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三池氏
●抱き花杏葉
●中原氏流大友氏支流
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戦国時代のはじめの筑後国には、上蒲池・下蒲池・問註所・星野・黒木・河崎・草野・丹波(高艮山座主)・高橋・江上・西牟田・田尻・五条・溝口・三池の大身十五家があって、これを筑後の十五城と称した。その一である三池氏は東国系御家人の系譜をひき、鎌倉時代後半に起った蒙古襲来のころに、中原姓安芸氏が三池南郷に入部したことに始まると考えられている。
鎌倉幕府官僚中原氏
中原氏は安寧天皇の皇子磯城津彦命より発するといわれる。はじめ十市首(おびと)であったが、天禄二年(971)に十市有象が中原宿禰姓に改め、天延二年(974)に中原朝臣姓を賜ったことに始まるという。有象は少外記に任じられ、子孫は大外記・小外記に任じられることが多かった。中原氏は朝廷の事務官僚いわゆる官務家として続き、中原広忠の系統が鎌倉幕府と関係を持つようになった。
源頼朝は鎌倉幕府の成立に際して、政治機構を整備するため京都から事務に練達した公家を招いた。すなわち、三善氏、中原氏、大江氏らであった。中原親能は鎌倉御殿使として京や地方での交渉にあたり、中原師俊は政所執事となった。また、師俊の叔父師員は評定衆の一員として御成敗式目(貞永式目)に連署している。他方、政所別当となった大江広元も中原広季の養子となり、はじめは中原氏を名乗っていた。このように、中原氏は幕府内において執事というような事務統轄の役目を帯び、その事務能力の高さから幕府評定衆に欠くことのできない存在であった。
中原親能は藤原光能の子で、外祖父中原広季の養子となった。平治の乱後、伊豆に流されていた源頼朝に京の情報を送り続け、幕府が成立すると頼朝に側近として重用され、鎮西奉行も務めた。親能は能直・親実・師員・師俊・親家ら一族の子弟を養子としたことで、多くの中世武家が中原氏から分かれ出た。能直は近藤氏から養子に入った人物で大友氏を名乗り、子孫は豊後に下向して北九州の戦国大名となった。師員が三池氏の祖になったといい、『鹿子木系図』に中原親能が三池郷の地頭職を賜ったとあることから、これにちなんだものと思われる。しかし、親能が三池郷の地頭職を賜ったという確実な史料はなく、親能の名声にあやかった後世の作為であろう。
三池氏系図の考察
鎮西三池氏の場合、中原氏の後裔であることは疑いないが、その出自に関しては諸説がなされている。『姓氏家系大辞典』をみると、大蔵姓三毛(美気)氏の子孫が三池氏を称したとする説が紹介され、続いて、大友氏族・嵯峨源氏説・藤原氏説などが掲載されている。一方、三池氏の系図は、柳河三池氏のものをはじめ、善光寺、筑後将士軍談、大分三池氏、大阪三池氏など諸本が伝わっている。それらに加えて『尊卑分脉』の中原氏系図、鹿子木系図、摂津氏系図などがあるが、それぞれ異同が多く三池氏の確かな系図は不詳というしかないようだ。
ちなみに、善光寺、筑後将士軍談の系図は源師親を祖とし、柳河・大分・大阪の三池氏系図は藤原師親を祖としている。とはいえ、藤原師親は嵯峨天皇の後裔で、藤原師澄の養子になったとあり、大きく見れば源氏説に準じるものともいえよう。そして、いずれも師親より十数代をへた子孫に親能があらわれ、以後、異同をみせながら戦国時代の親泰・親盛に至っている。
他方、部分的ではあるが三池一族の確かな系譜が、『島津家文書』のなかに残されている。それは島津貞久と三池近房の女米々との間に生じた相論のなかで、島津方が反論のために写しておいた三池方の訴状に添えられた資料の一つ「三池近房申状具書案」中の系図である。同系図に安芸木工助入道の名がみえ、木工助には貞宗・女名々・近房・師近の諸子があり、女名々は島津忠宗に嫁し貞久を生んでいる。
安芸木工助入道は中原系図などから、幕府政所執事となった師俊の孫木工助貞時(定時)の孫貞宗(貞致)に比定される。系図から貞宗は木工助を称しており、嫡男の貞宗、嫡孫の貞鑑も木工助を称し、師俊流中原氏の嫡流であった。そして、大隅・薩摩の守護職である島津氏宗家と姻戚関係を結ぶほどの勢力を有していたのである。
三池氏の嵯峨源氏説、藤原氏説は後世の作為から生まれたものであり、鎌倉幕府草創期に活躍した中原氏の後裔とみるべきであろう。そして、師俊の系が筑後の国人領主三池氏に続いたとみて間違いないだろう。
