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臼杵氏
●抱き杏葉/丸に二引両
●大神氏一族/大友流戸次氏支族
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臼杵氏は大神氏の一族で、大神惟基の子惟盛が豊後国海部郡臼杵荘に拠って、臼杵氏を称したのに始まる。下って、大神姓臼杵直氏が大友氏の一族戸次貞直の子直時を婿養子に迎えて、所領を譲ったのが大友姓臼杵氏の始まりとなった。このことは、「大神氏臼杵系図」「藤原姓臼杵氏系図」などに臼杵七郎時直と見えていることから、まず疑いないものと思われる。
他方、貞直養子の一件は、旧勢力臼杵氏が守護大名大友氏に併呑されていく事象のひとつともみられる。大分の旧族である大神一族の多くが、このようにして大友色に塗りかえられた例は多い。戦国時代、大友氏に属して活躍した臼杵氏はこの流れである。
大友氏の重臣として活躍
戦国期の当主臼杵長景は民部少輔を称し、海部郡臼杵庄水ケ谷城主であった。永正十三年(1516)十二月から享禄元年(1528)十二月まで大友義鑑の加判衆をつとめる。大友政親の代に整備された支配機構の一つに、年寄・宿老・老中などと呼ばれるものがあった。大友氏の支配機構の最高機関で、主君の命を執行するに当たって複数で署名加判することから「加判衆」と呼ばれるようになったものである。大友氏の重臣の代名詞であり、臼杵氏から加判衆に登用されたのは長景が最初であった。
長景は永正十三年の朽網親満の乱に活躍して、加判衆に抜擢されたようだ。そして、永正十七年頃には筑後方分、享禄元年頃速見郡山香郷の代官をつとめている。大永七年(1527)十月に起こった佐伯惟治の乱には、討伐軍の大将として出陣した。しかし、佐伯勢の防御の前に攻めあぐみ、結果謀略をもって惟治を殺し、乱の終息をはかった。このため、長景はのちに狂死したという。
長景には、鑑続・鑑速・鎮次・鎮順の男子があったとされる。跡を継いだのは長男の鑑続で、天文五年(1536)から弘治二年(1556)まで、二十年間にわたって加判衆をつとめた。また、大友家の外交事務を管掌し、享禄三年(1530)以降、幕府・他大名との交渉の責任者となっている。そして、天文四〜七年の大内義隆との和睦、天文十六〜十八年ころの一色義晴の娘と義鎮との婚礼、天文二十一年の大友八郎の大内家督相続などに尽くしている。
一方、志摩郡代・好士岳城督を勤め、周辺の在地領主層との間に与力被官契約を結び、筑前西部地域において大友氏の安定勢力構築に尽力した。鑑続には男子がなかったため、弟の鑑速が家督を継いで、弘治三年から元亀三年(1572)まで加判衆をつとめた。鑑続・鑑速兄弟はともに傑出した人物であったようで、天文十九年に起こった「二階崩れの変」を生き抜き、鑑速は義鑑が遺した条々に大友家の重要書類や日記箱を管理する奉行に指名されている。
「豊後三老」の一に数えられる
鑑速は大友義鎮(宗麟)に仕えて、吉岡長増・吉弘鑑理と並んで「豊後三老」と称された。永禄初年から元亀にかけては、豊筑肥に出陣して毛利氏とその与党秋月・原田・高橋・立花氏らと戦っている。この一連の戦闘において、鑑速は戸次鑑連・吉弘鑑理とともに現地軍総司令官を勤めた。また、交事務を担当し、永禄二年には義鎮の肥前・豊前・筑前守護職につき幕府に修礼している。さらに臼杵氏は長景のころより、大友氏の対外貿易を管掌していたようだ。
天正元年八月、大友宗麟が派遣した南蛮貿易船が帰国途中、島津氏の港に繋留されるという事件が発生したが、このとき、鑑速が返還交渉に臨み、伊集院忠棟に鎧一領を贈っている。これも、鑑速が対外貿易の管掌者として事態の解決を図ったものであろう。
ところで、鑑速の弟新介鎮続は長兄の鑑続の跡をうけて、志摩郡代・好士岳城督となり、大友義鎮に仕えて活躍している。鎮続は好士岳城を拠点として志摩郡衆との間に主従関係を結び、「新介与力被官」と呼ばれる一定の勢力を養った。主として、大友氏の筑前西部経営に尽くした。永禄末年から元亀年間に博多合戦・志摩郡防衛に活躍し宗麟から感状を受けている。一方、元亀三年正月には原田了栄・親栄と争い、新介短慮との譴責をうけるといこともあった。
臼杵氏の系図は諸本伝わり、それぞれ異同が多く、鑑速のあと鎮理なる人物が加判衆にあったとうが、系図上の関係は不明である。また、鑑続と鑑速とは兄弟といわれるが、系図によって兄弟の人数、名乗りも混乱をみせている。
天正二年頃より息子統景が父鑑速の代理として、肥後に書状を送っていることが確認される。臼杵家の最後の惣領となった統景は、年ながら文武の道に通じ、田原親虎とともに宗麟からその才を愛されたという。とくに能は金春八郎の指導を受け、鼓をよくしたと伝わる。
臼杵氏の終焉
天正六年、大友宗麟は島津氏に逐われた伊東義祐の要請を入れて、島津氏を討つため日向に侵攻した。この陣に統景は叔父新介の後援を受け、第三軍の将として出陣した。そして、高城攻撃において叔父新介をはじめ、一族被官とともに統景は戦死した。享年十八歳という若さであった。敵将島津家久はこの若者の死を惜しみ嘆息したと伝えられる。統景の戦死をもって、臼杵氏の嫡流は滅亡した。
臼杵氏一族には大友氏に仕えて活躍した人物が多い。天正十四年から文禄二年(1593)まで義統の加判衆をつとめた鎮理、天正末期から義統側近の一人として活躍した鎮定らが知られる。鎮定は大友家の財政を担当し、文禄元年の朝鮮の役にも出陣した。しかし、大友吉統が朝鮮における卑怯な振舞を咎められ所領没収となると、暇を乞い上洛した。その後の消息は不詳である。
【参考資料:資料:臼杵市史/九州戦国史/大分歴史事典 ほか】
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