三沢氏
丸に三引/抱き柏*
(清和源氏片切氏流)
*伊達家中、前沢三沢氏の家紋。
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出雲の国人領主三沢氏の出自は、木曽系・飯島系などがあって、名前や戒名などに不整合なところが多い。
三沢氏の系譜について従来の郷土史は源経基の長子満仲の流れで、木曽義仲の孫為仲を三沢氏の祖としている。すなわち、義仲が討死したあと、巴御前は信州に落ちのび、そこで義仲の遺児を生んだ。これが、義仲の二男清水冠者義基で、その子の六郎三郎為仲が三沢氏の祖になったという。これが木曽系三沢氏のいわれである。
一方、長府藩の三沢家に伝わる史料などによれば、南信濃に住む源経基の末子満快の流れで、信濃国伊那郡飯島本郷に居館を構えた土豪に飯島氏があった。清和源氏片切氏の分かれで、寿永年間(1182〜84)に片切為行の子為綱が飯島本郷に居を構え、その子為光が飯島太郎を称したものである。為光は飯島郷の地頭となって、承久の乱には幕府方として出陣、功があった。乱後の論功行賞で出雲国三沢郷を賜り、為光の孫広忠が三沢郷に下向した。これがが飯島系三沢氏の始まりで、三刀屋郷の三刀屋氏と同じく新補地頭の一人であったことになる。
三沢氏の発展
木曽氏流といい、飯島氏流といい、そのいずれが真実なのかは不詳であるが、清和源氏の一流であることに間違いないようである。一説には、広忠の孫為長(為仲)が乾元元年(1302)はじめて出雲に入部し、三年間雨川に住んで農地を開拓した、ともいわれている。
三沢氏は農地を開拓するとともに、製鉄業にもつとめその力を蓄えていった。やがて、鴨倉に城を築いて現在の仁多町・木次町湯村を領し、ここを拠点に勢力を強めていった。そして為長は弟たちを林原・堅田・鞍懸などに封じて農地を開拓させ、名主として土地と農民を統括させた。みずからは鴨倉にあって三沢氏惣領として庶子家を統率、勢力を拡大していった。古記録によれば、為長が三沢城に入城したとされる嘉元三年(1305)のころ、飯島姓を改めて三沢姓を号したという。
その後、林原・堅田・鞍懸の庶子家をすべて惣領とし、三沢家の領地を拡張、一族の結合団結をさらに固めた。やがて、香折新宮の地頭職を得た為常は、大原に拠点を置くようになった。三沢氏は出雲守護となった山名氏に属していたようで、為忠は元中八年(明徳二年=1391)の明徳の乱に出雲守護山名満幸に従って京に上った。そして、京都内野の合戦で幕府軍と対戦し、一族の為元とともに戦死した。
為時・為忠(先の為忠の孫)の時代になると平田と大吉をあわせ、さらに河内・阿井・布広も領有した。永享十一年(1439)、為忠が横田八幡宮の造営に当たったことを示す棟札が残されており、このころ三沢氏は横田にも進出していたことが知られる。また、嘉吉三年(1443)三成八幡宮の遷宮棟札に三沢庄地頭として「為助(為忠と同一人物か)」の名があらわれ、足利幕府からも有力国人と認められていたことがうかがわれる。
尼子氏との対立
室町時代は守護京極氏に属したが、完全に服属したわけではなく、応仁の乱では国人一揆を束ねて京極氏と対抗するほどの実力を有していた。京極氏が守護代尼子氏に対して、三沢氏の動向に警戒を怠らない旨を伝えるほどの存在であった。
為忠の子為清は、京極氏と六角氏の争いに巻き込まれ、文明七年(1475)近江国弓削で討死し、このとき、一族の為季と為通も討死にした。その跡目は一族の為信が継ぎ、尼子の代官職をつとめた。為信は文明二年(1470)の出雲国一揆の張本人でもあった。三沢氏は為時の代までに郡内を領有し、横田庄は地頭請所とし、事実上の支配権を確立した。
