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戦国山城を歩く
筒井順慶方として活躍した布施氏の居城
布施城は大和と河内を画する葛城山の東南部の中腹にあり、三百以上ある大和の中世山城のなかで十指に入る規模を
持っている。築城時期は不明だが、一帯を領した布施氏が戦国時代に詰めの城として築いたものである。
布施氏は古代の置始氏の流れを汲み、興福寺一乗院の国民で平田八庄司の一人として勢力を伸張した。
戦国時代の布施行国は、大和国判衆十二氏の一人であった。同じ一乗院方である筒井氏と行動をともにすることが多く、
筒井氏の大和統一に少なからぬ力を尽くした。戦国末期の永禄年間、松永久秀が大和に進出してくると、
筒井順慶は各所で敗走を重ねた。多くの国人が筒井氏を見限るなかで、布施氏は筒井氏への誼を捨てず久秀に頑強な
抵抗を続けた。そして、永禄八年(1565)に順慶を布施城に迎えて、
元亀二年(1571)まで籠城戦に耐え抜いた。
布施城は山麓にある二塚古墳から二塚城とも呼ばれている。城址の遺構は古墳後方の山麓に尾根に残り、
最高所の主郭まで曲輪が階段状に累々と連なっている。城址は主郭まで続く尾根に築かれた曲輪と、
南尾根に築かれた曲輪群、主郭西方の畝状竪堀をもつ曲輪群とに三分される。見所は最東端部の城道ともいう虎口縄張、
城道を登ったすぐの曲輪に築かれた横堀、尾根に連なる曲輪群の東方部に築かれた櫓台と大堀切、
そして西方と東南方の畝状竪堀と盛りだくさんである。
・布施城址山麓から大和平野を見る
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整備された登山道 ・ 城址南端部の虎口 ・ 石垣状の遺構 ・ 侵入を阻む急坂 ・ 土塁で囲まれた虎口曲輪
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同規模の曲輪が連続する ・ 切岸と城道 ・ 曲輪が続く ・ 高い切岸 ・ さらに曲輪が続く
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連続曲輪途中の櫓台 ・ 櫓台北側の大堀切 ・ 大堀切で連続する曲輪を穿つ ・ 空堀状の遺構 ・ 十分な高さの切岸と広い曲輪
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城址へは山麓からハイキングコースが整備されていて、コースは城址を通過してさらに葛城山へと続いている。案内板も
整備され、まったく迷うことなく城址へとたどり着ける。最東端部から城址に分け入ると、城道という高い切岸で
囲まれた擂鉢状の曲輪が広がり、そこを越えると曲輪群が延々と主郭まで連続する。
単純といえば単純に過ぎる縄張で、旧式な山城であるとの感はぬぐえない。とはいえ、曲輪の切岸を背景とする横堀、
曲輪群の途中に設けられた櫓台と大堀切、それぞれの曲輪を区画する高い切岸などが構造にメリハリを作り出している。
さらに主郭の西方尾根の両側と南尾根曲輪群の東端に畝状竪堀が築かれ、東方からの攻撃を強く指揮したなかなか
堅固な縄張となっている。
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雛壇状の曲輪は主郭まで連続する ・ 主郭の曲輪と櫓台 ・ 櫓台へ ・ 最高所の櫓台 ・ 櫓台から大和平野を遠望
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主郭西方尾根の曲輪群 ・ 尾根に切られた竪掘 ・ 別名二塚城の由来となった二塚古墳 ・ 布施行国が寄進した氏寺置恩寺の石灯篭 ・ 菩提寺慶運禅寺に残る布施氏の五輪塔
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……………
まるで造成された分譲地を連想させる雛壇状に連なる大規模な曲輪群は、相当の兵員と物資が備えられたと思われ、
七年間にわたって松永氏に抗戦したことが納得できる。 登山道も分かりやすく、
遺構の保存状態も悪くない。ジックリと探索すると一日を費やしてしまうだろうが、それだけ見所の多い城ではある。
布施城を詰めの城とした布施氏が、日常生活を過ごした居館址は屋敷山古墳にあったという。布施氏が没落したのち、
新庄に入った桑山氏が新庄城として再利用し、現在は公園として整備されている。また、永正年間に
布施行種が二塚古墳の近くから移築したという菩提寺の慶雲寺には布施氏三代の五輪塔、
布施氏の氏寺である置恩寺の境内には文亀二年(1502)に布施置始行国が寄進した石灯篭が伝来している。
さらに、
忍海駅からすぐのところにある新庄歴史民俗資料館には、布施城のジオラマをはじめ葛城郡の山城に関する資料が
揃っており、ぜひ立ち寄りたい。新庄界隈は布施城の探索だけに終わらぬ、アレコレと歴史散策を楽しめるところだ
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