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吉弘氏
●抱き杏葉
●秀郷流大友氏庶流
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吉弘氏は大友田原氏の庶流である。すなわち、大友能直の子泰弘が田原氏の祖となり、その曾孫貞広の弟正賢(正堅)が吉弘氏の祖となったものである。応永二年(1395)当時、室町幕府の「小番之衆」に編入された有力在地領主であった。
吉弘氏の勢力伸張
武蔵川の支流吉弘川の上流に、吉弘正賢が戦勝と五穀豊穣を祈願して、勇壮な「吉弘楽」を行ったという楽庭八幡宮がある。正賢はその南方にある丘陵上に、吉広城を築き吉弘を名乗った。また、正賢は悟庵禅師を開山に招いて吉広城の山麓に永泰寺を開創した。永泰寺は吉弘氏の菩提寺となり、いまも吉弘氏累代の位牌が祀られている。
康永二年(1343)七月付けの田原正堅軍忠状には「豊前蔵人三郎入道正曇代子息又三郎入道正堅申す軍忠の事」と記載され、正堅は吉弘正賢の法名であったことが知られる。正堅は南北朝の争乱に際して、父田原直貞(正曇)の代理として肥後国菊池など各地を転戦、多くの戦功を挙げた。観応元年(1350)八月、正曇は嫡子貞広に筑後三瀦郡田口村西方三分一地頭職以下五ケ所の所領を譲与、このときに庶子の吉弘正堅・富永直幸・俣見直泰にも所領の一部が与えられたようだ。
のちに、吉弘氏の本拠地は都甲荘となるが、永享九年(1437)には吉弘石見守綱重が都甲荘に入部していた。そもそも、都甲荘は大蔵氏流都甲氏が地頭であった。都甲氏は南北朝の争乱期に武家方に属して活躍、康安二年(1362)九州探題斯波氏経は、都甲千代王に六郷山執行のもとでの北浦辺の警護を命じている。
六郷山執行は在地武士に対して軍事指揮権をもち、武士の統率者たる一面も有していた。綱重の男子円仲は六郷山中山本寺の長安寺に入山し、六郷山執行となった。吉弘氏は領主としての政治・経済的支配を確立するとともに、一族の者を六郷山に入れて執行とすることで、その宗教的権威と衆徒などへの軍事指揮権を掌握、国東半島に確固たる地位を築いていったのである。
ところで、都甲荘に入部した吉弘氏は、屋山の麓に筧城を築き平時の居館とし、有事の際は屋山城を詰城にしていた。筧城の位置は諸説あって不明であるが、屋山城の築城時期については、吉弘親信築城説と吉弘氏直築城説がある。親信と氏直は親子だが、両説ともに決定的な証拠に欠けているのが実状である。
吉弘氏の奮戦
吉弘親信・氏直父子の時代は、文字通り戦国乱世で、大友氏は北九州を舞台に大内氏と抗争を繰り返していた。天文元年(1532)、大内氏勢が豊前妙見岳城に入ると、大友義鑑も兵を豊前に入れて妙見岳城を攻撃した。天文三年になると、大内義隆は陶興房・杉長門守を大将として、豊前中津郡に兵を送った。対する義鑑は、吉弘石見守氏直、寒田三河守親将を大将に命じて、豊前に出兵させた。
氏直らは大内勢は地蔵峠か立石峠の方向から進撃してくると判断して、軍勢を三隊に分け、本陣を大村山の山頂に置いた。そして、地蔵峠には志手泰久・野原昌久を、立石峠には田北鑑生・ 木付親実・都甲氏らを配した。大友氏の布陣を知った大内勢は、大内氏の裏をかいて勢場ヶ原に野陣し、大村山の本陣を襲撃した。この事態に広瀬美濃守は、氏直に地蔵峠・立石峠の兵が返してくるまで待つべきだと建言した。しかし、血気にはやる氏直は、大内軍は疲労しており小勢でも勝利を得ることができると言うや、山を馳せ下り大内軍に突撃した。
