戦国山城を歩く
岐尼宮合戦の本陣となった城─森上・今西城址


北摂は武家の大族清和源氏発祥の地で、その祖多田満仲を祀る多田神社も鎮座している。満仲には数人の弟がおり、その一人満政の名とともに森上城の名があらわれる。平安時代末期の天暦七年(・・・)のことだが、おそらく城館のようなものであったと想像される。森上城のある山辺あたりは枳根庄に含まれ、南の山麓に鎮座する式内社「岐尼神社」には祭神の一柱として源満仲が祀られるなど源氏にゆかりの深いところである。
森上城は西方から伸びる尾根筋の先端に位置し、東方山麓を丹波と摂津を結ぶ丹波街道、南谷筋を摂津川辺郡と丹波桑田郡とを往来する三田街道を押さえる格好のところにある。そして、丹波街道を挟んだ東方に山辺城、三田街道を挟む南方の小山上に山田城があり、摂津北部を固める城砦群が形成されている。北摂一帯は、多田満仲の流れを汲む能勢氏が領し、一帯に割拠する武士たちは西郷衆と呼ばれて能勢氏に属していた。
森上城の築かれた時期、城主などの詳細は不明だが、戦国時代の天文年間(1532〜54)、西郷衆の一員である森本景久によって改築されたもののようである。当時、畿内は幕府管領で摂津・丹波の守護職でもある細川氏の内訌が続いていて、能勢氏は池田氏とともに三好氏の奉じる細川氏綱方に、一方、南方の山下城主塩川氏、丹波八上城主の波多野氏らは細川晴元に味方して摂津・丹波を舞台に抗争を繰り返していた。そのような風雲急を告げる時代、西郷衆らは城砦を構築、あるいは改修して乱世に対処したものであろう。その後、森上城には能勢一族の能勢小重郎が入り、森本氏は出曲輪ともいうべき今西砦を築いてそちらに拠ったようだ。

・南方の多田塚ありより城址を遠望 (20100801)



森上城南尾根の曲輪  虎口と土塁  東曲輪の切岸と犬走り  東曲輪東端の堀切  尾根筋の二重堀切


南の横堀  東曲輪の土塁  主郭東土塁の石積址  主郭の石段と北側土塁  主郭切岸と横堀、土塁


城址へは岐尼神社後方の山腹を攀じ登れば森上城の南曲輪へとたどり着ける、あるいは西方にある三角点より東に伸びる尾根筋をたどれば今西砦へと至ることができる。
森上城は土塁で囲まれた主郭を中心に、東方と西方に土塁囲みの腰曲輪を配し、南側は土塁をともなった横堀がめぐらされ、一部には石垣跡とおぼしき遺跡も確認される。東南尾根筋に虎口があり、虎口受けであろう曲輪が付属している。東方尾根は二重の堀切で切られ、西方も竪堀を伴う堀切が切られ、城址北側は急斜面となっている。小ぶりな城だが先進の築城技術で作られ、南方面からの攻撃を意識した構えとなっている。
西方の堀切を越えると自然地形であろう尾根筋曲輪が伸び、三方を堀切で防御した今西砦へと至る。今西砦の西方に伸びる尾根筋も曲輪として利用されていたと思われるが、城域としては森上城を主体として今西砦が西方の守りを固める二城一郭構造を呈している。



西曲輪北の土塁と主郭切岸  西曲輪と主郭  西曲輪西端の土塁  森上城西端堀切  山辺城址を遠望


今西砦址
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今西砦東の堀切  今西砦の曲輪  南尾根の堀切  西の大堀切  西尾根筋より今西砦を見る


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天文十八年九月、能勢氏と対立する山下城主塩川伯耆守は、塩川主膳・修理兄弟を大将として山辺へ侵攻した。これに対して能勢勢は能勢小重郎を大将に、山辺城主大町右衛門、栗栖城主水原右衛門尉、山田城主山田帯刀、そして、今西城主森本左衛門らの西郷衆が森上・今西城に拠って塩川勢を迎え撃った。戦いは能勢方の勝利に終わり、討たれた主膳・修理兄弟ら塩川勢を埋めたところは「多田塚」としていまに残っている。世に枳根の宮合戦として語り継がれている戦いである。
やがて天正七年(1579)、織田信長を後ろ盾とした塩川国満が織田信澄とともに能勢に侵攻、抵抗むなしく敗れた西郷衆の多くが討死、諸城砦も落城の憂き目となった。以後、生き残った西郷衆の多くは帰農して、北摂の戦国時代も終焉を迎えたと伝えられている。
岐尼神社の後方山上にある城址は南麓に広がる田園地帯を見下ろす位置にあり、南方から攻め込んだ塩川勢の動きは一望である。訪城は道なき登りに難儀するが、土塁・堀切・横堀など、城址の残存状態は良好で戦国山城を堪能できるところだ。縄張りの印象として、南西の小山上にある山田城との共通性を感じさせるものがある。森上城を訪れるときは、若干ハードになるが北東の山辺城、南西の山田城と併せて攻略することを奨めたい。山辺一帯に連なる城砦群の相関性、城そのものの構造の面白さなどを感じることができること請け合いだ。
・南山麓に鎮座する岐尼神社




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