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戦国山城を歩く
見事な横堀と土塁に圧倒される─上野城址
須知は京から八木・園部を通って何鹿郡へと抜ける街道、西南の多紀郡からの道、須知から日吉方面へと通じる道が
集まる交通の要衝である。中世、一帯を支配していたのは東国から西遷、戦国時代には丹波有数の勢力を有した
国人領主須知氏であった。丹波に移住した須知氏は美女山より北西麓に伸びた尾根先端に上野城を構え、
領地の経営にあたったようだ。
城址の一角に祀られた須知景基のものという供養塔傍らの石碑には、「泰山景基大居士 大治五年(1130)二月歿 六条判官為義に従い遠州周智郡より丹州舟井郡追分村に移り追分村を須知村に改め在中の丘須知城に拠る」とあり、そのままに信じれば須知氏は丹波屈指の歴史を有した武家ということになる。実際、元弘の乱において足利尊氏が篠八幡で旗揚げをしたときに馳せ参じた丹波武士のひとりに志宇知(須知)氏がみえている。
応仁の乱後に奥丹波の国人が一揆を結んで起こした位田の乱では、何鹿郡の荻野・大槻氏らとともに一揆の主要メンバーであった。乱後、勢力を後退させたようだが、戦国時代になると船井郡西部の有力国人として知られる存在であった。天正のはじめ明智光秀の丹波攻めが始まると、須知元秀・同忠長らが光秀に協力したものの丹波平定後に粛清されて滅亡したという。一方、「籾井家日記」によれば八上城主波多野氏の七組頭の一人に須知主水影氏(景俊)がおり、明智に抗戦して滅亡したとある。いずれにしろ、戦国末期に須知氏は没落、須知城・上野城らの城砦群もその役割を終えたようだ。
・国道9号線より、城址を遠望
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山麓の観音堂(曲輪址か?) 主曲輪部の南東虎口 主曲輪部の南切岸と帯曲輪 城道と曲輪切岸 須知氏の古墓群
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主郭切岸と広い南曲輪 主郭の土壇址? 出郭の井戸址? 主郭部南谷筋の曲輪 主郭と二の曲輪を隔つ横堀 |
城址遺構は東側を主郭として西方に二の曲輪。三の曲輪を連ねた連郭式構造である。主郭部は切岸も明確、南側に腰曲輪を数段設け、その一角に平虎口が開いている。さらに南側の谷も曲輪であろう平坦地が続き、虎口と腰曲輪群の位置から推して西方谷筋から大手道が登ってきていたようだ。
西方に続く曲輪間は見事な横堀で遮断され、主郭と二の曲輪間の横堀は城道でもあったようで二の曲輪側に虎口が開いている。二の曲輪は東方から北方にかけて分厚い土塁が取り巻き、三の曲輪との間は土橋を伴った横堀で区画され、三の曲輪も東から北にかけて土塁が捲き、その先を横堀址であろう道が通じている。さらに、北西の溜池から続く北側の谷が自然の堀をなし、全体として北側への備えを意識したつくりであるように見えた。
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二の曲輪の土塁 土塁より村を見る 厚く盛られた土塁 二の曲輪と三の曲輪を隔つ横堀 三の曲輪の土塁
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城跡西端の堀切道 土塁を伴った二の曲輪と三の曲輪間の堀切 主郭と二の曲輪間の堀切 城址から村を見る 池から続く谷は濠跡か?
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上野城は美女山へと続く尾根で背後を固め、三方が崖状を呈した自然地形をたくみに取り入れた縄張りで、見事な土塁・横堀、受け曲輪を伴った虎口など先進の技術を感じさせる。全体的な印象としては日吉町域に残る小林氏の築いた亀田城、宇野氏が築いたという野化館に相似している。日吉と須知の位置関係は目と鼻のところであり、それぞれの縄張り・技術が似ているのも気のせいではないように思われる、一説に上野城址は職豊技術が入っているというものがあり、日吉から須知の城館群は丹波平定後に明智が改修の手を加えたのであろうか?
城主に関しては前記のように須知氏というのが一般的だが、『丹波誌』には 「当村北ノ山ニ山崎加賀守ノ古城トテ少シノ屋敷跡アリ」とみえ、その子孫として山崎勝右衛門なる人物がいたとある。上野城と須知城を平時の館と戦時の詰めの城とする解釈は見直されなければならないのかも知れない。まことに丹波の戦国山城の歴史は分かりにくい。
地図をたよりに行き着いた上野城址は、むかし、須知城をはじめて攻めたときに訪問していたところであった。何事でもそうだが経験の有無は、目的地探しに手間取るうえに、見るべきところを見落とすものだと痛感する。改めて訪れた上野城址は、一歩、足を踏み込んだだけで中世城館址というしかない地形を呈していた。現在、城域は主郭山側が宅地造成による破壊を受けているようだが、主郭から西に広がる城域はよく遺構が残っている。これ以上、宅地造成などで破壊されないことを祈るばかりだ。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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