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佐伯氏
●三つ巴/三つ鱗
●大神氏族緒方氏後裔
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佐伯氏は豊後の大族大神氏の一族である。『平家物語』によれば、大神氏の祖大太(惟基)は高知尾明神の神子となっている。一方、『大神氏系図』や『大友興廃記』などには、祖母嶽大明神と堀河大納言伊周の女との間に生まれた神子となっている。しかし、これらの説は大神氏の始祖惟基の所生を神秘化したものにほかならない。豊後大神氏は、宇佐八幡宮の大宮司であった大神氏の一族で、「延喜式」にも「凡そ八幡神の宮司は大神・宇佐二氏」とみえている。
源平時代、惟基五代の孫緒方三郎惟栄(惟義)は平氏に属したことから常陸に配流され、のち赦されて佐伯庄に住し、その子孫が佐伯氏を名乗ったとされている。佐伯氏が豊後大神氏から出たことは疑いないようだが、緒方流とするには問題があるようだ。
『佐伯市史』によれば、天慶の乱(939〜941)に藤原純友の次将となった佐伯是基は、海賊を率いて佐伯院を襲い、収納してあった官財を略奪したとある。また大神惟基から分かれた子孫には、佐伯三郎、佐伯四郎など佐伯の地名に輩行を添えて呼ぶものが多い。これらのことから、大神惟基と佐伯是基とは同一人物で、是基(惟基)は佐伯を領してそれを子孫に伝え、佐伯氏の名字が定着したものと考えられる。そして、それは平安時代末期から鎌倉時代の初めにかけてのことであろうと推察される。
・三つ鱗紋:緒方氏の代表紋で、佐伯氏も用いた。
南北朝の争乱
中世に入ると佐伯一族は地頭職を帯び、豊後南部に勢力を振るった。文献をみると本庄・地頭御家人五代佐伯惟直や同族の堅田・長田・田北氏の名が散見し、地名を名字となした多くの有力支族を分出している。弘安(1380年ごろ)の「豊後国図田帳」には佐伯氏が佐伯荘を領していたことが記され、宗家の佐伯政直(惟直)が本庄百二十町、分家が堅田村の半地三十町を領したとある。そして、政直のあと惟宗、惟仲と続き、惟仲の代に南北朝の争乱に遭遇した。
元弘三年(1333)、少弐貞経・大友貞宗らが鎮西探題を襲撃して、北条英時を討ち取った。このとき、佐伯氏は大友一族の戸次・田原氏らとともに大友貞宗に従って出陣している。以後、佐伯氏は大友氏に属して武家方として行動した。南北朝の動乱が始まると、足利尊氏は日向守護に畠山義顕を任じて日向に派遣、これに土持氏、伊東氏らが味方して、宮方の肝付兼重を討伐した。義顕に応じて佐伯備前権守は肝付氏を攻め、尊氏から御教書を与えられている。
その後、九州では征西宮懐良親王と菊池氏の連携によって南朝方の勢力が振るい、太宰府は征西府の支配するところとなった。大友氏時も征西府に屈服、南朝方となっていた。その間、佐伯氏は武家方として行動していたようで、正平二十年(1365)、佐伯山城守惟賢は北朝後光巌院から院宣を下されている。やがて、今川了俊が九州探題として下向してくると、次第に南朝勢力は衰退の一途をたどるようになり、ついに明徳三年(1392)には南北朝の合一がなった。
かくして九州探題として抜群の成果を示した了俊であったが、その権勢を警戒した将軍足利義満によって探題職を解任され京に召還された。その裏には、自己勢力の拡大を目論む大友、大内氏らの讒言もあったという。了俊のあとの九州探題には渋川氏が任命され、大内氏は新探題の支援を命じられ北九州に勢力を伸ばしてきた。それに対して、少弐氏と大友氏は連合して九州探題=大内方と対立した。
大友氏の麾下に属す
