森 氏
鶴 丸 (清和源氏義家流) |
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森氏は清和源氏義家流を称している。すなわち、源義家の六男陸奥六郎義隆が、相模国愛甲郡森庄に拠って、
森冠者と号したのに始まるという。
しばらく頼の字を通字としていることから、美濃守護土岐氏の被官となったものであろう。たとえば、
可房が永正九年(1512)近江の赤田城で戦死したり、可秀が大永八年(1528)に近江小谷城で戦死しているという所伝などは、
美濃土岐氏と近江浅井氏との戦いによるものと思われる。
三左衛門可成の奮戦
森氏の可成以前については異説もあるが、歴史上ではっきりしてくるのは可成からである。
可成は三左衛門と称して美濃守護土岐氏に仕えたが、土岐氏が斎藤道三に滅ぼされたのち
尾張の織田信長に仕えるようになった。
以後、信長の清洲城攻めをはじめ、美濃の政変、信長と弟信行の争いに出陣、
永禄三年(1560)の桶狭間合戦にも参陣した。永禄八年、美濃金山城主となり、十一年、信長の上洛の陣に
参加して柴田勝家とともに先陣をつとめた。
元亀元年(1570)四月、信長は越前の朝倉義景を攻めたが、江北の同盟者であった小谷城主浅井長政の離反にあって
命辛々京都へ逃げ帰るという敗戦を被った。その後、宇佐山城に森三左衛門、安土城に中川清秀らをいれて近江を固め、
みずからは尾張において陣を立て直すと姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を打ち破った。
この姉川合戦において、浅井軍の先鋒磯野員昌の奮戦はすさまじく、
織田軍の陣を次々と打ち破ると信長の本陣に迫った。この員昌の進撃を阻止したのが
森三左衛門あった。
合戦に勝利したとはいえ、石山本願寺、三好三人衆ら八方に敵を持つ信長は浅井・朝倉の息の根を止めることはできず、
逆に浅井・朝倉連合軍の湖西進出を許してしまった。
これを迎え撃ったのは宇佐山城主森三左衛門、援軍として駆けつけた織田信冶、青地茂綱らであった。
浅井・朝倉連合軍は三万、対する宇佐山勢は二千余という寡勢であった。三左衛門は留守の兵三百ばかりを残すと、
九十九折れの道を下坂本に駆け下り、敢然と浅井・朝倉連合軍を迎え撃ったのである。
三左衛門らは奮戦したものの衆寡敵せず、信冶・茂綱らとともに討死した。勝ちに乗じた浅井・朝倉勢は
宇佐山城を攻撃したが、武藤兼友・各務元正が指揮する城兵は頑強に防戦、よく踏ん張り続けた。
その後、摂津から駆けつけた信長は下坂本に布陣して浅井・朝倉軍に対峙したが、戦局は膠着状態となり
宇佐山城に本陣を移して浅井・朝倉方と睨み合いを続けた。
戦いが長期化することを嫌った信長は朝廷と幕府に働きかけて和睦を図り、ようやく十二月に和睦が成立した。
その間、比叡山は信長の要請を蹴って浅井・朝倉連合軍を支援し続けたことから、
のちに信長の焼き討ちを被る結果を招いた。
三左衛門ゆかりの地を訪ねる
・ 姉川古戦場の夕暮れ ・ 宇佐山城の曲輪址 ・ 宇佐山城石垣址 ・ 聖衆来迎寺の三左衛門の墓
・宇佐山城址に登る
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大名への道程
可成の跡は鬼武蔵の異名をとった長可(長一)が継いで、天正十年(1582)の武田攻めに従い、その戦功によって、
更科・埴科・高井・水内の四郡二十万石を与えられ海津城を居城とした。
長可には、蘭丸を頭に力丸・坊丸・千丸の四人の弟がいた。蘭丸は信長の側近に仕え、諸将の接待、
信長会見の取次、加判奉行の職にあり、武田氏滅亡後に森氏の本領である美濃岩村城五万石を与えられた。
天正十年六月の本能寺の変において、蘭丸・坊丸・力丸の三兄弟は本能寺にあり、三人とも信長に殉じて討死した。
一方、北信濃の領主となった長可は、領内の支配体制を固めると、北陸の柴田勝家と呼応して越後に出陣した。
しかし、本能寺の変によって事態は急変、越後から撤退して信濃に帰ったものの領内は国衆が一斉に離反して
不穏な情勢であった。可成は海津城にあって危機の回避につとめたが、ついに信濃を支えることができず、
本領の美濃金山城に逃げ帰った。ところが、美濃も平穏ではなく、遠山・妻木・斎藤氏らが森氏排斥を画策、さらに家臣らの離反も相次ぐなど
可成の前途は多難であった。可成は羽柴秀吉に通じて反抗勢力に対抗、着実に支配体制を確立していった。天正十一年、
羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、可成は秀吉に味方して美濃の柴田方を攻め、戦後、東美濃から中濃までを
治める大名となった。
やがて、秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間で長久手の戦が起こると、可成は岳父の池田恒興とともに
秀吉に味方して出陣した。この戦いで可成は小牧山城の占拠を秀吉に提案、許しをえると軍を動かした。しかし、
小牧山城はすでに徳川勢の手に落ちていて、進軍を察知された森勢は徳川勢の奇襲にさらされた。
歴戦の勇将可成は徳川勢の攻撃をよく防ぎ、攻勢に転じようとして一旦兵を後退させたことを敗走と勘違いした友軍が
動揺したところを徳川勢に付け込まれ、ついに森軍は崩れて豊臣方の敗戦となった。
その後、戦線は膠着状態となり、戦況を打破するため豊臣方は徳川家康の本拠岡崎城を直接攻撃する作戦を立て、
豊臣秀次を大将とする軍勢が出陣した。可成もこの陣に加わったが、作戦はすでに家康に見破られており、
徳川方の攻撃に大将秀次が敗走するというなかで、可成は池田勢と合流して徳川軍と激突した。そして、
乱戦のなかで鉄砲の弾にあたって戦死した。享年二十七歳という若さであった。
かくして、近世へ
可成が戦死したのち、蘭丸・坊丸・力丸の三人の弟は本能寺で死んでいたため、
末弟の千丸、すなわち忠政が遺領を継ぐこととなった。忠政は秀吉から羽柴姓を名乗ることを許され、
天正十八年(1590)信濃川中島十二万石に封ぜられた。これは兄長可が信長から与えられた旧領であった。
金山七万石からの栄転で、小田原征伐や、伊豆韮山城攻撃に参加したことに対する論功行賞であった。
関ヶ原の合戦には海津城にいて、徳川秀忠の上田攻めに従軍し、その後、慶長八年(1603)には、
美作津山十八万六千石に転封となり、津山城を築いている。忠政は子重政・虎松丸・忠広の三人の実子を
自分より早く亡くしていたため、家臣関成次の子で、忠政には外孫にあたる長継を後嗣とした。
長継の子から播磨三日月藩が始まっている。
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■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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