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浦上氏
●檜 扇
●紀氏長谷雄流  
・『見聞諸家紋』に見える浦上氏の紋。  


 浦上氏は平安時代中期に活躍した紀長谷雄の後裔といい、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)がその発祥地と伝えられている。
 浦上は『播磨国風土記』にも「浦上里」としてみえる古い地名で、平安時代に浦上庄という荘園になり、後白河法皇によって京都新熊野神社に寄進された。浦上庄の範囲は、現在の兵庫県たつの市揖保町一帯と考えられている。文治元年(1184)、源頼朝から播磨守護職に補任された梶原景時が同庄の地頭職を与えられたが、法皇の訴えで景時は浦上荘地頭職を停止されたようだ。
 『赤松家播備作城記』には、浦上庄内の中臣城の初代城主として「紀秀村」の名が伝えられている。この秀村がのちの浦上氏の祖になる人物かどうかは分からないが、紀姓の人物が浦上庄に存在していたことは知られる。
 浦上氏は播磨守護職赤松氏の被官として世にあらわれてくるが、浦上氏の系譜は諸種あって一定しない。たとえば、紀行義が浦上左衛門佐を名乗り、その曾孫紀掃部助の孫美作守則宗が赤松氏に属したとするもの、あるいは、七郎兵衛行景が赤松則祐に属し、以降、広景−行宗−貞宗−美作前司則宗と継承するものなどがある。しかし、いずれが真を伝えたものかを判断することは困難をきわめている。

浦上氏の登場

 浦上氏の名が確かな文書上にあらわれるのは、『大徳寺文書』にみえる為景なる人物が最初である。
 大徳寺の開山は大燈国師で知られる宗峰妙超で、浦上掃部入道覚性(一国ともいう)の子と伝えられている。宗峰は同郷の赤松則村(円心)の帰依を受け、正和四年(1315)、洛北紫野に小堂を建立した。これが、大徳寺の起源となり、正中二年(1325)、花園天皇は大徳寺を祈願所とする院宣を発している。鎌倉幕府が滅んで建武の新政がなると、後醍醐天皇も大徳寺に保護を与え、建武元年(1134)、大徳寺は京都五山のさらに上位に位置する綸旨を与えている。
 後醍醐天皇から下総国葛西御厨に代えて播磨国浦上庄を寄進された宗峰は、浦上庄の半分を一族に分配することを申し出て許され、為景が天皇からその旨の綸旨を賜った。ところが、為景は浦上庄半分地頭職を一族に分配することなく、一人占めしてしまった。そのため、為景は天皇から綸旨を取りあげられ、天皇は改めて一族に配分するよう綸旨を発行している。為景の名は、『八坂神社文書』にも浦上新左衛門尉為景とみえており、その実在は疑いないものである。
 建武二年(1335)、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえしたことで新政は崩壊し、時代は南北朝の動乱へと推移していくことになる。建武二年(1335)、足利尊氏は播磨国浦上荘の地頭職を長井貞頼に与えており、当時の政治の混乱ぶりをうかがわせる傍証となっている。また、宗峰を支援した赤松則村は、はじめ後醍醐天皇に属して新政の樹立に功があったが、恩賞に対する不満から尊氏が謀叛を起すと天皇から離反して尊氏に味方した。
 尊氏が幕府を開くと、則村には播磨守護職が、長子範資には摂津守護職が与えられ、赤松氏は一躍山陽道の要地を押さえる有力守護にのしあがったのである。暦応二年(1339)、円心は播磨国須富庄北方をめぐって、同地の地頭職を持つ成田基員と紛争を起した。円心は成田氏の代官某が、敵方に味方したとして、同地を没収したのであった。この時、浦上為景は幕府からの質問を受け、成田氏の代官に不審な点がないことを請け負ったことが『京都八坂神社文書』にみえている。このことから、浦上氏は赤松氏の麾下に属していたものの、被官という立場ではなかったようだ。