大内氏は豊前・筑前の守護に任じられ、着実に北九州に勢力を拡大していった。一方、大友氏は豊後・筑後の守護職を安堵され、少弐氏も隠然たる勢力を保持し、北九州を三者鼎立の状態が続いた。永享二年(1430)、大内盛見が豊前の大友氏領を侵した。これに対して大友持直は、少弐氏と結んで盛見と戦い、翌三年筑前深江において自害に追い込んだ。将軍足利義教は代官でもある大内盛見を殺害した大友持直に対して討伐命令を下し、持直から豊後・筑後の守護職を奪い取った。
永享七年、大内持世は中国勢を率いて豊後に攻め入り、敗れた持直は姫嶽に立て籠った。佐伯惟世はこの争乱に際して、持直に味方して幕府軍を迎え撃った。激戦が展開されたが、翌年八月、姫嶽は落城して持直はいずこかへと遁走した。大神氏佐伯系図によると惟世の妹は持直の妻になっており、その縁から惟世は持直に味方したのであろう。
嘉吉元年(1441)周防の大内氏が豊後に侵攻したとき、惟世は宇山城に大内軍を迎えて攻城戦の末、大内軍を堅田川に追い落とす勝利をえた。この年の六月、将軍義教が赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱がおこり、幕府体制は大きく動揺した。
以後、幕府内部では権力闘争が繰り返され、幕府の権威は次第に失墜していった。さらに、将軍継嗣問題が起り、ついに応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が勃発した。九州でも周防の大内氏と筑前の少弐氏との対立が続いており、それに豊後の大友氏が絡まって、三つ巴の抗争が繰り返されていた。世の中は確実に戦国時代へと突入していった。
佐伯惟治の乱
惟世のあとを継いだ惟治は、大永年中(1521-28)、南海部郡弥生に栂牟礼城を構築して豊後の南口を固めていた。そして、栂牟礼城を中心に東方は佐伯湾を望み、西方は因尾穴囲砦を備え、南方には八幡山砦、宇山城・竹田城、さらに日向口に用来城、朝日岳城の支城網を張り巡らせるなど、乱世に対する備えに万全を期していた。
『栂牟礼実録』によれば、惟治は僧春好を寵愛して魔法を行い、領民を苦しめ、家臣の諫言を聞かなかった。また、大友家に対して勤仕を怠り、佐伯氏と大友氏を同格と心得、嫡子千代鶴を御曹子と号したとある。さらには謀反を志し、その願望達成のため神社仏閣を建立していると讒言された。大友氏から謀反の疑いをかけられた惟治は、義鑑のもとに家臣を派遣して弁明しようとしたが容れられず、義鑑はこれを斬殺した。
他方、『史料綜覧』には、惟治が肥後国の菊池義武と通じて大友義鑑に背いたので、臼杵長景に命じて攻めさせたとある。菊池義武は義鑑の弟で、菊池家を継いで守護となった。兄の義鑑と不仲で、大永六年(1526)、義武は星野親忠らと通じて、豊後府内 を攻めようとした。これに惟治も加担し、義鑑は臼杵長景らには栂牟礼城を攻めさせたという。佐伯惟治が肥後勢力と結んで大友家に謀反を起こす可能性は否定できないが、それを裏付ける確実な史料はない。
いずれにしろ、佐伯惟治は大友氏への謀叛を策し、大永七年、臼杵城主臼杵長景を大将とした大友軍が栂牟礼城を包囲した。惟治の申し開きも許されず、栂牟礼城合戦の火蓋が切られた。もとより栂牟礼城は堅固な城であり、臼杵勢も攻めあぐねた。一計を案じた臼杵長景は、惟治に対して、一旦、日向に退き、時期をみて大友義鑑に申し開きするように説得した。これを入れた惟治は、臼杵長景に誓書を差し出して開城、僅かな手勢を引き連れて日向へ退散した。そして日向へ落ちのびる惟治は、高千穂で大友勢に通じていた地侍に襲われて無念の最期を遂げた。
ところで、『大分県史』中世篇によれば、惟治の乱は佐伯家督をめぐる一族間の相剋があったとしている。すなわち、佐伯氏は惟世のあと、惟治・千代鶴系と惟安・惟常系とが対立していた。また、十六世紀のはじめの大友家中では、大友家同紋衆と他紋衆との対立が起っていた。大友氏は領国統治を安定たらしめるため、他姓の雄佐伯氏の勢力を失墜させようと考えた。そして、佐伯一族間の対立を利用して佐伯惟治討伐を実行、大友氏の政権安定をもたらしたのだという。
