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戦国山城を歩く
足利将軍奉公衆 金山氏の居城群─金山城/天寧寺城
金山城を築いた金山氏は遠く常陸国に発祥した大中臣那珂(中)氏の後裔で、天田郡金山郷(佐々木荘下山保)地頭職を
与えられた大中臣那珂経久が子の宗経・盛経ら一族とともに東国を離れて遠く丹波に移住してきたことに始まるという。
のちに、惣領宗経が金山氏、庶子盛経は桐村氏を名乗り、それぞれ丹波に土着して戦国時代に至った。
現代の大呂は山中の小さな村だが、中世においては村中を丹後・但馬へ至る脇街道が通じ、三岳蔵王権現が栄え、
交通の要地として修験の山門として想像以上に繁栄していたようだ。大呂に西遷した金山氏は中村あたりに屋敷を構え、
東方の山に詰めの城として金山城を築き、佐々木荘下山保を経営した。そして、宗経の嫡子宗泰は金山氏の氏寺として
天寧寺を建立、愚中周及を迎えて開山とした。のちに天寧寺は将軍足利義持の祈願寺となって隆盛、
金山氏も将軍奉公衆として京都で華々しく活躍、将軍足利義政の時代に成立したという『見聞諸家紋』を見ると
金山氏の「一文字に二つ巴」の紋が収録されている。
金山城を本城とした金山氏は、乱世を迎えると天寧寺の後方に天寧寺城を築き、一族の桐村氏が桐村城を築くなどして
大呂一帯を固めた。2007年六月、大呂一帯を訪ねて金山城への登山も試みたが、ついに攻略することができなかった。
今回、あれこれ資料を集めるなど満を持して天寧寺城、ついで金山城を攻略することができた。
・大呂を通る街道越しに金山城址を見る
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天寧寺城址
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天寧寺城は、南のピークと北のピークとのツートップ構造を呈し、それぞれの曲輪群を結ぶ尾根に堀切が切られている。南側はトップを主郭として南尾根と東尾根に曲輪群を設け、北側でも東尾根に出曲輪、北尾根に曲輪を段状に設け尾根先は横堀で切っている。全体として見た場合、北側が主曲輪のようにみえる。
城址へは幽かな尾根道が南端曲輪に祀られた秋庭神社の祠まであり、そこから北に続く尾根上に曲輪が梯郭式に築かれている。北曲輪の主郭あたりは矢竹が生い茂り、その先の北尾根曲輪群は藪化が進んでいるが、早春ということもあって堀切・切岸・曲輪群などの遺構はよく観察できた。とはいえ、城址そのものは風化が進みつつあり、近い将来には自然に帰すのではなかろうか。
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天寧寺本堂 ・ 南郭南端部に祀られた秋葉神社 ・ 尾根曲輪と堀切 ・ 腰曲輪と主郭切岸 ・ 東尾根曲輪を見下ろす
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北郭南端の堀切 ・ 土塁越しに北郭主郭切岸 ・ 北郭主郭の矢竹 ・ 尾根曲輪北端の横堀 ・ 東尾根曲輪の切岸と土塁
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金山城址
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一方の金山城は天寧寺城から北方へと続く尾根上にあり、金山氏の屋敷跡の北東に位置する山上にあった。
城址の大手にあたる山麓は土取り場となっていて、かつてあったであろう大手道は失われていた。
大手尾根筋を登っていくと、ウッスラとだが山道らしきものがあり、それをたどっていけば出曲輪と思われる
地形があり、城址南端の曲輪へと到達した。
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大手尾根筋の曲輪 ・ 南端曲輪 ・ 土塁と堀切 ・ 曲輪が段状に連なる ・ 南尾根曲輪と切岸
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東尾根曲輪根元の堀切 ・ 堀切から伸びる竪堀 ・ 東曲輪の切岸と平坦地 ・ 東尾根先の堀切 ・ 南尾根曲輪の見事な切岸
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南端曲輪の北側には土塁、その先は土橋を伴った堀切、そして虎口と続き南尾根曲輪群となる。
曲輪はキレイに削平され、曲輪を隔てる切岸も十分な斜度と高さを保っている。南尾根の曲輪群より
東方へと伸びる尾根に出曲輪が設けられ、急斜面を降りた付け根に切られた堀切は竪堀へと続き、
尾根筋には曲輪・堀切が連続して築かれている。南尾根曲輪群は東尾根曲輪との分岐からさらに主郭のある山上へと
数段続き、削平、切岸ともに見事なものである。そして、主郭と腰曲輪を隔てる切岸は見上げる高さである。
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主郭の切岸 ・ 主郭より南尾根曲輪を見る ・ 主郭西端の土塁址 ・ 西尾根筋の大堀切 ・ 西尾根曲輪と櫓台(奥の土壇)
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西尾根先の横堀 ・ 主郭北尾根の横堀と曲輪 ・ 北尾根曲輪と土塁 ・ 土塁を見る ・ 北尾根先の切岸と堀切
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山上の主郭は東西40メートル、南北20メートルほどもある広さで、樹木越しに天寧寺城、さらに大呂(金山郷)が眺望できる。金山氏の主城として格好の立地に築かれていることが実感される。主郭の西端は土塁跡と思われる高まりがあり、その先は高さ10メートルはくだらない大堀切で穿たれ、その先の西曲輪群は堀切側に櫓台であろう土塁があり、西曲輪の西端直下には尾根筋を切る横堀が切られ、その両端は竪堀となって落ちている。さらに、主郭から東北に延びる尾根にも曲輪が築かれ、直下の曲輪西端には土塁が設けられ、東北端は堀切で尾根筋を切っている。
これほどの城址とは思っていなかっただけに、実際に登ってみて、規模の大きさ、堀切・曲輪・切岸などの残存状態の見事なことは驚くとともに感動すら覚えた。城址関係のサイトや出版物において、ここ金山城はほとんどとりあがられていない。それは何故なのか?と、不思議に思えてくる素晴らしい城址であった。金山城址に立ってみて、金山氏の勢力の大きさ、中世における三岳修験の実力、そして、大呂(金山郷)一帯の繁栄ぶりが実感できた。何事でもそうだが、百聞は一見に如かず!ということを改めて思い知らされた金山城攻めであった。
金山城を下山したあと、宗家金山氏を滅ぼしたのち戦国時代を生き抜いた桐村氏後裔の桐村家を探したがたどり着くことはできなかった。桐村家訪問は次の機会を俟つとして、天田郡東方に威を貼った塩見氏が拠った猪崎城攻めに向かった。
・大呂附近−城址分布図
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[ 金山氏 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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