十代の三沢遠江守為忠は永正六年(1509)、仙頭御所の院宣をうけて横田庄を地頭請所として守護するため横田の藤ケ瀬城を築いてそこに拠った。その後、京極氏に代わって、守護代尼子氏の台頭に際しても、国人領主の雄としてこれと対立した。さらに、清定・経久父子の富田城追放の際も、その中心的存在であった。
富田城を追われた尼子経久はその後、富田城を奪回し近隣を従えて尼子の本領を回復しようとした。まず最有力である三沢氏を従えることを策した。長享二年(1488)策を用いて三沢氏の兵力を減じ、同四年三沢為国の拠る横田藤ケ瀬城を攻め、これを攻略することに成功した。為国は尼子経久に下ってその代官となり、藤ケ瀬城に居城した。
為国のあとは弟の為幸が継ぎ、大内義興が流浪の将軍足利義稙を奉じて上洛したとき、為幸は出雲の武将らとともに備後鞆の浦に勢ぞろいして京都に上った。一方永正五年(1508)暮れ、六角定頼と三好一党が足利義澄を立てて京都へ攻め上ってきた。為幸らは堀川陣でこれを迎え撃って功をたて、将軍義稙から感状を受け備前守に任じられた。翌年、大内氏の陣を離れて帰郷した。
戦国時代を生きる
大永二年(1522)尼子経久に従い、安芸西条の鏡山城攻めに加わりこれを奪取した。しかし、享禄四年(1531)尼子経久の奇襲にあい、横田藤ケ瀬城は落城、兄為国と弟為隆は捕らわれて富田に幽閉された。しかし、為幸は三沢城に健在で、為清も亀嵩城にあり、尼子は軍を引き揚げていった。その後、尼子晴久が天文八年(1539)安芸の毛利元就と争ったときは尼子軍に属して出陣した。
この戦いで、毛利氏の応援に大内氏が一万の軍勢を派遣し、晴久が包囲に陥ったとき、為幸は先登に進んで敵の首級をあげること十三級に及んだが、晴久は大敗戦となったので、元就を討ち取らんと駆け入ったが、元就の馬廻りから発せられる矢を七本まで身に受けて討死にした。ときに、三十九歳であった。
為幸が戦死したときその子の為清は四歳であった。天文十年(1541)毛利元就・大内義隆らが出雲へ進攻するとの報があり、尼子旗下の十三将は密かに連携して大内へ誼を通じ、為清もそれに加わった。翌年、大内義隆が出陣、次いで毛利元就軍も進攻してきた、為清はいったん大内に降礼をとったが、対陣の最中に他の降将とともに大内を裏切り尼子に走ったので、形勢一変、大内軍は敗走した。
天文十三年、尼子晴久はふたたび山陰を制覇し、さらに備後・美作への進攻を図った。このとき、三沢氏は尼子氏に従わなかったため、晴久は為清の横田荘の代官職を取り上げ、これを尼子譜代の臣森脇山城守に与えた。天文二十年、為清は森脇山城守を急襲し、森脇を横田に走らせた。とはいえ、翌二十一年に毛利元就が尼子晴久の属将江田尾張守の居城備後江田城を攻めた際には、尼子晴久の救援軍に従って出陣した。さらに、翌年の作州高田城攻めにも尼子方について出陣し忠勤を励んだ。晴久は為清に対する懐柔策として自分の娘を嫁がせた。以後、為幸は尼子の陣中で常に中堅の部将として働いている。
弘治四年(1558)毛利方の吉川元春が石州温湯城に進攻したとき、尼子晴久は温湯城に援軍として出陣し為清もこれに従って出陣、大森銀山城を猛攻撃のすえに落とした。しかし、その留守を狙って毛利方の備後高野山入道久意が鴨倉城へ攻め込んできたことから、上阿井合戦が起こった。
三沢城址を訪ねる
・鴨倉から城址のある要害山を遠望 ・大手口に残る石垣 ・主郭と鳥居丸を隔てる堀切
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→ 三沢城址に登る