豊後からの退転
惟治の乱によって惟治・千代鶴系が滅亡したのちは、惟安・惟常系が家督を相続したが、勢力を大きく後退さえたことは否めない。その後、惟教の代に至って勢力を回復することになる。
惟教は『大神姓佐伯氏系図』によれば惟常の子紀伊守惟益の子とあり、『豊後国志』では惟常の子とある。惟教の初見は、天文十九年(1550)に起った「二階崩れの変」を記した『大友興廃記』においてである。それによれば、変に際して大友義鎮を奉じて府内を制圧、信任を得たというがそれを裏付ける史料はない。
史料上にあらわれるのは弘治二年(1556)、姓氏対立事件においてである。姓氏対立事件とは、大友義鎮の実弟で大内家の家督となった義長と毛利元就の対立、それに連動した豊前の動乱に乗じて、大友家内部で発言力が後退しつつある他姓衆が巻きかえしに出たというものであった。事件の中心人物は肥後方分の小原鑑元、本庄新左衛門尉、中村新兵衛尉長直らであった。小原・本庄・中村らの謀議が露見し成敗されたことで事件は収束されたが、小原らと連絡を取り合っていた惟教はきびしい追求を受け、伊予国に退去してしまった。
宣教師たちはこの反乱事件を「国王は謀反の大身数人を殺さしめ、己は安全に之が対策をなすため、城の如き島に逃れたり」「豊後の王は火と武器を以て叛逆の嫌疑ある大身等を攻め、十三人の大身の家を焼き、家族及び家臣を滅したり」と報告している。また、『大友家文書録』は、「この年、佐伯惟教義鎮を恨むことあり、 男惟真等氏族家人を率い、 栂牟礼城を去り、退きて伊予国に住す」とあり、『薬師寺文書』からも惟教の四国退去は確認される。
大友氏の重臣に列す
永禄十一年(1568)、筑前立花城主立花鑑載が毛利元就と通じて宗麟に反した。この情報に接した惟教は、翌年佐賀関 に上陸し臼杵鑑速に宗麟への取りなしを頼み、許しを得て栂牟礼城に復帰した。かくして、大友家の帰参を果たした惟教は、間もなく加判衆の一員となり政権中枢部に関与するようになった。
このころ、大友氏は土佐国司の一条氏と結んで、伊予への進攻を行っていた。当然ながら土佐一条氏と伊予西園寺氏との間は不穏なものとなり、ついに元亀三年(1572)ころ宗麟の娘婿一条兼定と伊予の西園寺公広とが衝突した。宗麟は佐伯惟教に兼定の救援を命じ、惟教は大友水軍の将として公広を攻略する活躍を示した。
佐伯惟教の名が史上に刻まれたのは日向との関係においてであった。佐伯氏は日向松尾城主の土持氏と姻籍関係にあり、惟教の妹は土持親成の室であった。また、天正年間(1573〜92)は、大友氏と島津氏が死力を尽くして九州の覇権を争った重大な時期になった。戦国時代の日向国は伊東氏の勢力が強大で、義祐の代になるとその大半を領して、島津氏との抗争を繰り返していた。一方で伊東義祐は、北方の土持親成とも不仲で合戦の止むときがなかった。
天正五年(1577)、親成は島津義久と結んで伊東氏を攻撃、連合軍の激しい攻撃で佐土原城を脱出した義祐は、豊後に逃れて大友氏の庇護を受けることになった。これをきっかけとして、これまで大友氏に臣従していた土持氏は島津の麾下に入った。これをみた惟教(入道宗天)は日知屋・門川・塩見の三城主に対して、団結して島津氏に当たる覚悟があるなら援軍の派遣の用意がある旨を伝え、土持親成にもその真意を糾すための使者を派遣している。天正六年の春、大友義鎮(宗麟)・義統父子は伊東氏の旧領回復を名目に日向侵攻を開始した。
かくして天正六年(1578)、宗麟は伊東一族を道案内として日向に三万余の大軍を派遣、先鋒は佐伯惟教と志賀親教がつとめた。土持氏の拠る松尾城はよく防いだが、ついに落城して土持氏は滅亡した。宗麟は日向の要衝を固めるために、佐伯惟教の軍勢を延岡に駐屯させた。
耳川の合戦