三池氏の発祥
中原氏の所領は関東をはじめ近畿・四国・九州に分布しており、典型的な関東御家人であった。中原氏が三池郷の地頭職を得たのは、系図などから師俊の子貞房のころであったようだ。また、建治三年(1277)の文書によれば、定時が鹿子木西荘下村の地頭に補任されたことが知られる。
中原氏は惣領は鎌倉に居住して幕府に出仕し、全国に散在する所領の支配は庶子や代官に委ねていた。中原氏みずからが九州に下ったのは、蒙古襲来がきっかけになったものと思われる。幕府は、蒙古襲来に備えて西国に所領を持つ御家人に現地への下向を命じ、多くの武士が西遷した。さらに、蒙古襲来後の恩賞問題や所領係争を現地で処理するため、永仁五年(1297)、鎮西探題を設置した。
鎮西探題には評定衆が設けられ、訴訟のために鎮西引付衆が定められた。このとき、中原氏は代々の事務能力をかわれて、鎮西探題の評定衆に登用されたようだ。『鎮西引付記』には、安芸木工助(貞時か)が鎮西探題北条随時の代に二番引付衆の一人として見えている。九州に下向した中原氏は肥後の鹿子木西荘にいたと思われるが、鎮西探題に出仕することになったため、探題に近い三池荘に移住したようだ。
十三世紀はじめの鎮西中原氏の惣領は「安芸木工助」を名乗り、三池と呼ばれることも、自ら称することもなかった。では、安芸木工助を称した中原氏はいつごろから三池氏と呼ばれるようになったのだろうか。名字は官職や所在地により呼ばれるもので、三池の地を支配していても居住しなければ発生しえなかったであろう。
正慶二年(元弘三年=1333)の『鎮西探題下知状』には「三池木工助」とみえており、鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が発足したのちの建武三年(1336)の段階では、「安芸木工助」「三池安芸木工助入道」「三池木工助」と種々の表現がみられる。そして、建武三年の軍忠状で「安芸助太郎中原貞元」と自称しているが、貞元に宛てられた書状には「三池助太郎」とある。
西遷御家人の一であった中原氏は、貞元の代より三池を本拠とする武士というイメージが固定していったようである。 それは、三池中原氏が筑後に土着し、国人領主としての一歩を踏み出したことを示すものでもあった。
南北朝の争乱
さて、元弘から建武の争乱時の三池氏の惣領は木工助貞鑑(道喜)であった。建武二年(1335)、中先代の乱をきっかけとして足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻すと、貞鑑は少弐頼尚らとともに尊氏に味方した。翌年、京都から九州に逃れてきた尊氏一行を赤間関に出迎えた武士のなかに、貞鑑の嫡男貞元も加わっていた。その後、尊氏は菊池武敏の指揮する九州官軍と多々良浜で戦い、劣勢を覆えして大勝利をえた。太宰府に入って九州を平定した尊氏は、仁木義長を九州の抑えとして残すと、ふたたび京に攻め上った。このとき、貞元は尊氏から仁木氏に助勢するように命じられ、以後、三池一族は九州武家方として活躍した。
尊氏によって京都を制圧された後醍醐天皇は吉野に奔って朝廷を開き、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開いた。かくして、南北朝の争乱が展開することになる。やがて、尊氏は一色範氏を九州探題に任じて武家方の抑えとし、一方、後醍醐天皇は懐良親王を征西宮将軍として九州に下した。ついで、尊氏と弟直義の対立から観応の擾乱が起こると、直義の養子(実は尊氏の庶長子)直冬が九州に入った。懐良親王は肥後の菊池武光に奉じられて勢力を拡大、直冬は少弐頼尚の支援を得てにわかに勢力を伸長、それらに探題一色氏が対抗して九州は三つ巴の抗争が展開された。
尊氏は大友氏、阿蘇氏、三池兵庫助親元*らに直冬討伐を命じている。兵庫助親元は、三池氏の惣領貞元が改名したものと思われる。このころ、親元は家督を嫡男の頼親に譲っている。南北朝の内乱は遠隔地の所領維持を困難にし、居住している地域との密着力が強まった時代であり、頼親の代に三池の名字が定着し、頼親は本姓に「藤原」を用いている。こうして、鎌倉幕府の文官系の武士であった中原三池氏は、国人領主としての道を歩み出すのである。
擾乱が直義の優勢に展開すると三池氏は直冬に属するようになり、一色氏と菊池氏とが連合するとこれに通じた。そして、正平六年(1351)、頼親は懐良親王に属して、肥後・筑後を転戦した。その後、直義が敗れて殺害されたことで、後ろ楯を失った直冬は九州から去り、武家方に転じた少弐氏も筑後川の戦いに敗れて、九州は南朝方の全盛期が現出した。
