊池武光が奉じて、その勢力は隆々たるものがあった。やがて、直冬が九州探題に補任されると、窮した前探題一色範氏は南朝方に転じて直冬=少弐勢に対抗した。
その後、擾乱が直義の敗北に終わると、後楯を失った直冬は九州から脱出した。一方、一色範氏は幕府方に転じ、少弐頼尚を攻撃した。頼尚は南朝方に通じ、文和二年(1353)、菊池・少弐連合軍は筑前国針摺原で一色範氏軍を撃破した。以降、範氏は敗戦を重ね、ついに九州を逃れて京都に帰っていった。一色氏が没落すると、頼尚は武家方に転じて南朝方に対立するようになった。正平十四年(延文四年=1359)、少弐頼尚は大友氏時と連合して宮方挟撃策に出た。これに対して菊池武光は征西将軍懐良親王を奉じて筑後平野に進出、頼尚は松浦党、龍造寺氏らを率いて味坂に布陣した。
かくして、日本三大合戦のひとつに数えられる大保原の合戦(筑後川の合戦)が展開された。この合戦にあたって、一万田右京進(直能)は大友氏時に従って出陣したが、菊池軍の前に大敗を喫した。この戦いの勝利によって、南朝方は太宰府を占領して征西府を立て、以後十数年にわたる九州南朝全盛時代が現出したのである。
筑後川の合戦後、大友氏は苦しい立場に立たされたが、今川了俊が九州探題として下向してくると了俊に属して活躍した。一万田氏は大友氏の麾下にあったことと思われるが、その活動は戦国期の常泰に至るまで遥としてわからない。
乱世を生きる
戦国時代初期、大友氏の重臣として一万田常泰があらわれる。常泰は一万田直泰の子で、文亀二年(1502)四月から永正六年(1509)十月まで大友義長の加判衆をつとめ、永正五年(1508)には治部大輔を称している。ついで、天文五年(1536)八月から弘治三年(1557)六月まで大友義鑑・義鎮の二代にわたって加判衆をつとめた。その間の永正十二年(1515)四月、大野庄深山八幡宮に田地一段を寄進して、嗣子親泰に男子が授からんことを祈願したことが『深山八幡文書』に残っている。
常泰の祈願の甲斐あってか、親泰は二人の男子に恵まれ、長子親実が一万田氏の家督を継承した。次男の親敦は、天文二十一年(1552)、大友義鎮(宗隣)の弟晴英(のちの大内義長)が大内氏の家督に迎えられたとき、豊後府内より付き従って、義長を二年間にわたって補佐した。
天文二十三年(1554)、大津山城将の小原鑑元が大友家中における他姓衆の勢力挽回を図ろうとして義鎮に謀叛を起こした。弘治二年(1556)、義鎮は田原親賢を大将とした軍勢をさしむけ、その陣に親敦も加わり大津山城討伐に活躍した。ついで、弘治三年(1557)七月、筑前の秋月文種(種方)が毛利氏に通じて大友氏に反旗を翻した。親敦は戸次鑑連らとともに秋月討伐に出陣して軍功をあげ、義鎮から厚い信頼を受けた。
かくして永禄二年(1559)、宗麟の命を受けて筑前御笠郡宝満城主高橋長種の養子となり、三河守鑑種と改めた。鑑種は対毛利戦の前線にあって、数多くの戦功を立て、その功で筑前三笠郡一円と、太宰府の寺社をはじめ、軍・民両政の統轄権を与えられ、宝満城督として筑前に於ける大友氏の軍事・行政面を代表する存在となった。
一方、一万田氏惣領の親実も宗麟に仕えて重臣に列していたが、宗隣が親実の妻に懸想して、妻を奪われたうえに死に追いやられた。兄の横死を知った鑑種は宗麟の非道を恨んで、ついには叛意を抱くようになったという。
そして永禄十年(1567)、鑑種は秋月種実、筑紫惟門らと結び、毛利氏の支援を受けて反大友の兵を挙げた。これに立花城の立花鑑載も加わり、筑前全域におよぶ反大友の一大内乱となった。宗麟は戸次鑑連らをもって討伐にあたったが、鑑種は岩屋城に籠城して永禄十二年まで抵抗を続けた。しかし、毛利軍が九州から撤退したため、ついに開城降伏、一命は助けられて豊前小倉城に移された。
戦場を疾駆する