赤松氏に属して勢力伸張

 南北朝の争乱は、はじめ尊氏方の優勢に動いたが、尊氏の執事高師直と弟の直義の対立から観応の擾乱が起り、幕府は二分された。赤松一族は尊氏に味方し、観応二年(1351)、尊氏が直義方の石塔頼房を播磨光明寺城に攻めると赤松則祐も尊氏方として出陣した。ついで摂津神南山において足利義詮と足利直冬が戦ったとき、直冬方の山名師氏(師義)の猛攻撃に義詮が押され気味となった。義詮方にあった赤松則祐は佐々木道誉とともに奮戦、ついに師氏を敗走させる勝利をえた。
 これらの戦いにおいて、浦上七郎兵衛尉行景が赤松則祐に従って活躍、次第に赤松氏の信頼を得ていったようだ。そして貞治元年(1362)、山名時氏が備前国に侵攻したとき、行景は備前守護松田信重と共に防戦につとめたことが『太平記』に記されている。やがて、赤松則祐が備前守護職に補任されると、行景は守護代に抜擢された。これが播磨を本領とした浦上氏が備前と関係をもつはじめとなり、以後、浦上氏は赤松氏の有力被官として活動することになる。
 かくして、浦上氏は守護代職をてことして、備前国内に所領を獲得していったようで、『大徳寺文書』から備前国邑久郡磯上が浦上氏の所領となっていたことが知られる。
 行景の後、浦上帯刀左衛門尉助景なる人物が備前国守護代職を引き継いだ。為景のあと、行景、そして助景と「景」を通字とする浦上氏が活躍し、助景は播磨一宮伊和神社に伝えられた文書にもその名をとどめている。助景は備前守護代をつとめつつ、赤松氏の被官として播磨の支配にも尽力していたのである。その後、助景は美濃守に任じ、赤松義則が幕府の侍所頭人に就任すると、所司代に取り立てられる大抜擢を受けた。以後、京都に上った助景は所司代として京都の治安にあたり、洛中洛外の寺社に多くの文書を残している。
 ところが、応永十五年(1408)、浦上美濃入道助景は伊勢国山田において誅殺されてしまった。誅殺とは尋常ではないが、助景が死に至った背景は分からない。応永十五年は将軍足利義満が死去した年であり、助景はなんらかの権力争いの犠牲になったものと思われる。助景の死によって、景を通字とする浦上氏は没落したようで、浦上氏の備前国における勢力拡大も一頓挫することになった。その一方で、助景後の所司代には浦上美作入道性貞が就任した。この性貞は、浦上氏を一大飛躍させる浦上則宗の祖父にあたる人物である。

赤松氏の没落と復活

 美作入道性貞の実名は不明だが、赤松義則の老臣として軍勢を率いて山名軍と戦い、所々の合戦に活躍した。また、備前国内の寺院に対して住持職安堵などの判物を発給するなど、赤松氏の力を背景として備前・美作両国への影響力を強化している。
 性貞の活躍で特筆されるのは、正長元年(1428)に起った 正長の土一揆におけるものである。ときの所司代浦上性貞は、管領畠山満家・侍所所司赤松満祐らに従って、軍兵二百騎を率いて鎮撫に務めた。『東寺百合文書』などに、一揆鎮定のために発給した性貞の文書が多数残されていることからも、その活躍がうかがわれる。性貞のあとは、嫡男と思われる浦上掃部なる人物が登場してくる。浦上掃部も赤松満祐に仕えて、永享三年(1431)、満祐の名代として将軍足利義教に意見書を提出している。とはいえ、浦上掃部に関する史料は乏しく、その実名も含めて事蹟を明らかにすることには限界があるようだ。
 やがて、浦上氏をとりまく環境を激変する事件が起った。嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍足利義教を殺害、京から播磨に帰ると城山城に立て籠ったのである、いわゆる嘉吉の乱で、浦上一族も満祐のもとに馳せ参じて幕府の討伐軍と戦った。しかし、このときの浦上掃部の姿はなく、『書写山坂本城着到者』には浦上四郎(宗安)がみえ、ほかに浦上信濃守(則永)、浦上七郎兵衛らの名が旧記から知られる。
 幕府軍の中核をなしたのは山名氏の軍勢で、赤松氏が没落したのちの播磨守護職は山名持豊(宗全)が補任された。その後、赤松氏再興の動きがあったが、ことごとく山名氏によって潰され、遺臣は逼塞を余儀なくされた。しかし、小寺豊職らが満祐の弟義雅の孫赤松政則をもりたてて赤松氏の再興に尽力、ついに長禄元年(1457)、政則は赤松宗家の家督相続を許された。かくして、浦上則宗は政則の重臣として赤松氏の勢力復興に活躍、失っていた勢力を回復していったのである。
 ところで、嘉吉の乱ののち幕府政治は混迷を極め、将軍家、管領畠山氏、斯波氏らにおいて家督をめぐる内訌が続発していた。そのような情勢のなかで台頭してきたのが、細川京兆家の当主で幕府管領の細川勝元と四職のひとりで播磨守護の任にある山名宗全(持豊)であった。そして、応仁元年(1467)、細川勝元の東軍と山名持豊の西軍とに分かれて応仁の乱が起った。

