森 氏
鶴 丸
(清和源氏義家流)

 森氏は清和源氏義家流を称している。すなわち、源義家の六男陸奥六郎義隆が、相模国愛甲郡森庄に拠って、森冠者と号したのに始まるという。
 しばらく頼の字を通字としていることから、美濃守護土岐氏の被官となったものであろう。たとえば、可房が1512年近江の赤田城で戦死したり、可秀が1528年に近江小谷城で戦死しているという所伝などは、美濃土岐氏と近江浅井氏との戦いによるものと思われる。

●近世大名への道程

 森氏の可成以前については異説もあるが、歴史上ではっきりしてくるのは可成からで、可成ははじめ斎藤道三に仕え、道三の死後信長に仕えている。近江宇佐城を守ったが、元亀元年(1570)、朝倉勢に攻められ討死している。
 その跡は長可(長一)が継いで、天正十年(1582)の武田攻めに従い、その戦功によって、更科・埴科・高井・水内の四郡を与えられ海津城を居城とした。
 長可の弟は、蘭丸・力丸・坊丸の三人の名が知られているが、蘭丸は長定のことで、信長の側近に仕え、諸将の接待、信長会見の取次、加判奉行の職にあり、武田氏滅亡後には美濃岩村城五万石に封ぜられている。  天正十年六月の本能寺の変においては、蘭丸・坊丸・力丸の三兄弟はともに本能寺にあり、三人とも信長に殉じている。長可は本能寺変後、信濃を支えることができず、本領の美濃金山城に戻り、織田信孝に属した。
 しかし、その後秀吉に仕え長久手の戦で戦死した。すでに蘭丸・坊丸・力丸の三人の弟は本能寺で死んでいたので、末弟の千丸、すなわち忠政が遺領を継ぐこととなった。忠政は秀吉から羽柴姓を名乗ることを許され、天正十八年(1590)信濃川中島十二万石に封ぜられた。これは兄長可が信長から与えられた旧領であった。金山七万石からの栄転で、小田原征伐や、伊豆韮山城攻撃に参加したことに対する論功行賞であった。
 関ヶ原の合戦には海津城にいて、徳川秀忠の上田攻めに従軍し、その後、慶長八年(1603)には、美作津山十八万六千石に転封となり、津山城を築いている。忠政は子重政・虎松丸・忠広の三人の実子を自分より早く亡くしていたため、家臣関成次の子で、忠政には外孫にあたる長継を後嗣とした。長継の子から播磨三日月藩が始まっている。

■参考略系図