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戦国山城を歩く
船井郡日吉に割拠した小林氏の城砦─田原城
田原城は旧船井郡日吉町(現南丹町)田原集落を見下ろす高室山の山上にあり、
山名から高室城とも称される。戦国時代、日吉一帯に勢力のあった小林氏が築いた城である。
城址は田原川を自然の外堀とし、日吉から美山、京北へ通じる要道を眼下に見下ろす立地にある。
城址西方の山麓には居館址と思われる削平地が段状に広がり、山上城址と山麓居館群が一体となった
堅固な城塞となっている。小林氏は田原城の南に亀田城、さらにその南の片野に片野城を築いており、
田原川流域に城砦群を形成、万全の備えを施していた。
小林氏の歴史は明確ではないが、殿に鎮座する多治神社の社殿によれば、
田原左大臣の家臣として多治神社の勧請に尽くし、同社宮座の中心的存在であったという。
『丹波志』には田原城主として小林若狭守の名が記されている。そして、
伝来する古文書から小林長菊丸、同日向守らが内藤宗勝に属して活躍したことが知られる。
永禄六年(1565)、日吉に侵攻した宇津氏を世木の湯浅氏らと迎撃するなど、
小林氏は日吉を代表する戦国領主であったことは間違いない。
・田原川越しに城址のある高室山を見る
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和田前橋より城址を遠望 ・ 山麓の居館址 ・ 立派な林道 ・ 急斜面を登る ・ 小曲輪群 ・ 竪堀を見上げる
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主郭北の腰曲輪 ・ 主郭と南腰曲輪 ・ 主郭切岸と東帯曲輪 ・ 主郭北切岸に残る石積 ・ 北腰曲輪の登り土塁
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山上に残る遺構は中央部の主郭を中心として、山麓の居館へと至る南尾根に腰曲輪を設け、
南から東にかけて帯曲輪が取り巻いている。特長的なのは北西斜面に設けられた
小曲輪群と、東斜面に落とされた畝状の竪堀である。そして、北東尾根切られた大堀切、
南尾根先のU字堀切で城域を形成している。全体的な印象として北側からの攻撃に備えた縄張となっており、
内藤氏と対立した京北の宇津氏を意識したものであろう。
山城としては小さなもので縄張りも単純だが、主郭と東北の腰曲輪を区切る切岸の一部に
石積が確認されるなど、新しい築城技術をもって作られていることがうかがわれる。
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北尾根の大堀切 ・ 自然地形の北尾根 ・ 東斜面の畝堀 ・ 主郭南の腰曲輪 ・ さらに腰曲輪が続く ・ 城域南端のU字堀
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南尾根を下山 ・ 中腹より田原集落を見る ・ 山麓居館祉に下りつく ・ 登山道、目印のポール ・ 山麓の招春寺 ・ 招春寺境内墓地で発見した小林家の墓石
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亀田城址
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田原川越しに城址を見る ・ 主郭虎口 ・ 主郭南西部土塁と腰曲輪 ・ 主郭切岸と南帯腰曲輪 ・ 東尾根に切られた大堀切 ・ 見応え十分な二重堀切
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……………
城址の大手は田原川に架かる田原新橋を渡り居館址に通じるルートで、
居館群の中央あたりより山上へと続く山道が伸びている。
現在、居館址を貫通して北側の山腹を捲く林道が設けられ、まことに紛らわしいものとなっている。
実際、今回の登城に際して分かりやすい林道を終点まで歩き、そこから城址西北の尾根に取り付いた。
文字通りの急斜面で木々に掴まりながら這うようにして登る破目になり、中腹で蝮に遭遇するという
有様であった。城址を探索したのち、大手ルートから下山すると道は明快、登り口には
赤ペンキで塗られた目印らしきものがあった。できれば分かりやすい案内板を設けて欲しいところだが、
丹波は松茸の山地であり我々が思うほど簡単にはいかないのだろう。
田原城から亀山城方面に向かって車を走らせると、二つ引両の紋を付けた家が散在している。
城址登り口からすぐのところにある和田の招春寺を訪ねてみると、丸に二つ引両の家紋が刻まれた
小林家の墓石があった。おそらく帰農したという城主小林氏の流れを汲む家であろう、
田原は戦国時代がいまもつづいているように思われ、なんともゆかしいところであった。
・田原城址縄張図
(『丹波動乱:日吉町郷土資料館刊』所収、高橋成計氏作成のものを転載)
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[ 大戸(塩貝)城址 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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