幕府は九州の頽勢を挽回するため、今川了俊を九州探題に任じて下した。三池氏は少弐・千葉氏らとともに了俊に属した。そして、至徳二年(1385)、三池康親は将軍足利義満から肥後国玉名郡伊倉北方地頭職を与えられ、同四年には幕府管領斯波義将から肥後国鯰郷を兵糧料所として安堵されている。三池氏が了俊に属して活躍、幕府から重視される存在であったことがうかがわれる。
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:『島津文書』では、親元は貞元の従兄弟とあり、親元の子親頼が貞元のあとを継いだことになっている。
戦国乱世の始まり
明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、ほどなく今川了俊は九州探題職を罷免されて京都に召還された。その後任には渋川満頼が任じられ、九州はあらたな政治体制下におかれた。三池康親は探題に属し、満頼から筑後国分寺内河崎分を兵糧料所として預けられている。南北朝が合一したとはいえ、菊池武朝、五条頼治らが後征西将軍良成親王を奉じて、いまだ勢力を保っていた。肥前と筑後の境に位置する三池を領する三池氏の存在は、幕府や探題にとって無視できなかった。
ところで、筑後守護職は南北朝時代より大友氏が保持していたが、永享四年(1431)、菊池持朝が肥後守護職に任じられた。寛正三年(1462)、幕府が筑後半国の守護職を大友政親に与えたことで、菊池氏と大友氏との間に不穏な空気が漂うようになった。寛正六年、菊池為邦は弟の為安を筑後に出陣させ、これに黒木・三池・溝口ら筑後の国衆が味方した。戦いは菊池方の敗北となり、為安は戦死し、『三池系図』によれば「三池玄蕃允 寛正中内山城に於いて戦死」とある。戦いの結果、筑後守護職は大友氏に与えられ、以後、筑後をめぐって菊池氏と大友氏の小競り合いが続いた。
文明九年(1477)、菊池重朝は筑後に出陣して大友軍と対峙した。このとき、三池氏は菊池方に味方して参陣したようで、その後も三池氏は菊池氏に通じて大友氏の支配に抵抗を繰り返した。一方、重朝が死去したのち肥後守護菊池氏は内訌に揺れ、次第に衰退の色を濃くしていった。文亀元年(1501)、菊池能運は一族の宇土為光の謀叛によって肥後を逃れて島原に亡命するということもあった。その後、能運は肥後に復帰したが、それを援けたのは筑後の国衆らであった。
能運の死後、菊池氏は一族の政隆が家督を継いだが、重臣の下剋上、大友氏の介入などによって、政隆は菊池氏から追放された。永正六年(1509)、肥後復帰を図る政隆が筑後から臼間庄豊永に入り、大友軍と戦った。三池氏は小代氏らとともに政隆を支援したようだが、政隆は捕えられて自害した。すでに、菊池氏当主の座は、重臣たちの思惑に左右される存在に過ぎなかった。
永正十七年(1520)、大友義鑑の弟重治が菊池氏の当主となり、のちに義武と名乗った。隈本城に入った義武は次第に傲慢な態度を見せるようになり、大友宗家からの独立を図って兄義鑑と対立するようになった。これに三池親盛・西牟田親毎・蒲池能久ら筑後の国衆らが味方して、天文三年(1534)、反大友の兵を挙げた。この戦いで、三池親盛は没落したようで、嫡男と思われる親員が三池氏の当主として登場する。系図によれば、親員は親盛の弟とするものもある。
打ち続く戦乱
天文年間(1532〜55)のころの筑後国には、大身十五家があって、筑後十五城主と称された。そのなかの最大のものが柳河の蒲池氏で、三池氏もその一に数えられていた。
天文十九年(1550)、大友家に家督相続をめぐる内紛が起こり、大友義鑑の嫡子義鎮が庶子の塩市丸派を粛清して当主の座についた。世に「大友二階崩れ」といわれる事件で、大友氏と密接な関係にある筑後国人にも影響を与えた。
この年、義鎮の叔父で肥後の菊地氏を継いでいた義武が反大友の軍事行動を起こすと、西牟田親氏、三池親員、溝口鑑資らは義武に応じて大友に背いた。しかし、豊後勢が筑後に進攻してくると三池氏らは次々と大友氏に降伏した。乱後、親員は没落したようで、三池氏は親員に代わって親高が登場する。