同年七月、島津義久も日向に兵を進めたが、大友方の備えは堅く島津勢は退いていった。この勝利に宗麟は大いに気をよくして、島津打倒を果たそうと豊後を発した。その兵力は五万余の大軍にふくれ上がったとされる。宗麟の出兵を聞いた島津方も軍を発し、石城に籠る伊東勢を攻撃、これを追い落とした。島津家久は退却する伊東勢を追ったが追いつけず耳川に後退してきた。このころ、耳川付近まで南下してきた大友軍の先鋒佐伯惟教の軍と偶然遭遇し、戦闘が繰り広げられることとなった。
家久は高城に入り、大友軍と対峙したが大友軍の包囲により五十余日を経過、ついには落城寸前となった。この危機を受けて島津義久は四万余の大軍をもって鹿児島を発し、十一月佐土原に到着すると本陣を構えた。そして、天正六年十一月十二日未明、両軍は激突、高城川畔は敵味方七万余の大軍が入り乱れての大乱戦となった。
これを見て、高城の島津家久も打って出てきた。腹背に島津軍の攻撃を受けた大友軍に、にわかに敗色が広がりだした。『豊薩軍記』には「佐伯紀伊介入道宗天、嫡子弾正少弼惟真、次男新助鎮忠も少しも臆せず(中略)槍に突かれ、矢に中り被たる甲も朱になり、人馬ともに疲れければ父子三人乱軍の中に討死す。(攻略)」と佐伯一族の奮戦ぶりと佐伯父子らの討死の様子が記されている。
この合戦は「高城・耳川の戦」と呼ばれ、九州戦国史の画期をなす戦いとなった。戦いの結果、九州六ケ国を征服し全盛を誇った大友氏は、衰退の一途をたどることになった。島津氏は九州統一の戦いを展開し、ついには豊後一国を保つばかりに衰微した宗麟は、天正十四年、大坂に上って豊臣秀吉に支援を求めた。そして、秀吉の九州征伐と島津氏の降伏によって、大友氏はどうにか滅亡を免れることができたのである。
その後の佐伯氏
耳川の戦いで惟教・惟真らが戦死したのち、惟真の嫡男惟定が家督を継いだ。天正七年以降、栂牟礼城に拠って島津軍の北上をよく食い止めた。やがて、天正十四年(1586)十月、島津家久軍が日向より豊後に侵入し、惟定に降伏の使者を送ってきた。惟定はこれを拒否し使者を斬り捨て、島津軍への闘志を奮い立たせた。そして、島津軍を各地で撃退し、島津方に寝返った諸城の回復に努めた。このような惟定の働きに対して豊臣秀吉は感状を与え、九州征伐では豊臣秀長軍の道案内を務めるなどして佐伯氏の武名をおおいに高からしめた。
その後、文禄二年(1593)の役において朝鮮に渡海した大友義統が、不忠のことありとして秀吉の怒りをかって所領を召し上げられて没落した。この大友氏の没落によって、佐伯氏も四百年にわたり定住してきた豊後を去ることになった。豊を退散した惟定は羽柴秀保を頼り、その家臣藤堂高虎に仕えた。高虎の伊予入国時に二千石を給され、第二次朝鮮の役には、藤堂軍の一員としてふたたび朝鮮半島に渡海した。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では伊予板島城の留守を任され、戦後、伊勢津に転封された藤堂氏に従って津に移り、藤堂藩士として領内各地の城普請を務めた。大坂の両陣にも従軍し、八尾の戦いで先鋒が長宗我部盛親隊に壊滅的な打撃を受けたため、翌日の天王寺・岡山での最終決戦において藤堂宮内高吉と共に先鋒を務めた。その功により五百石の加増を受け、統べて四千五百石を知行し津藤堂藩の重臣に列した。・2004年11月08日→・2005年3月30日
【主な参考資料:大分歴史事典/佐伯市史 など】
■参考略系図
・「大分県郷土史料集成」の大神姓佐伯氏系図を参考に作成。「佐伯市史」に収録された系図では惟益がみえないが、こちらの方が世代的には納得のいくものであるが、いずれが真を伝えているかは判断しがたい。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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