丹波上林氏
三つ柏/結び雁金*
(清和源氏赤井氏流)
*はじめは赤井一族として雁金紋を用いた可能性もある。 |
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上林氏は、清和源氏赤井氏流で、丹波国上林庄から出た。丹波国の中世豪族である芦田・荻野・大槻氏らと同族である。
「丹波赤井氏系図」」によると丹波赤井氏は、源頼信四代の孫家光が故あって丹波に流され、家光の子道家以来数代にわたって丹波半国の押領使となり、朝家のとき承久の乱に京方に味方したため所領を没収され、為家のとき丹波氷上郡赤井野に住し初めて赤井を称し、氷上・天田・何鹿の三郡を領したという。
戦乱を生きる
為家の曾孫秀家は足利尊氏に従って功をたて、何鹿郡上林庄に住み、初めて上林氏を称したと伝わることから、秀家は室町幕府の被官で、上林地方の地頭として入部したものと考えられる。この地域には、平安後期しでに上林荘が立荘されていた。ただし、広大な上林庄は室町中期には上村・下村に分かれており、それぞれに京都の相国寺領や足利一族の仁木氏の所領が混在していた。上林氏はその配下の荘官として在地の管理にも当っていたのであろう。
上林氏の存在がクローズアップされるのは、天文二十ニ年(1533)の君尾山光明寺の再建である。大永六年(1526)「大永の乱」が起こり、細川高国方についた丹波上林の地域は赤井氏に攻め込まれ、光明寺をはじめ多くの寺院が焼かれた。高国はそのあと弟晴国に光明寺の再建を命じ、晴国は再建の勧進を許し、部将上林丹羽守をこれに当らせた。当時、晴国は兄高国の後継者として同族の晴元と戦い、若狭方面から奥丹波一円に勢力を拡げつつあった。
光明寺の「勧進奉加帳」冒頭には晴国が署名し、ついで上林新左衛門尉をはじめとする上林一族十数人が有力な施主として名を列ねている。中には親子もあるだろうが、上林氏が上林の地に一族繁栄していたことがうかがわれる。
ところで、大永六年から七年にかけて何鹿地方では、光明寺以外にも多くの寺院が赤井氏の兵火にかかり、焼失したという伝承をもっており、「赤井の乱」ともいわれる所以である。これは、赤井氏が中央の細川両家の内紛に乗じて何鹿郡への本格的な進出を目指したものであるが、このことによって何鹿郡内に赤井氏の覇権が確立したわけではなく、丹波の雄内藤氏との激しい相克があり、内藤氏は若狭・丹波国境で武田氏とも睨み合っていたのであった。
若狭国境に位置する上林谷にあって、上林氏の居城と目されているのが、上林谷中央部にある独立丘陵にある上林城祉である。同城は、発掘調査によって、山腹から山頂にかけて山城としては極めて高度な技術が駆使されていたことが知られている。
宇治茶と上林氏
上林氏忠のとき、山城の宇治に移住し茶業にたずさわった様子であり、その子久重も宇治で没している。しかし、上林氏は依然として丹波上林荘の支配者であったようで、一族は上林荘に留まり、在地豪族として分立発展していた。
氏忠がなぜ宇治に宇治に移り住んで茶業にたずさわるようになったのかはよくわかっていない。おそらく、上林地方が茶栽培の先進地であり、上林氏が茶についての特技を有していたためと考えられている。ちなみに、上林氏が宇治へ移住したのは、永正年間(1504〜20)のころであったようだ。
永禄十二年(1569)丹波の上林城を連歌師里村紹巴が、若狭から天橋立を見物しての帰路に訪れている。すでに、宇治に茶園を経営し、茶の世界でも知られていたであろう友人・上林久重は不在であった。このことからも、宇治に茶業を営みながら、丹波にも拠点をもっていたことが知られる。また、久重は近江の浅井氏の旗下にあったことから、天正元年(1573)浅井氏が織田信長に屈服すると、久重は上林の地を離れた。
久重の嫡子久茂は宇治を相続して信長・秀吉に仕えている。久茂の弟政重は宇治に生まれ、一時、丹波の上林荘に住んでいたが、元亀二年、三河におもむき徳川家康の家臣となり、岡崎城下の奉行に任じられた。天正八年、職を辞して宇治へ帰り、もっぱら茶業に従った。そして、本家久茂と並んで、宇治郷の代官として分立することになった。
上林氏の家紋は『見聞諸家紋』に「柏巴紋」」がみえ、赤井一族の代表紋である「雁紋」も使用していたという。そして、その系譜は、いまも宇治の茶舗上林家が伝えている。
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●写真:宇治市の上林家の暖簾に見える「抱き柏紋」
文献に見える上林氏の家紋としては『見聞諸家紋』に「枝柏」とみえ、
『京都武鑑』には二家の上林氏が御茶師として記載され、それぞれ
柏紋(三つ柏・巴柏)を用いている。
・枝柏
・巴柏
【参考資料:綾部市史/綾部・福知山の歴史/宇治市史 ほか】
■参考略系図
・掲載系図は、若林英弌氏が「京都府郷土史研究第一号」に報告された宇治市上林家に伝来する「上林系図」を
『綾部史談』から採録したものです。。
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