翌二十年、大内義隆が、重臣陶隆房(晴賢)の謀叛で殺害された。義鎮の弟晴英(義長)が大内家の当主に迎えられたが、実権は晴賢が掌握した。ところが弘治元年(1555)、陶晴賢は厳島の合戦で毛利元就で倒され、その二年後には大内義長も毛利勢に討たれた。かくして、大内氏の版図を支配下においた毛利氏が、豊前・筑前への進攻を開始するようになる。
これまで大友氏に従っていた筑前・豊前の諸将の間に動揺が走り、古処山城の秋月文種、肥前勝尾城の筑紫惟門らは毛利氏に通じて、大友氏に反旗を翻した。秋月・筑紫氏らは、大友氏の討伐軍に敗れて没落したが、以後、筑前・豊前をめぐって大友氏と毛利氏の抗争が繰り返された。永禄九年(1566)、筑前岩屋・宝満山城の城督高橋鑑種が毛利氏に通じ、秋月・筑紫氏らと結んで大友氏に謀叛を起こした。
翌永禄十年、戸次鑑連を大将とする大友軍は岩屋城を攻略すると、古処山城に向かったが、毛利の大軍が出撃したとの報に一旦兵をひいた。この大友軍の撤退をみた秋月種実は、夜襲をもって大友軍を散々に打ち破った。この戦いは「休松の合戦」と呼ばれ、討伐軍に参加していた三池親高・親政・親邦の兄弟がはことごとく戦死した。この大友軍の敗北によって、筑前・豊前の諸将は毛利氏に転じ、大友方の立花城将立花鑑載までが大友氏から離反した。
親高が戦死したのち、嫡男の鎮実があとを継いだ。鎮実の鎮は義鎮の一字を賜ったものであり、家督を相続したときには太刀・甲・馬などが大友氏から贈られた。大友氏は親高をはじめとした三池一族の戦死を悼み、鎮実に篤く報いたのである。永禄十二年、立花山城をめぐって毛利氏と大友氏の間で攻防があり、鎮実は戸次鑑連に属して奮戦した。
戦国時代の終焉
大友氏は義鎮の代に最大の版図を築きあげたが、天正六年(1578)、日向高城・耳川において島津氏と戦い壊滅的敗北を喫した。以後、さしもの大友氏も衰退の一途をたどることになる。
大友氏の敗戦後、龍造寺隆信は二万余の軍勢をもつて筑後に出兵した。下蒲池鎮並・草野鑑員・西牟田鎮豊らは隆信に従ったが、三池上総介鎮真は上蒲池鑑広らとともに龍造寺氏に抵抗して、今賀城に立て籠った。大友方の抵抗に手を焼いた隆信は、鉾先を変えて筑前に転進していった。
翌天正七年三月、隆信は二万三千の大軍を率いてふたたび筑後に出陣してきた。このとき、山門郡鷹尾城主の田尻鑑種が隆信に帰服した。幸先よしと喜んだ隆信は、今賀城の三池鎮実を討つため軍を進めた。田尻鑑種は鎮実と姻戚関係にあったことから、人質を出して降伏するように勧めたが鎮実はこれを拒否した。龍造寺軍は周辺の青田を刈り取ると、今賀城に攻めかかった。先陣は田尻氏がつとめ、二陣蒲池、三陣鍋島、四陣神代、五陣横岳、さらに筑紫広門、豊饒鎮連らの大軍が一斉に突撃した。
三池鎮実以下の城兵は、龍造寺の大軍を相手によく防戦した。やがて、田尻、蒲池の一、二陣が城門を破ったが、鍋島、神代勢は二の木戸から進めず、早朝に開始された戦いは十時間以上におよんだ。夕刻になって大雨となり、龍造寺軍はひとまず兵を引いた。この夜、これ以上の抵抗は無理と悟った三池鎮実以下の城兵は、おりからの風雨にまぎれて出奔し戦いは龍造寺軍の勝利に終わった。
その後、三池鎮実は龍造寺氏に属し、天正十五年、秀吉の九州遠征後の論功行賞により所領を安堵され、立花宗茂の与力となった。文禄の役に際しては朝鮮に渡海し、異郷の地で戦死した。そのあとは、源十郎鎮家が継ぎ、立花宗茂から二千百五十石を賜った。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に、親家・親氏・親光兄弟は立花宗茂に従って出陣、大津城攻めに功があった。しかし、戦いは西軍に敗北に終わり、柳河に帰った宗茂は鍋島氏の攻撃を受けた。その間、親氏は大津で戦死し、親光は鍋島との戦いに戦死した。親家は柳河を改易処分になった宗茂に従って肥後に退き、そこで二十八歳の若さで死去した。子の親頼が慶長十三年に至って加藤清正から八百石の合力をえたが早世し、弟の親頼は立花宗茂が柳河城主に復活すると立花氏に仕えた。また、親高の弟という親有の子孫は熊本細川藩に仕えたという。・2005年05月05日
・組角に杏葉:肥後藩細川氏家中の三池氏の家紋
【参考資料:熊本県史・中世編/続・三池大牟田の歴史/大牟田市史/地域史研究と歴史教育 ほか】
■参考略系図
・三池氏の系図は諸本あって、それぞれ異同がある。ここでは、「大牟田市史」に紹介されていた三池氏系図をベースに作成したものを掲載した。→諸本系図合体系図へ
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