守護山名氏が最期に拠った--有子山城



南北朝のはじめに但馬守護職に任じられて以来、戦国時代末期まで但馬は山名氏の領するところであった。山名氏は此隅山城を本城としていたが、山名祐豊のとき織田勢の但馬侵攻により落城、祐豊は堺に逃亡した。その後の天正二年(1574)、織田信長に通じて但馬に復活した祐豊はより高所にある有子山に新たに城を築いた。さきの此隅山城が「子盗」に通じることから「有子」山城と名づけられたという。しかし、祐豊・氏政父子はは織田氏を裏切って毛利氏と和睦したため、天正八年、羽柴秀吉の攻撃を受けて落城、氏政は因幡に出奔、祐豊は病死したため但馬山名氏は没落した。江戸時代になって、山麓に出石城が築かれ、有子山城は廃城となった。
●出石城大手方面から有子山城址を見る・登城口の稲荷神社の鳥居・急坂を直登する・竪堀・堀切




●堀切と土橋・井戸曲輪跡・苔むした石垣・曲輪を囲む土塁の跡・曲輪の石垣




●曲輪を主郭方面へ・主郭への道・主郭からの眺望・主郭は想像以上に広い・崩落した石垣




城址へは、出石城跡の稲荷曲輪への参堂を登り切ったところにある城址の碑が、登城へのはじまりとなる。そこから城址の曲輪まで、油断をすると転げ落ちるような急坂をひたすら直登する。小曲輪・堀切を越え、山上の城址にたどり着くと、但馬守護山名氏の居城にふさわしい縄張りが堪能できる。見事な石垣群、六段の曲輪、千畳敷、大規模な堀切が残り、主郭からは出石の町が一望できる。登りの疲れが一気に吹き飛ぶ素晴らしい城跡、それが有子山城だ。
●主郭と千畳敷を分かつ堀切・段差の残る千畳敷・石取り場跡・曲輪が続く・出石城址の隅櫓

山名氏