やむなく寒田親将・広瀬美濃守らも氏直に続き、両軍激戦となった。氏直は大友軍の先頭に立って奮戦したが、乱戦のなかで討たれ、氏直を助けようとした寒田親将・広瀬美濃守らも討死をとげ、大友軍は散々な敗北となった。その後、地蔵峠・立石峠の兵が戦場に駆け付けたことで攻防は逆転し、杉長門守は戦死、陶興房は負傷、大内軍は支離滅裂となって退去していった。戦いは緒戦を大内氏が制し、のち大友氏が勝利を得たことになり、痛み分けに終わったといえよう。いまも、大村山の頂上には吉弘氏直・寒田親将らの供養碑が残されている。
氏直の戦死後、嫡男鑑理が家督を継承した。鑑理は大友義鎮の側近として重用され、永禄四年(1561)申次職を務め、吉岡長増・臼杵鑑速と並んで「豊州三老」の一人として大友義鎮から厚い信頼を得た。永禄十三年(1570)当時、吉弘鑑理の寄騎に右田三介・賀来四郎、被官人に舌間備後守・諸田五兵衛尉・同右馬助・都甲帯刀允・屋田監物允などが確認できる。
大友氏を支える
鑑理は大友義鑑の娘を妻とし、吉岡長増が去ったのち、臼杵鑑速・戸次鑑連とともに大友氏を支えた。臼杵鑑速は政、戸次鑑連が武に秀でていたのに比して、鑑理は政と武の両方を過不足なくこなし宗麟政権下で軍事・行政に辣腕を振るった。また、鑑理の率いる吉弘一族からは多くの忠将・勇将が輩出した。筑前の要衝・立花城城督に予定されたが、元亀二年(1571)ごろ病死した。立花城城督には戸次鑑連が選ばれ、鑑連は立花と改め道雪と号した。
吉弘氏の家督は嫡男の鎮信が継承し、博多・堺の商人との交渉などに活躍した。また、鎮信の弟鎮種は筑前宝満城の高橋鑑種が謀叛で失脚したのち高橋氏の名跡を継ぎ、岩屋・宝満の両城主として活躍した高橋紹運である。
一時は、九州を併呑するほどの勢威を誇った大友氏であったが、天正六年(1578)、伊東氏の要請を入れて日向に出兵、日向高城において島津軍と戦い敗れると、一気に凋落の色を深めていった。鎮信も大友軍の一翼を担って日向に出陣し、高城における戦で戦死した。鎮信のあとは統幸が継ぎ、衰運の大友氏の頽勢挽回に尽力した。
大友氏を敗った島津氏は、天正十二年、肥前の龍造寺隆信を討ち取り、筑後・筑前方面にも兵を進めるようになった。島津氏の攻勢に対して高橋紹運は、降伏勧告を蹴って岩屋城に籠城した。島津軍五万に対して、紹運に従う兵は七百六十三名であった。しかし、その寡勢をもって半月に渡って島津軍の攻撃を防ぎ、戦国史上でも類をみない壮絶な全員玉砕を果たした。
やがて天正十五年、豊臣秀吉の九州征伐によって島津氏は降伏し、大友吉統は豊後一国を安堵された。しかし、吉統は文禄の役において、卑怯な振舞いがあったとして、改易処分となり大友氏は没落した。大友氏改易後、吉弘統幸は豊前中津城主黒田如水に招かれ厚遇を受けたが、のちに従兄弟の筑後柳河城主立花宗茂に知行二千石を賜り、家臣に取り立てられた。
吉弘氏の終焉
ところが慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起ると大友家再興を企図する吉統は西軍に属し、豊後に入った。統幸はかつての主君吉統のところに駆け付け、石垣原の合戦に参陣した。戦いは大友軍の劣勢であったが、統幸は得意の槍を振るって黒田軍に果敢に挑み華々しい討死を遂げた。
その後、統幸は吉弘神社に祀られ、墓はその裏にある。このように吉弘氏は大友家のために最後まで、身命をかけ忠節を尽くした。まさに武士の鑑として誉高い家柄であったといえよう。
【参考資料:九州戦国史/戦国武将家臣団事典/大分歴史事典 ほか】
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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