戦国山城を歩く
内藤氏が天田郡進出の拠点として築いた─甲ヶ岳城址


甲ヶ岳城は、綾部市南部を東西に貫流する由良川の南側に聳える標高290メートルを測る甲ヶ岳山上に築かれた山城だ。登り口は北麓にある中筋小学校西にある薬師堂から登山道があり、そこから山上の城址までハイキングコースとしても整備された山道が続き迷うことはない。登り口に立てられた城址説明看板によれば、甲ヶ岳城は綾部三大山城の一つで、永禄七年(1564)、丹波守護代で八木城主の内藤宗勝が福知山盆地への進出拠点として築城したものという。
山道すぐの「甲ヶ岳登山口 1060M」 と書かれた道標から尾根筋を目指すと、途中に曲輪址と思しき平坦地があり、打ち捨てられた貯水槽らしき施設が埋もれている。尾根との合流点から山上へと続く道も明確で、尾根筋には出曲輪址であろう平坦地があらわれる。さらに、堀切であろう…か?竪堀かな?と思わせる地形もあらわれる。戦国山城は山上に主曲輪部を置き、山上から派生する尾根筋に出曲輪・堀切などを設けるのが一典型である。それゆえに登山途中の地形は、いかにも山城遺構のようにみえるものが多い。
甲ヶ岳城の場合、三好長慶勢力を背景として丹波を席捲した内藤宗勝の築いた城であることを考えれば、尾根筋の平坦地、堀状の地形は曲輪や堀切と見てよさそうだが、竪堀はむかしの登り道かも知れない。いずれにしろ、山城遺構を見極めるのはとても難しいのである。さらに、急斜面の山道を登っていくと「あと150M」の標識があらわれ、そのすぐ先が虎口で、そこから山上まで曲輪が階段状に築かれている。

・由良川西方の私市丸山古墳より城址を遠望 (20110405)



登り口と説明板  踏み固められた道が尾根に続く  中腹の曲輪跡?  尾根筋の曲輪  曲輪状の地形


尾根筋の堀切  曲輪の切岸か?  急坂を登る  虎口手前の竪堀  虎口を見る  北曲輪と切岸


山上の曲輪群は削平もきれいで切岸も明確だが、灌木が繁っていて探索には難儀をした。曲輪の一角に四等三角点を発見、さらに進むと土橋を伴い尾根筋を長々と穿つ横堀、ついで城域を二分する堀切、そして、主郭部の北腰曲輪へ続く。北腰曲輪は堀切側に土塁を築き、主郭虎口を固める馬出しのようにも見える。
山頂の主郭は十分な広さを有し、中央部に秋葉神社の祠が祀られている。東部から南部にかけて土塁が築かれ、南尾根側に数段の曲輪群が確認できる。城域は山上の主郭を中心に、東西200メートルに遺構が連なり、全体的に西方と北方へ備えた構造であることが見て取れる。何鹿郡から天田郡方面への進出、さらに氷上郡黒井城主の赤井氏勢力を意識した内藤宗勝が築いた城であることが実感できた。



段状に続く曲輪  土橋と横堀  横堀を見る(奥が土橋)  主郭手前の堀切  堀切を見る(右手主郭)



主郭北の腰曲輪)  主郭と秋葉神社の祠  主郭南部の土塁  主郭より帯曲輪を見る  主郭切岸と南腰曲輪


……………
一時期、丹波一円を支配する勢いを示した内藤宗勝であったが、永禄八年、氷上郡から天田郡へ勢力を伸ばす赤井直正と戦って敗死してしまった。宗勝の死によって内藤氏は勢力後退を余儀なくされ、甲ケ岳城も打ち棄てられたよううだ。
ところで、甲ケ岳城の主郭から南へと伸びる尾根筋を縦走すると西南264メートルのピークに至り、そこから尾根を北西にたどれば大槻氏の拠った高津城へと至る。両者を見ると甲ケ岳城を主城とし、西方の尾根先に築かれた高津城は出城のようにも見える。しかし、尾根で繋がる両城が併存したという史料はない。加えて、宗勝が戦死したという和久郷の決戦に際して、大槻氏ら綾部の諸領主がどのように行動したのか、さらに甲ケ岳城が果たした役割も実はよく分からない。
甲ケ岳城の最期については、天正七年(1579)六月のことであったという。すなわち、明智光秀の丹波攻めによって八木城が陥落したとき、八木城を脱出した城主内藤氏一族の内藤正勝は再起を期して甲ケ岳城に落ち延びた。しかし、明智方の追撃に敗れて討死 甲ケ岳城は廃城になったという。しかし、宗勝のあとを継いだ内藤忠俊(如安)は、天正元年、織田信長と足利義昭が戦ったとき義昭に味方して出陣、戦後、所領を没収されており、天正七年落城説はうなずけないものである。ちなみに、西方尾根先の高津城は天正二年に明智光秀に攻められて落城したといい、こちらも年代的に疑いが残るものとなっている。どうも、綾部に散在する諸城の歴史に関しては不明なところが多すぎるといわざるをえない。
・城址附近図
国土地理院 二万五千分の一 をベースに作成しました




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