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塩見氏
●三階菱/丸に三つ柏
●清和源氏小笠原氏流
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塩見氏は丹波国天田郡の猪崎城を本拠として、横山城、牧ノ庄に中山城、和久庄に山田城を築き、一族を配置してがっちりと天田郡を固めていた。いまも塩見氏の子孫と伝えられる家に、丹波の守護細川高国と、その弟晴国から発給された書状が多く保存されている。
それらによると、塩見氏は細川氏に従い小畑城主の波々伯部氏や、高槻城主の大槻氏らととともに度々合戦に出陣している。享禄四年(1531)高国が細川晴元と戦って敗死した尼崎の合戦にも出陣していた。また、永禄三年(1560)鬼ケ城主内藤氏を丹波の国人が攻略したときも地元豪族として参加し、永禄八年赤井氏が横山城を攻めたときも、小畑城主波々伯部源内の援けを求めて撃退した。戦国期の天田郡において、塩見一族の勢力は最も大きかった。
塩見氏は、地元に伝わる横山・塩見両系図によると、その出自は清和天皇から出て「源氏小笠原」とある。新羅三郎義光の子武田義清から出た「信濃源氏小笠原氏」より分かれた阿波小笠原氏と同流となり、さらに阿波小笠原氏から出た三好氏とは同族ということになる。
『塩見系図』によれば、源太信氏が戦功により、足利尊氏から天田郡を賜って以来、八代の頼勝に至って塩見と称し、その子頼氏が横山、弟利勝が塩見に分かれたことになっている。しかし、これを裏付ける史料は皆無である。
塩見氏の登場
一方、丹波の守護職が山名氏から細川頼元に替わった明徳から応永(1391〜94)にかけて守護代として、阿波小笠原氏の出自と思われる小笠原成明がみえ、その当時の小守護として船井郡に小笠原四郎次郎、多紀郡に同修理亮・同正元が、郡奉行として小笠原氏の一族とみられる一宮掃部助らの名が記録に残されている。しかし、これらはいずれも船井郡・多紀郡方面である。
すなわち、『康冨記』に天田郡奉行として堀氏、土豪に吉良氏などが記されているが、横山・塩見氏は見当たらない。『松尾大社文書』にも横山・塩見氏の名前は皆無である。さらに、雀部荘内での詳細な記録、文安五年(1448)の「雀部荘御料米御菜銭等引付」、明応五年(1496)の「雀部荘土田帳案」、永正四年(1507)の「御料米御菜銭等納引付」などにも横山・塩見の名前は見当たらない。
そして、突如として、高国晩年の『塩見家文書』が登場するのである。これらのことから、横山・塩見氏が天田郡に移住したのは、文亀から永正年間(1501〜08)の頃と思われ、その後の急速な勢力拡大は、守護−守護代の強力な支援があったことに起因すると考えられる。おそらく、「位田の乱」の首謀者として何鹿・天田一帯の荻野一族が守護・守護代に徹底的に弾圧されたあと、守護代に返り咲いた内藤氏の後押しで、塩見氏が天田郡に入ったものであろう。
文亀年間より永禄年間までのおよそ数十年は『佐々木旧記』の伝承「初代塩見石見守、二代塩見大膳、三代横山大膳」の三代にほぼ匹敵する。そして、この三代を「塩見系図」に比定させると、頼勝−頼氏−信房(横山)と、頼勝−利勝−家利(塩見)の年代にあたろうか。しかし、『佐々木旧記』は慶安二年(1649)の奥書があり、比較的信憑性の高い『塩見文書」のなかにある人名と矛盾撞着点があり、一概には信じられない。また、塩見氏は大中臣金山氏の流れの伝承を持ち、播磨の赤松満祐の末裔という伝えなどもあり、多様で不審な点が多いのである。
そして「塩見系図」をみると、頼勝は長子の頼氏を横山城に、次子の長員を奈賀山氏と名乗らせ奈賀山に、三子の利勝を猪崎城に、四子の長利を和久氏と名乗らせ和久城に、五子の利明を牧氏と名乗らせ牧城にそれぞれ配したとある。この伝承は。天田地方の土豪たち、たとえば「天田郡馬廻衆」をある程度網羅しているのである。
丹波-戦国時代
天文・永禄にかけて丹波の雄、波多野氏や内藤氏が、三好氏をまきこんで抗争を繰り広げている隙に、黒井城主赤井氏は不気味に天田・何鹿郡を蚕食しはじめていた。
この赤井氏が、天田郡に侵入したのは永禄六〜八年頃で、『曽我井伝記横山硯』に、「永禄八年(1565)三月、氷上郡黒井城主赤井悪右衛門宗重は丹波の管領を望み、天田一郡も討ち取らんと芦田治部大夫為家と談じ、足立右近光永を引き入れて(中略)其勢五百ばかり、下竹田村迄寄来ると聞こえたり」とあり、塩見一族の反撃にあって、赤井勢は命からがら引き上げたと書かれている。
この赤井勢の天田郡侵入を、天田郡の土豪たちに「天田郡馬廻衆中」と書状を認めた、丹波守護代の内藤宗勝が黙過するはずもない。宗勝も「天田郡馬廻衆」を援助するために、軍を天田郡に進めた。
永禄八年八月、内藤宗勝と、赤井一族は「和久郷」において合戦におよんだ。結果は、赤井氏の大勝利で、内藤宗勝は戦没し、壊滅した内藤勢は辛うじて貞勝らを擁して鬼ケ城に脱出した。そして、雪崩のように赤井勢に走った横山・奈賀山・和久・桐村・牧氏らの「天田郡馬廻衆」は鬼ケ城を攻めたて、ついには貞勝を討ち取った。
「和久郷の決戦」は、守護代家の内藤宗勝と新興の赤井(荻野)直正とが、丹波の覇権を争っての大きな合戦で、丹波の国人・土豪にとっても一つの転機となった合戦であった。以後、天田郡全域はほぼ赤井氏の傘下に入り、塩見・横山氏の動静は不明な点が多くなる。これは「佐々木旧記」の語るように、赤井・内藤合戦の時点で横山・塩見氏は滅んだのであろうか。
塩見氏の本城、猪崎城址を歩く
由良川方向より城址を遠望 ・東曲輪群 ・主郭より福知山城址を遠望 ・主郭を捲く空堀 ・主郭北西端の櫓台(土塁残欠)
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→ 猪崎城址に登る
塩見氏の没落
その後の塩見氏・横山氏の動静は伝承以外に確証に乏しいが、「塩見系図」にある塩見大膳頼勝の四子で、和久氏を名乗ったと伝えられる和久左衛門大夫長利に関する文書が御霊神社に残されている。これは明智光秀が発した文書で、和久左衛門大夫の謀叛の様子がはっきりしたので処罰したとし、一族や被官人が逃げ隠れたがかくまえば処罰する、という厳しいものである。いずれにしろ、丹波天田郡に勢を振るった横山・塩見一族は没落したのであった。
いまも、京都府の綾部市・福知山市など、むかしの丹波国にあたる地域には塩見姓が多く、小笠原氏ゆかりの家紋「三階菱」を使用する塩見氏が多いという。・2005年07月07日
【参考資料:福知山市史/綾部市史など】
■参考略系図
・福知山史談会・会報「ふくち山」所収の芦田完氏の論文に掲載されていた系図をもとに作成。阿波三好氏の系図と比較して代数の多さが見てとれる系図といえそうだ。
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