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戦国山城を歩く
北摂に勢力を張った能勢氏の詰めの城─山辺城址
摂津国北端の能勢郡(現豊能郡北部)は丹波との境目にあたり、鎌倉時代より多田満仲を祖とする清和源氏の一族能勢氏が支配するところであった。山辺城のある一帯はかつて枳根荘とよばれる荘園で、多田満仲の子孫・家臣らが開発に従事し、鎮守である式内社岐尼神社には祖多田満仲も祭神として祀られている。戦国時代になると能勢氏を領袖とする西郷衆と称される武士団が割拠して、周辺の山々に城砦を築いていた。
山辺城のある城山は標高428メートルの険峻な円錐状の山で、古来「能勢富士」とよばれていた。北に剣尾山を背負い、西方に森上・今西城、山田城、南方に栗栖城、片山城など西郷衆の諸城を望む位置を占めている。西方山麓にははらがたわ峠、天王峠を越えて丹波国多紀郡に通じる丹州街道、南方山麓には西の川辺郡島より能勢郡(豊能郡)を経て丹波桑田郡へと通じる三田街道が交差する交通の要衝である。
伝によれば山辺城は能勢氏の祖国基が築き、のちに地黄の丸山城を本城として詰めの城になったという。一説には、多田氏の家臣大町氏が寛弘年間(1004〜1011)に築いたともいい、戦国時代の天文年間(1532〜55)には大町右衛門尉宗長が在城していたことが知られる。城址は城山のピークに主曲輪部、東方の尾根筋に出曲輪を設けた二郭一城形式である。大手は西方の街道側より主曲輪に至るコースと思われるが、いまは藪化していて南山麓の月峯寺側にある分譲住宅からのコースが登りやすい。また、月峯寺より東の出曲輪へと通じるハイキングコースも設けられているそうだ。
・東方の能勢町役場より城址を遠望 (20100801)
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東曲輪部へ 東曲輪主郭虎口と土橋状城道 主郭を巻く土塁 東尾根筋の曲輪 東端の堀切 主郭東の横堀
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東曲輪主郭の東虎口 分厚い土塁 主郭部への尾根筋の竪堀 主曲輪部東腰曲輪 主曲輪部へ 中曲輪と南郭切岸
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月峯寺の近くに車を停め、よくもこんなところを開発したものだと驚かされる分譲地の外れにある貯水槽あたりから山に分け入る。しばらく登ると、東尾根曲輪群の南帯曲輪にたどり着く。東尾根曲輪群は土塁と横堀で防御された主体部を中心に東方尾根に曲輪と堀切、西方の主曲輪部に続く尾根は土橋状の城道で竪堀・腰曲輪などが確認できる。
急尾根を登りきると主曲輪部東腰曲輪で、主郭部切岸の見上げる高さに圧倒される。北東部より主郭部へ通じる城道を登ると、主郭部は南郭と北郭、両郭をつなぐ郭の三区画で構成されている。各郭群の切岸は高く、腰曲輪・帯曲輪が設けられ、西方の大手筋に築かれた曲輪群・城道は石積で固められている。南郭、北郭とも虎口が明確で、それぞれ主体部の郭には建物の存在を思わせる土壇状の地形が残っている。
土塁・横堀など先進的技術で作られた東尾根曲輪部に比べると、やや旧態を感じさせる作りである。とはいえ、土豪の城とするには規模は壮大で、能勢氏の詰め城を大町氏が在番していたものであろうか。現在、城址一帯は樹木が繁っていて見晴らしはいま一つだが、往時は山麓を通じる丹州街道・三田街道、西郷衆の諸城砦が一望できたことは間違いない。
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北郭部主郭 帯曲輪を見る 帯曲輪から北郭部主郭切岸を見る 北郭部主郭への虎口と石積 大手の石積 西方の森上城址を見る
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南郭部を見る 南郭部の虎口 南郭部 南郭主郭部の土壇 南方を見る 南郭部より中曲輪を見る
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山辺城と西郷衆の拠る城砦群は、摂津と丹波の境目に位置することから、戦国時代には丹波・摂津を舞台とした戦乱に翻弄された。とくに細川二流の乱に際して、能勢氏は池田氏らとともに細川氏綱方となり、細川晴元方の丹波波多野氏、南方山下城に割拠する塩川氏らと敵対関係となった。
天文十四年(1545)波多野氏の攻撃で月峯寺が焼き討ちされ、つづいて天文十八年には塩川伯耆守の侵攻にさらされた。塩川氏との戦いは「岐尼の宮合戦」と呼ばれ、森上城主能勢小重郎を大将とする西郷衆の勝利に終わった。討たれた塩川衆を葬ったあとが「多田塚」としていまに伝わっている。能勢氏と西郷衆は塩川氏と宿敵となり、天正七年、織田氏を後ろ盾とした塩川国満は織田信澄とともに山辺に進攻、ときの山辺城主大町宗清と弟の宗治は防戦につとめたが栗栖にて敗死し、城も焼かれて落城した。
いまも郭跡からは土師器・染付・白磁の小皿、あるいは雁股族・釘・碁石が出土している。そして、それらの遺物は消炭に覆われていて、伝説のとおり塩川・織田連合軍の攻撃によって焼け落ちたという伝承を裏付けている。また、山麓には西郷衆の子孫という平居・安浦・秋山・山瀬家などの屋敷が残っていて、戦国時代の面影をいまに伝えている。加えて、南山麓の月峯寺の境内には、文安四年(1447)の銘をもった六体阿弥陀石仏が並んでいる。それぞれ、船形光背と共に一石の花崗岩から彫り出されたもので能勢地方の石仏として出色のもので、山辺城と併せて必見の中世文化財である。
・月峰寺の六体阿弥陀石仏
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二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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どのような意味が隠されているのでしょうか。
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