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志賀氏
●抱き杏葉
●秀郷流大友氏支族
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志賀氏は託摩・田原氏と並ぶ大友三大支族のひとつに数えられ、初代能郷は大友能直の八男で惣領親秀と同じ正妻深妙の子で豊前八郎ともいった。延応二年(1240)、母深妙より豊後国大野郡大野荘志賀村の地頭職を分与され、志賀村に住んで志賀氏を名乗った。
初代の能郷は病弱だったようで、正嘉三年(1262)に志賀村南方地頭職などを嫡子泰朝に譲っている。また母深妙のはからいで、庶子の禅季にも所領を宛行っている。禅季は筑紫尾寺、のちに泊寺院主職を与えられている。禅季のあとは泰朝の子朝郷が継ぎ、元徳二年(1330)に直入郡白丹の南山城に移った。以後、本家を北志賀と呼び、南山城に拠った志賀氏を南志賀と呼ぶようになった。
南北両志賀家とも、蒙古合戦に際して大友宗家頼泰に従って出陣し、泰朝は度々の戦功をあげている。戦後、筑前国三奈木荘の一部を勲功賞として与えられたが、鎌倉時代の志賀氏は総じて停滞気味であったようだ。
争乱のなかで勢力を拡大
志賀氏が所領拡大のきっかけを掴んだのは、南北朝時代においてであった。建武の争乱の時、志賀氏は忠能・能長(頼房)の代であった。志賀氏は大友宗家に従って各地を転戦、建武二年に足利尊氏が新政府に叛旗を翻すと、大友宗家とともに足利尊氏(北朝方)に味方して働いた。建武四年の志賀頼房軍忠状には、大友貞戴が京都で結城親光と戦って戦死した時、頼房は奮戦して結城の郎党の首級をあげたことが出ている。
かくして、志賀氏は北朝方の有力武将として、西方肥後を本拠とする南朝方の中心勢力菊池氏と戦ってこれを悩ました。頼房の子氏房は応安二年(1369)に直入郷の代官職・検断職を与えられ、騎群(木牟礼)城に入った。のち岡城に移り、次第に恩賞地が増大、戦国期になると肥後・筑後・筑前・豊前方面にまで所領が拡大し、戦国後期には南郡第一の大領主といわれるまでの存在に成長する。そして、北志賀氏は南志賀・朽網・田北などの南郡(大野・直入両郡)衆の指導的地位につき、北の田原氏とならぶ大友家最大の重臣となった。
氏房が嫡男親理に家督を譲ったのは、永徳三年(1383)のことであった。以後、頼資・親明・親賀、そして応永五年(1398)に志賀親昌は嫡子親家に家督を譲ったことが知られる。この間十五年に過ぎず、志賀氏の家督継承の次第には疑問が残るといえよう。
一方、『朝地町史』の記述によれば、志賀親賀が「姫嶽の攻防戦」に関わっていたことが記されている。すなわち、永享八年(1436)、姫嶽に立て籠った大友持直を幕府軍が攻撃したとき、志賀親賀は持直に味方した。しかし、幕府軍の大将である犬橋満泰、幕府方の大内親綱らから味方になるよう勧誘され、ついに幕府方に転じた。戦いは大友持直の敗北となり、姫嶽を逃れた持直は行方不明となる。永享十二年、幕府は親賀に御教書を下し、持直・親著・親繁らの落所を追及する旨を命じられている。また、『大友史料』によれば、康正三年(1457)、志賀親明は安芸出陣にあたって嫡子亀鶴丸(親賀)に置文を残しており、それには「曾祖父日向守氏房」と記されている。
このように、氏房以後の志賀氏については、古文書と合致しない所があり矛盾点も多いのである。
乱世への序奏
さて、南北朝の動乱は明徳二年(1393)に終息し、室町幕府体制が確立されたが、日本各地に戦乱がやむことはなかった。さらに、嘉吉の乱によって将軍足利義教が殺害されると、幕府権力も衰退の色を深め、ついには内部抗争が繰り返されるようになった。そして、応仁元年(1467)、将軍、幕府管領家などの御家騒動が発展して応仁の乱が勃発した。以後、世の中は下剋上が横行する戦国乱世となっていくのでる。
その間、志賀氏の宗家大友氏では内訌が続き、親治・義長父子の代に至って内部抗争を克服して、戦国大名への礎を築くことができた。しかし、義長は病気がちであったため、永正十二年(1515)、家督を親安(義鑑)に譲って隠居した。
家督となった義鑑は、一族、同紋衆、他姓衆を問わず、反抗の危険がある諸氏の徹底排除を行い、豊後国内の掌握を推進した。そして、永正十七年、弟菊法師丸を肥後守護菊池氏の後嗣とした。大永二年(1522)には、田原親述を筑後国守護代に任じて筑後国支配を行った。
その一方で、筑前をめぐって大内との対立、抗争を続けたが、天文七年(1538)には一応の和議が成立した。ついで、菊池義武が反抗的態度を見せるようになると、これを追放して肥後国守護職に補任された。
