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戦国山城を歩く
奥出雲の強豪国人三沢氏が拠った三沢城
三沢城は三沢川西側にそびえる要害山上にあり、北は斐伊川、南から西は阿井川、東は三沢川が天然の濠をなす要害で、
山陰・山陽を結ぶ要衝の地に築かれている。城主は一帯を治めた三沢氏で、十四世紀はじめに築城したと伝えられている。
縄張は規模壮大で、山上の主郭(本丸)と鳥居丸を中核に、北、東、南尾根に階郭状に曲輪を配置、
西側の急斜面には長大な帯郭を設けた複郭式の山城である。城址には大手口の石垣をはじめ、土塁・堀切・高い切岸
などの中世山城の遺構がよく残り、戦国時代の豪快な縄張を残した山城として貴重なものとなっている。
城主の三沢氏は、南信濃国飯島郷の地頭職飯島氏の流れをひく武家で、「承久の乱」に幕府方として活躍した
飯島為光が出雲国三沢郷を賜り、為光の孫広忠が新補地頭として三沢郷に下向して三沢氏を称した。三沢氏は
農地の開拓とたたら製鉄を行って勢力を蓄積、尼子氏登場前の出雲国内では最強の国人領主であった。
為国のとき尼子経久に属し、以後、尼子氏の有力武将として行動した。陶氏を倒した毛利氏が尼子氏を圧迫するようになると
毛利氏に転じ、尼子氏との戦いをはじめ九州攻め、小田原の陣、さらに朝鮮攻めにも従軍した。
三沢城本丸からの眺めは抜群で、晴れた日には遠く大山までもが見える文字通り360度のパノラマ風景を堪能できる。
また、三沢氏、飯島氏など城主三沢氏ゆかりの人々の手による記念碑が立てられており、
三沢氏の歴史がいまも息づいていることを感じさせてくれる城址だ。
・北西方の鴨倉集落より城址を遠望
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大手門と伝わる虎口、前面は見事な石積で枡形構造になっている。虎口を入ると大手郭というべき二の郭で、
主郭方面と十兵衛成に分岐し、二の郭の東側に土塁、南端部に櫓台が確認できる。
七曲り道を登ると左手に東南曲輪、正面に主郭が見える。ツヅラ折れの途中に「迷路石垣」と表示された石積があるが、
迷路と名づけられた意味が・・・?
東方登り口より城址を遠望 ヒロヤ坦の長閑な春景 大手へ 大手口 二の郭の土塁と櫓台(右端)
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東南尾根の曲輪と切岸 迷路石垣 主郭南直下の腰曲輪 曲輪を見下ろす 城址の石碑 主曲輪群へ
山上の主曲輪を構成する主郭は東西20メートル×南北50メートルほどで、西側斜面は急峻な断崖となっている。
主郭北尾根の鳥居丸は諏訪神社があったところで東西20メートル×南北60メートル、南端には櫓台状の基壇、北側に腰曲輪が一段築かれている。
主郭と鳥居丸とは、幅6メートル、深さは6メートルの大堀切で分断され、往時は木橋で結ばれていたようだ。
鳥居丸とその先の北尾根曲輪群とは堀切で分断され、鳥居丸東下に築かれた帯曲輪を経て北尾根曲輪へと至る。
主郭の南下には馬乗馬場曲輪、さらに岩棚と称される細長い曲輪が存在、南側には高さ2メートルほどの土塁が築かれている。
主曲輪部をとりまく腰曲輪群は犬走りで繋がり、主郭部を守備する防御ラインを形成、全体として東側からの攻撃を
意識した縄張で築かれていることが理解できる。
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大堀切 主郭から鳥居丸を見る 主郭(遠方に山並) 鳥居丸へ 鳥居丸の井戸址 鳥居丸-北腰曲輪から主郭を見る
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鳥居丸東直下の腰曲輪 鳥居丸と北の郭を区画する堀切 主郭東南下の武者走り 南西腰曲輪の土塁 岩棚 腰曲輪
山頂部から北東方向に延びた支尾根の中腹には十兵衛成と称される曲輪があり、城主居館と伝わっている。
規模は東西60メートル×南北20メートルほどの広さのものだ。西端の堀切は三沢池に通じ、さらに北の郭へとつづいている。
曲輪の西端には虎口を兼ねたと思われる櫓台、東端部には高さ2メートルほどの土塁、
その東尾根の小曲輪とは堀切(馬出し堀)で遮断されている。
北西部には横堀状の遺構があり、その先の武者走り状の山道と二重の防御構造を呈している。
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十兵家成西端の堀切 曲輪を取り巻く土塁 東の堀切 馬出し堀 西側の横堀 水の手曲輪と三沢池
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中山出丸を見る 堂森出丸の曲輪と切岸 三沢氏の古墓 三沢神社 横田八幡宮の鳥居と本殿(右端)
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城址へは西側中腹のヒロヤ坦まで車道があり、駐車場も完備されている。ヒロヤ坦から山道を少し歩くと
大手門と伝わる虎口で、よく整備された城址を探索することができる。
大手東方の小山には堂森、中山の出丸が築かれ、それぞれ曲輪、堀切などが残り、堂森の一角には三沢氏の古墓が
佇んでいる。三沢氏はここ三沢城とは別に、亀嵩に亀嵩城、横田に藤ヶ瀬城も築いている。
亀嵩は松本清張の「砂の器」の舞台となったところであり、横田には横田八幡宮をはじめ三沢氏ゆかりの史跡が残っている。
城址はもとより、三沢氏ゆかりの地を可能な限り訪ねたいと
思っているが相当の気合がいりそうだ。
→登城口案内板の縄張図
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