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戦国山城を歩く
綾部南部に勢力を張った大槻一族の城─栗城址
丹波の中世史に名を残した武家に大槻氏がある。大槻氏は京都府の西部に位置する中世に高津荘と呼ばれた地域(綾部市西部)に勢力を築き、一帯には大槻氏一族が築いた山城址が散在している。綾部の大槻氏は、高城城に拠った家、栗城に拠った家、そして、高津城に拠った家に大別されるようだ。一説によれば清和源氏の流れといい、氷上郡の芦田氏、荻野氏、赤井氏と同族というが、信頼に足る系図が伝来していないこともあって実際のところは不詳というしかない。
綾部の中世山城といえば、丹波の国人が一揆をむすんで守護代上原氏に抗して拠った位田城が知られる。この位田の乱とよばれる騒乱の中心となったのが、荻野・須知、そして大槻氏らであった。乱は守護方によって鎮圧されたが、乱ののちも大槻氏は勢力を保ち戦国乱世を生きた。しかし、明智光秀の丹波攻めに抵抗、歴史の表舞台から消えていった。この間に大槻氏ら丹波国人の古記録が失われ、その歴史を辿ることが困難になってしまったのは残念なことである。
今回攻めた栗城は一尾城とも呼ばれ、綾部市内南部を東西に貫流する由良川北方にあり、位田城のすぐ西方に位置している。由良川を隔てた真南には高津大槻氏の居城―高津八幡城、北方には舘城をはじめとした大槻氏の城砦群が散在、北東には高城大槻氏の拠った高城山城砦群がある。まさに、中世における綾部南西部一帯は大槻一族の天下であった。
・城址概略図
『図説近畿中世城郭事典』に発表された高屋茂男氏作成の概略図を転載
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登り道と虎口 山麓曲輪の土塁 山麓曲輪の切岸 主郭へ(右手曲輪の土塁) 主郭腰曲輪へ
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登り虎口 荒れた主郭 主郭切岸と西腰曲輪 明確な切岸と西方曲輪 西方曲輪の帯曲輪 |
栗城址へは山麓の高台寺後方より登り道がある。登りはじめると山上尾根から落とされた竪堀と土塁で固められた虎口があらわれ、虎口を入ると堀切道を呈した城道の右手に山麓曲輪の平坦地が連なり、城道側は土塁が築かれている。平坦地は大小の曲輪に区画され、曲輪を隔てる土塁、尾根側の切岸がよく残り、尾根から山麓にかけて穿たれた竪堀(横堀)で山麓曲輪は東西に二分されている。
山上曲輪群に続く城道は登るにつれ藪状態になり、腰曲輪・帯曲輪など藪と化している。主郭東曲輪からの登り虎口より踏み入った主郭は、ことごとく雑草に覆われているがなかなかの広さである。城址は最後部の主郭より西方に階段状に曲輪を連ねた連郭式で、主郭の切岸は見事な高さを有し、曲輪間の切岸もよく残り、土塁・横堀なども確認できる。圧巻は西出曲輪から城道に落とされた竪堀で、西尾根・東尾根に堀切も見えたが、一面の藪に阻まれて探索は諦めざるを得なかった。
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西曲輪へ 西曲輪の切岸と南腰曲輪 南腰曲輪の登り土塁 南端曲輪を見る 虎口まで落ちる竪堀 高台寺の南天紋
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城址の探索は難渋を極めたが、遺構の残存状態は良好で、ちゃんと手入れすれば平時の居館址と戦時の山城址とが一体化した素晴らしい史跡になることは疑いないのに残念なことだ。とはいうものの、雑草に覆われた主郭の桜の木を見ると「京都府緑化活動事業」という札が下がっていた。かつて、主郭は手入れされ桜の木が植樹された時代があったのである。それが、いまでは一面の藪状態、やりっぱなしなお役所仕事といえそれまでだが、町の史跡を守るという意味でも整備を続けてほしいと願ってやまない。
さて、1976年3月に発行された「綾部市史」によれば、天正三年九月、光秀は自ら軍を率いて柏原に布陣、黒井城を攻めた。明智に与した八木城主内藤備前守宗勝は、天正四年二月、高津の城主大槻氏を攻め、つづいて栗城を押えてのち、山家城主和久氏と戦って戦死したという。この記述の内容は、そのままには受け取れないものであり、栗城と城主大槻氏の最期に関しては不明というしかない。
とまれ、栗城(一尾城)は、その規模、縄張り妙味など綾部市域において屈指の山城といえるものだ。そして、城に登ってみて丹波の中世における大槻氏の存在の大きさを実感した。氷上の芦田氏の山城に登ったときにも思ったことだが、失われた歴史の大きさに茫然とすることであった。
・主郭の桜の木そばで発見した残念な看板
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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