親実の嫡男鑑実は(親実と鑑実は混同されることが多い)、叔父鑑種の謀叛に与せず大友方として討伐軍に加わった。このことから、鑑種の謀叛の原因として兄親実の事件があったとしても、それ以上に毛利氏と通じて大友氏から自立しようとしたものであったとみた方が自然なようだ。
鑑実は天文十九年(1550)の菊池義武退治、弘治三年の秋月文種退治に出陣、永禄四年(1561)から末年までは連年のように筑前に出陣した。さらに、天正六年(1578)の日向侵攻にも従軍し、同年十二月から義統の加判衆を勤めた。翌七年には秋月種実退治、八年には熊牟礼の乱鎮圧など、生涯の殆どを軍陣に過ごした。しかし、単に武辺一辺倒の人物ではなく、風雅を解する趣味人でもあった。天正初年、宗麟を一万田館に迎えて大観桜会を開いたり、元亀二年(1571)には正月俳諧を興行したりしている。
鑑実の嫡男鎮実は、永禄十一年(1568)民部少輔を称し、その妻は宗麟の娘であった。同年、高橋鑑種の乱に木付氏らを率いて出陣。翌年、鶴原・宗像氏とともに立花城番を命じられたが、毛利氏のために入城できず、城外にあって肥前龍造寺氏を牽制した。五月、立花表で吉川・小早川軍と戦い負傷している。
元亀元年(1570)、大友宗麟は毛利氏と通じて自立を企てる肥前の龍造寺隆信を討つため、佐嘉城を包囲した。世に今山の戦いとよばれるもので、一万田鎮実は兵站の任にあたったことが知られる。戦いは、龍造寺軍の夜襲によって大将大友親貞が討ち取られ、大友軍は総崩れとなる敗北を喫した。
敗北を喫したとはいえ大友氏の勢力はなお隆々たるものがあり、天正五年(1577)には、島津氏に敗れた伊東義祐を庇護して、翌年、日向に兵を進めた。大友軍と島津軍は日向高城で激突し、敗れた大友軍は兵を退くところを追撃され、耳川の戦いで潰滅的敗北を被った。この敗戦で、さしもの大友氏も凋落の途をたどっていった。一方の島津氏は。天正十年に肥後の相良氏を降し、同十二年には島原の沖田畷で龍造寺隆信を討ち取り、着々と九州統一の戦いを進めていった。そして、天正十四年(1586)秋より豊後侵攻作戦を進め、大友方の武将に対して内応工作を行った。結果、入田義実・志賀親孝・同鑑隆・田北鎮利らが内応、さらに、 鳥屋城主一万田宗拶(鎮実)も島津氏に内応し、南郡には一万田鑑実が残るばかりという状況になった。かくして、島津義弘が肥後口から、 島津家久が日向口から豊後に攻め込んだ。
↑この項、親子関係など疑問点が多く、さらに調査続行中です。誤記の指摘などお待ちしています。
一万田氏の終焉
その後、豊臣秀吉の九州征伐が開始されると、島津軍は連敗して薩摩に逼塞するに至った。その間の天正十五年頃、鑑実は大野郡野津原今畠で切腹。鎮実は友義統の命により、臼杵で自刃したという。鑑実の生害は一族の罪に関してのものといわれ、島津氏の侵攻における一族の行動を咎められたものであろう。鎮実は島津氏に通じた一件を断罪されたとみられる。ここに一万田氏の嫡流は滅亡した。
ところで、鎮実の弟に民部少輔宗賢がいる。かれは、天正七年十月筑前把木郷の戦い、八年の鞍掛城攻撃、十一年十月の豊前佐野城攻撃などに出陣している。文禄元年(1592)朝鮮の役に出陣、文禄二年、大友義統の改易後は黒田長政軍のもとで戦っていることが記録に残っている。
その後の一万田氏の動向については不明点が多いが、江戸時代の肥後細川藩の『分限帳』をみると、一万田氏が見えている。一万田氏は戦国時代を生き抜き、肥後藩士として近世を生きていたことが知られる。・2005年6月27日
・隅切り角に杏葉:肥後藩細川氏家中の一万田氏の家紋
【参考資料:大分の歴史(3)/九州戦国史/大分歴史事典 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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