はてしなき乱世へ

 赤松政則は勝元方に加担して、播磨に入ると山名軍と戦い、旧領の回復を図った。そして、播磨・美作・備前の三国の守護職に補任され、文明三年(1471)には侍所所司に任ぜられるなど赤松氏の勢力を旧に復した。浦上則宗は備前守護代に任じられ、所司代にも任じられて政則を実務面で支えた。
 文明五年(1473)、山名持豊・細川勝元が相前後して病没したのちも応仁の乱は慢性的に続いたが、細川政元・山名政豊らの間で講和が成立した。赤松政則は猛烈に講和に反対したが、大内氏、畠山氏らが領国に退いたことで、さしもの乱もうやむやのうちに終熄した。しかし、乱の影響は全国に及び、時代は下剋上が横行する戦国乱世となっていた。
 文明十一年、則宗に京都をまかせて播磨に下向した政則は、播磨・備前・美作三国の支配に乗り出した。文明十三年(1481)、山城守護に補任された政則は則宗を守護代とした。かくして、則宗は所司代、山城守護代職として京都の平安に力を尽し、その権勢はおおいに伸張していった。
 文明十五年(1483)年十一月、御津郡金川城主の松田元成が、備後守護山名俊豊と結んで、赤松氏の守護所福岡城を攻撃した。福岡城は浦上則国・櫛橋則伊らが守備していたが劣勢で、京の則宗は政則に救援を依頼した。これに対して政則は浦上掃部助(則景か)・赤松下野守らを派遣し、みずからは一気に但馬の山名本国を衝こうとして播但国境の真弓峠に出陣した。結果、政則は但馬守護山名政豊に大敗を喫し、姫路に逃げ返った。政則の敗戦を知った掃部助らも兵を返したため、福岡城は山名、松田連合軍によって陥落してしまった。さらに、政則を追撃した山名勢が播磨乱入し、以後六年にわたる一大争乱の幕開けとなった。
 真弓峠での敗戦、福岡城の陥落という政則の失策は国人層の離反を招き、翌十六年正月、浦上則宗が急ぎ播磨へ下向してくると国人領主の多くは則宗のもとに参集した。一方で、赤松政秀を盟主とする動きがあり、赤松一族の在田・広岡氏らは山名氏に与して赤松播磨守の息子を擁立、さらに有馬氏も山名氏に与するなど赤松氏は大きく分裂してしまった。このようななか、政則に付き従うものはわずかとなり、身の危険を感じた政則は和泉国堺へと奔った。
 浦上則宗は小寺則職・中村祐友・依藤弥三郎・明石祐実らの諸将と会談し、政則を廃して、赤松刑部大輔(有馬則秀)の子慶寿丸に家督を継がしめようとした。そして、五人連署して、室町幕府にその旨を嘆願、幕府もこれを承認した。

下剋上の世

 こののち、浦上則宗を中心とする赤松家臣らは山名氏との戦いを展開したが、ついに敗れて上洛してきた。播磨はふたたび山名氏の治世下に入ったのである。
 足利義政の仲介により、政則と浦上氏らは和解し、赤松氏は播磨奪回に向けて行動を開始した。文明十六年、京を発した赤松勢は摂津有馬郡に留まり、翌十七年三月播磨に入った。政則は三木郡三津田、加東郡小田・光明寺と転戦して東播磨を制圧し、坂本城を拠点に西播磨に居すわる山名氏と対峙した。以後、五年間、赤松氏と山名氏は一進一退の合戦を繰り広げた。
 山名政豊が坂本城を出て但馬へ去ったのは、長享二年(1488)七月のことであった。これ以後、瞬く間に赤松政則は播磨・備前・美作の三ケ国を回復する。そして、三ケ国回復に活躍した別所則治を東播磨八郡を管轄する守護代に任じるなどして、領国支配体制を整備した。
 南北朝内乱以来の赤松氏と山名氏との宿命の対立は、応仁の乱に続く延長戦で政則が勝利したことで、決着がついたかにみえた。武力でも播磨・美作・備前を回復した政則は、将軍義材の近江再征には軍奉行として活躍した。そして、明応二年(1496)従三位に叙せられ、公卿に列した。将軍以外の武将でこの位に昇ったのは政則がはじめてという、晴れがましい位階である。しかし、その二か月後、政則は四十二歳で病没した。
 政則の後半生は、赤松氏盛時以上の栄光に包まれていたようにみえるが、それは虚構に満ちた最後の栄光でもあった。つまり、政則の栄光は浦上氏を筆頭とする老臣の活躍に負うところが大だったのである。そして、応仁の乱中から台頭してきた浦上則宗が赤松氏の実権を握っていった。則宗は政則が没したのちの赤松氏家督に政則養子の義村を立て、その権勢は主家赤松氏を凌ぐまでになったのである。
 則宗には嫡男則景がいたが、文明十七年、播磨片島の戦いで島津左京亮らとともに戦死した。そのため、甥の宗助を養子に迎えたようで、宗助は浦上氏の居城を備前国和気郡の三石城に移している。以後、三石城が浦上氏の本城となる。