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毛利氏に属して転戦
永禄四年(1561)、毛利元就が吉川元春とともに出雲へ軍を進めてきた。元就の赤名進駐を機に三沢、三刀屋、赤穴の三将は毛利氏に降礼をとった。元就は三沢らが投降した翌永禄四年八月、赤名を発って高尾豊前守が守る多久和城攻めを手始めに出雲へ進発し、八月尼子方の馬木城を攻めた。為清は毛利軍に属して真木氏の夕景城攻略に加わった。
真木氏の当主久綱は、おりしも富田城に在番して留守中であった。とはいえ、夕景城は要害堅固な上に弓矢の達人も多く、一丸となって防戦し一進一退の攻防戦は三昼夜も続いたが、結局城は落ち城代の澁谷長平は潔く本丸に火を放って自刃した。ついで、三沢勢は五百人の兵力をもって高尾城を攻め落とし、さらに弓幡城へ向かった。ここでも激戦となり、三沢氏も一時、攻めるのを見合わせたが、さらに攻撃の手を緩めなかったことから、ついに城は落城した。
翌年、為清と子の為虎は毛利方の吉川元春の陣に属し、白鹿城攻めに加わり、また一族は熊野城を攻め城主熊野和泉守を討ち取るなどの功をたてた。永禄十二年(1569)の毛利軍の九州大友攻めに際しては吉川元春の手に属し、筑前立花城攻めに加わっている。尼子勝久はその隙を狙って尼子氏再興を企て、雲南地方に兵を進めたため、為幸は急ぎ帰り尼子軍と日登で激戦を展開した。
元亀元年(1570)、毛利軍に従い尼子軍と布部山に戦い功をたて、さらに尼子軍を追って松江の羽倉城・真山城を攻めた。そのまま天正元年(1573)の鳥取城進攻に参陣し、翌天正二年、四年ぶりに三沢に帰った。同六年、毛利軍は羽柴秀吉の支援をえて上月城に立て籠る尼子勢を攻めた。為清・為虎父子は出雲・石見勢の一手となって、吉川元春軍に加わって奮戦、上月城攻略に功をたてた。
天正七年(1579)以来、毛利方の鳥取城は羽柴秀吉軍の攻撃を受け、同九年には完全に包囲された。有名な鳥取の干殺しで、三沢為清・為虎父子は毛利輝元に従って参陣した。翌十年、秀吉の備中高松城攻めに参陣していたとき、本能寺で織田信長が明智光秀に殺害された。羽柴秀吉は城主清水宗治の切腹を講和条件として、毛利軍と和議を結ぶと播磨に撤兵、休む間もなく山崎の合戦で光秀を破り一躍天下人に躍り出た。
その後の三沢氏
為清は天正十四年に没し、家督を継いだ為虎は天正十七年毛利輝元に謀られて芸州で虜同様の身となり、さらに長州厚狭郡へ移された。とはいえ、全くの左遷というわけでもなく、輝元の知遇を得て古帳一万石を給され、同地に居館を構えている。その後も毛利氏の部将として天正十八年の小田原攻めに参陣、続く慶長二年(1597)朝鮮にも出陣し蔚山城の攻略に手柄をたて、秀吉から感状も受けている。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いには、毛利輝元・秀元の請いにより赤間関警護の大任についたが、合戦後、毛利氏は長州に削封された。そして、為虎は長府毛利藩の付家老として代々の地を去っていった。ここに、乾元元年から天正十七年までの二百八十年余、連綿と続いた三沢氏も出雲の地と永遠に訣別することになった。
■参考略系図
・出雲の三沢氏は、木曽義仲の後裔とする説もあるが、満快流伊奈為公の子からの分かれとする方が自然ではないだろうか。下記系図は「仁田町史」掲載のものを抄略したものです。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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