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戦国山城を歩く
浅井・朝倉連合軍を果敢に迎え撃った─宇佐山城
宇佐山城は大津市北西にある近江神宮後方の山上にあり、元亀元年(1570)、織田信長の家臣森三左衛門可成が築いた山城である。
『言継卿記』『兼見卿記』など当時の記録には「志賀の城」とみえ、『信長公記』には
「志賀の城宇佐山拵、森三左衛門をかせられ」とか、「信長公志賀の城宇佐山に御居陣なり」などとあって、
当時は志賀の城と呼ばれていたようだ。ちなみに宇佐山の名は、
冶暦元年(1065)源頼義が山麓に宇佐八幡を勧請したことからそのように呼ばれるようになったという。
城址は宇佐山の山上最高所に主郭(本丸)を置き、その南に二の丸、北方に三の丸が設けられている。
それぞれの曲輪を固めるように帯曲輪、堀切、竪堀が築かれ、
大手にあたる琵琶湖側の山腹要所に腰曲輪が構えられている。さらに、比叡山へと通じる北方尾根の
る小山にも出曲輪を築き、北方からの攻撃に備えた縄張となっている。大手道は宇佐八幡の傍らより九十九折れに設けられ、山腹の曲輪を経て、山上主曲輪群へと通じている。現在、山上の主郭・二の丸には、放送局の送受信施設が建っているが、遺構そのものは大きな改変を受けてはいないようだ。主郭北東部、二の丸東の帯曲輪に見事な石垣が残り、
主郭と三の丸の間の大堀切、主郭北直下の武者走りと思われる側溝など、見るべき所は多い。
・宇佐山城址縄張図 (滋賀県中世城郭調査報告書より))
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宇佐八幡の鳥居 ・ 舞殿 ・ 宇佐八幡宮 ・ 八幡境内の城址看板 ・ 案内板に誘導されて城址へ ・ 森可成が出陣した山道
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中腹の曲輪と土塁 ・ 曲輪が散在する ・ どんどん登る ・ 主郭東北部の石垣 ・ 主郭切岸と東南曲輪の石仏 ・ 武者走りか…単なる溝か?
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元亀元年四月、信長は越前の朝倉義景を攻めたが、江北の同盟者であった小谷城主浅井長政の離反にあって
命辛々京都へ逃げ帰るという敗戦を被った。その後、宇佐山城に森三左衛門、安土城に中川清秀らをいれて
近江を固め、みずからは尾張において陣を立て直すと姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を打ち破った。しかし、石山本願寺、三好三人衆ら
八方に敵を持つ信長は浅井・朝倉の息の根を止めることはできず、逆に井浅井・朝倉連合軍の湖西進出を許してしまった。
これを迎え撃ったのは宇佐山城主森三左衛門、援軍として駆けつけた織田信冶、青地茂綱らであった。浅井・
朝倉連合軍は三万、対する宇佐山勢は二千余という寡勢であった。三左衛門は留守の兵三百ばかりを残すと、
九十九折れの道を下坂本に駆け下り、敢然と浅井・朝倉連合軍を迎え撃ったのである。
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主郭へ ・ 主郭から二の丸を見る ・ 主郭の櫓門址 ・ 二の丸に残る溜池跡 ・ 南腰曲輪から二の丸を見る ・ 二の丸東下曲輪に残る石垣
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東腰曲輪から見た石垣 ・ 南腰曲輪と二の丸切岸 ・ 二の丸より見た主郭 ・ 大堀切…三の丸と搦め手の分岐 ・ 三の丸の土塁 ・ 三の丸北東部の石垣
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三左衛門らは奮戦したものの衆寡敵せず、信冶・茂綱らとともに討死した。勝ちに乗じた浅井・朝倉勢は
宇佐山城を攻撃したが、武藤兼友・各務元正が指揮する城兵は頑強に防戦、よく踏ん張り続けた。
その後、摂津から駆けつけた信長は下坂本に布陣して浅井・朝倉軍に対峙したが、戦局は膠着状態となり
宇佐山城に本陣を移して浅井・朝倉方と睨み合いを続けた。
戦いが長期化することを嫌った信長は朝廷と幕府に働きかけて和睦を図り、ようやく十二月に和睦が成立した。
その間、比叡山は信長の要請を蹴って浅井・朝倉連合軍を支援し続けたことから、
のちに信長の焼き討ちを被る結果を招いた。
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三の丸北東切岸と腰曲輪 ・ 三の丸より北西曲輪を見下ろす ・ 三の丸の切岸 ・ 北東曲輪を西方より見る ・ 大堀切へ ・ 大堀切東方の竪堀
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……………
森三左衛門が戦死したあとの宇佐山城主は明智光秀が命じられ、北方に睨みを利かせた。
元亀二年、比叡山の焼き討ちが行われ、織田軍は圧倒的勝利をおさめた。その後、滋賀郡を与えられた
光秀は山上の宇佐山城を捨て、湖岸の坂本に新たに城を築いて移っていった。以後、宇佐山城は
歴史に登場することはなく、山上で空しく時を刻んできたのであった。
宇佐山城に登ってみて遺構の保存状態の良さには驚かされるが、樹木が茂っていることもあって
いずれの曲輪からも展望はゼロ状態だった。進撃してくる浅井・朝倉連合軍を見下ろし、出陣の号令を下し大手道を駆け下った
森三左衛門の目に映った光景を感じたかったのだが叶わなかった。
戦死した三左衛門の亡骸は、比叡辻にある聖衆来迎寺の真雄上人によって手厚く葬られ、いまも来迎寺境内に
立派な五輪塔が立っている。また、山麓の宇佐八幡宮を勧請した源頼義は森三左衛門の遠祖にあたる八幡太郎
義家の父にあたる人物で、なにやら人の世の不思議な縁を感じさせる。
宇佐山城のある志賀の里から坂本界隈には古代から近世までの史跡が散在する歴史遺産の宝庫で、歩くほどに、見るほどに、
悠久の時の流れを感じさせてくれるところだ。
…………
・写真:聖衆来迎寺の森三左衛門の墓 /坂本西教寺の明智光秀と一族の墓
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| ……
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