備前の戦国大名へ

 明応六年(1497)、宗助は松田元勝方の富山城を攻めたが、救援に駆けつけた松田元勝の軍に敗れ竜の口山に逃げ込んだ。窮地に陥った宗助を救援したのが、三石城から出撃してきた宇喜多能家であった。ついで明応八年、浦上則宗が同族で赤松宗家を支援する浦上村国と争いを起こし、備前、播磨の国境付近で戦いが行われた。戦いに敗れた則宗は白旗城に籠城、落城寸前になった白旗城の危急を救い、則宗の勝利に貢献したのも宇喜多能家であった。この能家こそ備前の戦国大名となる宇喜多直家の祖父にあたる人物である。
 浦上則宗は文亀二年(1502)に没したが、嗣子の宗助は先に病死していたため、宗助の子村宗が家督を継承した。村宗が継いで間もなく、松田元勝が攻めてきた。村宗は苦戦に陥ったが、宇喜多氏の活躍で松田勢をよく撃退した。こうして、村宗は備前における地歩を固めていき、則宗のあとを継いで主家赤松家の政務を執り仕切った。
 やがて、赤松義村が村宗の権勢に危惧を抱くようになったことから、永正十五年(1518)、村宗は居城三石に退いた。これに対して、義村は三石城に村宗を討とうとして、みずから兵を率いて備前に出陣してきた。このとき、村宗方には備前・備中・美作三ケ国の国人衆が集まり、義村に戦いを挑んだ。翌永正十六年にも赤松義村は浦上氏を攻めたが、城を落とすことはできなかった。
 そこで義村は、浦上方の美作粟井城と岩屋城を小寺則職に命じて襲撃させた。このとき、赤松軍を迎えうったのは村宗の重臣宇喜多能家で、能家は小寺則職の兵を飯岡で撃破し敗走させた。その後、則職は岩屋城を攻めて敗れ、村宗はこの勝ちに乗じて守護赤松義村を捕え、義村の跡目としてわずか二歳の遺児才松丸(のち晴政)を立てた。さらに、義村を播磨の室津に幽閉し、ついに大永元年(1521)七月義村を暗殺してしまった。
 かくして、才松丸を形ばかりの守護として擁した村宗は、播磨・備前・美作三ケ国の実権を手中に収めることに成功した。こうして、浦上氏は下剋上によって、備前・美作・西播磨を領する戦国大名に飛躍した。
 この村宗の主家乗っ取りは、下剋上の典型としてよく知られている。室町時代の守護大名は原則として在京することが原則であったため、実際の在地支配は守護代が行うことが多かった。その結果、在地の国人領主や農民らは守護代との関係を強めることになり、幕府=守護体制が弛緩するとともに守護代が守護を凌ぐようになったのである。越後の長尾氏、越中の神保氏らも浦上氏と同様にして戦国大名となった者たちであった。

全盛、そして内訌

 赤松氏と浦上氏が抗争を続けているころ、幕府においては管領細川氏が分裂して、互いに抗争を繰り返していた。抗争に敗れた前管領細川高国は、各地を流浪して支援者を求めたが思うにまかせなかった。享禄二年(1529)、備前三石城にあらわれた高国は村宗に支援を求めてきた。高国を受け入れた村宗は、翌享禄三年に兵を挙げると、三好氏に支援される細川晴元方との間で戦いを繰り返した。
 翌享禄四年、阿波の三好氏、細川氏らが続々と堺に上陸、高国=浦上村宗と晴元=阿波勢とは摂津天王寺で一大決戦を行った。そこへ、赤松晴政を擁する赤松軍が背後から攻撃してきた。予期しなかった赤松勢の攻撃に村宗=高国軍は浮き足立ち、ついに村宗は戦死、敗走した高国は捕えられて尼崎で自害した。ここに、一代の梟雄浦上村宗はその骸を戦場に晒す結果となった。
 村宗には嫡子政宗と二子宗景があり、村宗戦死後、兄弟が並立するかたちで浦上氏を継いだ*。思いがけず村宗は戦死してしまったが、則宗以来築いてきた浦上氏の勢力は揺らぐことはなかった。浦上兄弟の武威は大いに振るい、播州室津に城を築いて領国を治めたが、兄弟の間はとかく不和であった。享禄四年(1531)頃から、宗景は備前国天神山に城を築きはじめ、翌年室津城を出て天神山城に拠った。政宗には父村宗ほどの力量はなかったようで、宗景としては兄に従っていては将来が危ぶまれ、早く兄から遠ざかりたかったようである。なお、宗景の天神山移城は、永禄十二年(1569)足利・赤松の軍と戦って敗れ、勢力を失って備前一国を保ったときのことであるともいう。
  