かくして、大友氏は義鑑の代において、名実ともに戦国大名として北九州一の大勢力に飛躍するのである。その結果として志賀氏らは大友氏の被官としての立場から、さらに強い封建関係に結ばれた家臣化の道をたどるようになるのである。
大友氏の重臣に列す
大友義鑑は豊後・筑後・肥後の守護職となり、大友氏の黄金時代を現出した。ところが、義鑑は嫡男義鎮を廃嫡して、側室の子塩市丸を家督に据えようとしたことで一大波乱が生じた。
天文十九年(1550)、義鑑は塩市丸家督のことを重臣に図ったが、重臣はその暴挙を諌めたため、激怒した義鑑は斉藤播磨守・小佐井大和守を殺害した。その場から、一旦逃れた重臣の津久見美作守・田口蔵人の両名は、とって返すと二階の間にいた塩市丸とその母を殺害、さらに義鑑に切り掛かって重傷を負わせた。これが、有名な「二階崩れの変」で、ほどなく義鑑は死去し、叛臣は討ち取られて義鎮が大友氏の家督を継承した。
二階崩れの変後、北志賀親守は大友氏の加判衆に列して大友氏の政治の枢機に参与した。その子親慶も永禄末から元亀初年(1570ごろ)にかけて、加判衆となっていたことが知られる。
義鎮は筑前・豊前をめぐって毛利氏と戦い、さらには新興の龍造寺氏らと戦って、大友氏にとって最大の版図を築きあげた。そして、天正六年(1578)島津氏に追われた伊東義祐の要請を入れて、日向への出陣を行ったのである。宗麟は大友義統を大将に命じ、日向土持氏を討伐させた。義統は宇目酒利に本陣を置き、 佐伯宗天が屋峰口から、志賀親教(親度)は梓口から進攻して、土持氏のよる松尾城を陥落させた。
土持氏を討った義統が凱旋すると、宗麟は初秋に日向出兵することを家中に告げた。重臣らは島津氏がよく内を治め兵も精強であり、いまは時期尚早であると日向進攻に反対したが、宗麟は出兵に踏み切った。宗麟は田原親賢(紹忍)を主将とする主力軍を高城に進攻させ、志賀親教・南志賀鑑隆・朽網宗歴らの南郡諸将を別働軍として肥後に派遣し、肥後から日向を攻撃する作戦を立てた。しかし、大友軍は軍議がまとまらないまま、高城を中心として島津軍と激突、大友軍は大打撃を受けた。さらに敗走するところを耳川において追撃され、四千余の兵が戦死するという壊滅的敗北を喫した。
この敗戦によって、大友氏の領国統治は大きく動揺し、一気に衰退の途をたどることになる。一方、大友氏を破った島津氏は、ただちに北上作戦を開始し、九州統一戦を進めていった。肥後の相良氏、阿蘇氏らが降伏し、天正十二年には肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死した。ここに至って、島津氏は大友氏の本拠豊後への進撃を開始した。
島津氏の九州統一戦
天正十四年(1586)、島津氏は豊後に兵を進めた。このとき、北志賀親守(道輝)・親慶(親孝とも)、南志賀鑑隆・鎮隆らは島津氏に通じた。さらに、緩木城の入田義実も島津氏に内通して、大友氏の衰退を早めた。かれらは、いずれも程度の差こそあれ、大友氏に含むところのあった人びとであった。とはいえ、その行動は後世の誹りを免れるものではないだろう。
このような志賀氏一族の無節操な態度に対して、ひとり北志賀の惣領親次(親善)のみは、堅く節義を守り、若冠よく岡城を死守した。ちなみに、島津氏の豊後攻めの肥後口は島津義弘が受け持ち、先鋒は勇将新納忠元であった。忠元は志賀親次の拠る岡城を攻撃するため、浪野原に進撃した。一方の親次は、浪野十二口に防衛線を張り、激戦の結果、親次は島津勢を退けた。しかし、島津勢は新手を繰り出し岡城下において戦闘となったが、親次は弓、鉄砲をもって島津軍をふたたび撃退したという。
その後、大友宗麟からの出兵要請を入れた豊臣秀吉が九州征伐を決定、天正十五年、先陣を九州に進めた。秀吉は岡城で島津勢を悩ます親次を賞し、豊前表到着予定を知らしている。さらに、「其城堅固に相抱え候段、尤も以て神妙に思食され候」という朱印状を送り親次の勇戦を賞している。ちなみに、島津氏の侵入に際し、大友方の城で落城しなかったのは、丹生島城・栂牟礼城と、岡城の三城のみであった。
秀吉軍の攻勢に敗れた島津軍は薩摩に兵を退き、その後の九州仕置によって大友吉統は豊後を安堵された。このとき、親次は日田郡大肥荘内に千石余の所領を与えられ、秀吉の親次に対する評価は極めて高かった。
天下人となった秀吉は朝鮮出兵を進め、大友氏にも出陣が命じられた。吉統は朝鮮に渡海したが、戦場において卑怯な
振舞があったとして改易処分を受けた。浪人となった親次は、福島正則に仕え、ついで小早川秀秋に仕えた。
小早川氏改易後は肥後藩細川氏に仕えて、志賀氏は明治維新を迎えたと伝えられる。
・2005年03月19日
【参考資料:竹田市史/大野町史/朝地町史 ほか 】
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