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戦国山城を歩く
織田軍、小谷城攻めの拠点となった横山城址
城址は長浜市と米原市の境界に位置する横山丘陵の最高所を中心に北・南・西の三方の尾根にY字状に遺構が残っている。中世、江北を領した京極氏が支城として築いたものと伝えられている。戦国時代、京極氏にとって代わった浅井氏と江南の六角氏との間で争奪戦が繰り返された。やがて、浅井氏の南進基地としての機能を果たすようになった。横山城が歴史に登場したのは、
元亀元年(1570)、浅井・朝倉連合軍と織田信長が戦った姉川の合戦のときであった。
当時、横山城は浅井長政の部将大野木土佐守が守っていたが、姉川の合戦に浅井氏が敗れると織田勢の攻撃にさらされた。土佐守は城を開くと逃亡、信長は羽柴秀吉を城将に任じて小谷城攻撃最前線の任を担わせた。以後、小谷城が落ちるまでの三年間、
秀吉はよく守り通してみずからの出世の足がかりとなした。浅井氏が滅亡したのち、江北を与えられた秀吉は居城を
長浜に移したが、横山城は秀吉の天下取りの出発点になった重要な意味を持つ城といえそうだ。また、
西南山麓の石田集落は秀吉に仕えて頭角をあらわし、関が原の合戦で徳川家康と天下を二分した石田三成の出生地として知られたところだ。
・姉川方向から城址を見る
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西尾根先の石田砦へ ・ 中腹から小谷方面を見る ・ 城址への分岐 ・ 一丁ごとに道標が ・ 西尾根の出曲輪
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【北城】最西端の切岸 ・ 切岸上の土塁 ・ 北城の虎口 ・ 大堀切 ・ 北城東曲輪の土塁
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北城南側の腰曲輪 ・ 北城最高所の曲輪へ ・ 伊吹方面を見る ・ 【南城】北西端の腰曲輪 ・ 段状の曲輪が続く
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主郭直下の竪堀 ・ 虎口 ・ 主郭北の曲輪を囲む土塁 ・ 主郭に祀られた石仏 ・ 深い井戸址 ・ 現説用に切られた土塁
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最南端の堀切 ・ 【北城】北の曲輪へ ・ 最北端の堀切 ・ 北西尾根に切られた二重の竪堀 ・ 竪堀は尾根まで続く
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横山城は北城と南城に分かれ、いわゆる「別城一郭」の構造を呈している。曲輪は横山丘陵全体に散在し、随所に土塁・堀切・竪堀などが設けられ、南城には往時の井戸址も残されている。最高所の北城主郭からは東に伊吹山、北方に小谷城が遠望でき、西方を通じる北国街道を扼して浅井氏を締め上げるのに最適のところであった。この城を失った浅井氏は、何度か奪還を試みたがついに回復することはできなかった。現在、山上に残る遺構は、本能寺の合戦で信長が滅んだのち、
秀吉と柴田勝家とが雌雄を決した賤ヶ岳の合戦のときに手が入ったものであるようだ。
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[ 豊臣氏 ・ 浅井氏 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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