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戦国山城を歩く
丹波天田郡に威を張った塩見氏一族の本城─猪崎城
塩見氏は丹波国天田郡の猪崎城を本拠として、横山城、牧ノ庄に中山城、和久庄に山田城を築き、一族を配置してがっちりと天田郡を固めていた。いまも塩見氏の子孫と伝えられる家に、丹波の守護細川高国と、その弟晴国から発給された書状が多く保存されている。戦国期の天田郡において、塩見一族の勢力は最も大きかった。
猪崎城は天田郡西部に勢力を張った塩見氏の本城で、「塩見系図」によれば塩見大膳頼勝が築いたものである。頼勝は長子の頼氏を横山城(のちの福知山城)に、次子の長員を奈賀山氏と名乗らせ奈賀山に、四子の長利を和久氏と名乗らせ和久城に、五子の利明を牧氏と名乗らせ牧城にそれぞれ配し、三男の利勝に猪崎城を譲った。さらに、牧ノ庄に中山城、和久庄に山田城を築いて天田郡をがっちりと固めていた。
猪崎城は鳥ヶ岳より南西に伸びた尾根先の丘陵上にあり、綾部方面より流れてきた由良川が土師川と合流し北西へと流路を変じて天然の濠をなした要害である。さらに、由良川の南岸を京・摂津から丹後・但馬へと通じる街道が交わる要衝に位置している。城址は山上の主郭を中核として、北東尾根に三段の曲輪、西から南に腰曲輪を数段築き、それぞれの切岸も高く、削平も十分な普請がなされていて、遺構の残存状態は抜群である。
・由良川堤防より猪崎城址を見る
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城址へ登る ・ 主郭部切岸と広い西の曲輪 ・ 最西端の曲輪と切岸 ・ 西尾根の竪堀 ・ 西曲輪群と切岸
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主郭帯曲輪への虎口 ・ 西曲輪群を見る ・ 見網帯曲輪と主郭 ・ 南帯曲輪から東尾根曲輪へ ・ 東尾根曲輪から主郭を見る
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猪崎城を特長づけるのは主郭を北→東→南に廻らされた空堀(横堀)で、主郭との切岸、曲輪群との境をなす
土塁の高さなど見事なものである。おそらく、武者溜りとしても機能したものと想像される。主郭は東西45メートル、
南北50メートルを測る広さで、西方に平虎口、北西端に櫓台を思わせる土塁の残欠がある。猪崎城の曲輪の配置、
主郭をめぐる空堀などは戦国後期の形式であり、
石垣こそ見られないが近世城郭を思わせる佇まいである。
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段状に続く東尾根曲輪 ・ 主郭を捲く空堀(東部) ・ 空堀と東尾根曲輪 ・ 主郭への虎口 ・ 主郭より福知山城を遠望
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主郭西北端の櫓台(土塁残欠) ・ 主郭から空堀、東尾根曲輪を見る ・ 北側より主郭を見上げる ・ 主郭北側の空堀 ・ 東尾根曲輪を見る
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……………
ところで、「日本城郭体系」では城址東方に連なる丘陵は監物山と呼ばれ*、
そこに本城があって猪崎城はその出城として築かれたのではなかろうかとある。しかし、
猪崎城は別名監物山城とも呼ばれることから、
城郭体系の記述をそのままに受け止めれば、塩見氏は猪崎城を新たに構築したのち、
監物山の城は詰めの城として位置づけ「二城一郭」構造を呈していたとも考えられる。
ともあれ、明智光秀の丹波攻めが起こると、塩見氏は波多野氏、赤井氏らと結んで抗戦した。天正七年、黒井城が陥落すると
光秀は天田郡に兵を進めて横山城を攻撃した。そして、横山城を落とすと、和久山田城、荒河中山城を次々と
攻略していった。この有様をみた猪崎城主の塩見家利は抗戦をあきらめ、城に火を放つと脱出したが、
逃亡の途中で討死したという。
猪崎城の主郭からは由良川越しに福知山城が見える。丹波を平定した光秀は領内統治の支城の一つとして
横山城跡に福知山城を新たに築いたが、当時、福知山一帯において猪崎城がもっとも新しいタイプの城で
あったと思われる。焼け落ちたということもあるだろうが、光秀の目に猪崎城は旧式の城と映っていたのであろうか。のちの福知山の発展を考えるとき、光秀の眼力は流石というべきものがある。織田信長の麾下で出頭した光秀・羽柴秀吉といった武将たちは先進の思考力をもった一流の人物たちであった。所詮、丹波の田舎武将がかなう相手ではなかったのだろう。
・猪崎城址縄張図 (現地案内板より)
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猪崎城の東方丘陵は江戸時代のはじめに灌漑用の池と化し、現在は三段池公園として整備されている。
おそらく、灌漑用の池が造成されたとき、監物山城址遺構は失われたものと考えられる。
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[ 塩見氏 ]
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