  
三石城址を訪ねる

JR三石駅から城址を遠望 ・大手門跡の石垣 ・本丸と出丸を分かつ堀切 ・本丸の土塁 ・馬場跡と称される帯曲輪

→ 三石城址に登る


天神山城址を訪ねる

北西より城址を遠望 ・段状に曲輪が連なる ・本丸から南方を眺望 ・曲輪の石垣 ・西櫓台と三の丸(後方)

→ 天神山城址に登る


 その後、天神山城を本城とした宗景は、しきりに美作・東備前に兵を繰り出し、その勢力はあなどりがたいものと なっていった。そして、兄政宗との対立は深刻となっていった。また宗景は赤松義祐などと戦い、 次第に戦国大名として成長していった。
………
: 村宗死後の浦上氏の家督に関して、政宗、宗景の並立相続には異説がある。おそらく、嫡男の政宗が家督を継いだが、尼子氏の侵攻に際しての対応により兄弟は袂を分かったとする説が有力である。

浦上氏の没落

 やがて、因幡を勢力下においた出雲尼子氏の勢力が南下するようになり、宗景はこれに鋭く反発した。天文二十二年(1553)、尼子晴久が二万八千の兵をもて作州への侵攻を開始した。これに対し、宗景は備前・美作の兵一万五千をもって天神山を出で、高田表に陣をとり、尼子軍と数度にわたって戦った。しかし、数に劣る浦上方は打ち負けて退いた。このとき、宗景の兵五千余騎は備えを乱さず控えていた。
 一族の賢能斎という者が宗景に今旗本をもって敵に取りかかれば、敵は乱れ必勝間違いなしとすすめたが、宗景はそれを入れず「旗本を堅固に備てあれば、先手はみな打ち負けるとも総崩れにはなるまじ」といい、備えを崩さなかったという。
 結局、尼子氏との合戦では、大勢の味方を討たれ美作の諸城を取られたが、いずれの日か勝利あるべし、尼子軍が引き上げれば、作州の城は取り返すべし、といいながら天神山に帰陣したという。この宗景の戦意は、美作の国人たちの心を捉えた。そして兄政宗に代わって、浦上氏の多くの家臣は宗景に従うようになり、「備前国中大抵は宗景にしたがひ敵する者すくなし」という有様となった。  一方、政宗は播州室津に在城し、永禄 七年(1564)、その子清宗のために黒田孝高の娘を娶った。ところが、その婚礼の席上に龍野城主の赤松下野守の襲撃を受けて父子ともに殺害された。そこで孝高の娘を二男忠宗に娶せて跡継ぎとしたが、忠宗も宗景の命を受けた江見原某という者に殺害され、室津浦上氏は滅亡した。その後、孝高の娘は男子一人を生み、その子は久松丸といい岡山の宇喜多直家に迎えられたという。
 天正五年(1577)、直家は久松丸のために仇を奉じるとして兵を挙げ、天神山に宗景を攻めた。これに対して、天神山城方のなかに内応するものがあって、翌天正六年(1578)に城は落ちた。こうして浦上宗景は、家臣にあたる宇喜多直家に背かれて備前を遂われてしまったのである。要するに下剋上によって主家赤松氏の領国を奪った浦上氏が、今度は家臣宇喜多氏の下剋上によってその地位を奪われたということになる。
 その後宗景は、毛利氏あるいは織田氏を利用して領土の回復を果たそうとしたが失敗し、黒田如水のもとで晩年を過ごしたという。しかし、確かな史料があるわけではなく、浦上氏は歴史の波間に没してしまったのであった。・2006年3月26日

・浦上氏ダイジェスト

参考資料:岡山県史/兵庫県史/国史大辞典/戦国宇喜多一族/岡山県歴史人物事典 ほか】

●お薦め_Web: 浦上家の盛衰/ 播備作戦国史落穂ひろいさんの運営)
/城が好き!

■参考略系図  
 
 
・諸本の系図を合成したもの。




・紀姓堀田系図にあるもの(上)、戦国大名家臣団人名事典にあるもの(下)を、それぞれ底本として作成した系図。

 


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