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戦国山城を歩く
越前朝倉氏の栄華を伝える─ 一乗谷訪問記
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越前の戦国大名−朝倉氏の本拠地である一乗谷は、山麓の朝倉氏居館を中心とした城下町跡と、朝倉館跡の背後にある標高473mの山上に遺構が残る山城址とがセットになっている。応仁・文明の乱を好機として主家斯波氏に代わって越前守護職になりあがった朝倉孝景が、それまでの拠点であった黒丸館から一乗谷に移したもので、朝倉氏の代々が城下町として整備してきたところだ。
越前朝倉氏は但馬国養父郡朝倉から起こった武家で、南北朝時代に一族のひとり高景が足利氏に属して活躍、恩賞として足羽荘を与えられて越前に移り住んだことに始まる。以後、乱世を巧みに泳ぎきって戦国大名へと飛躍し、戦国時代の義景は近江の浅井長政と結んで織田信長と対立したことは今年の大河ドラマでも描かれた通りだ。
城下町跡は昭和四十年代に始まった発掘調査の成果による遺跡の保存・整備と、発掘調査を踏まえて復元された一部の町並みが戦国時代の姿を彷彿させる素晴らしい戦国史跡公園となっている。一乗谷は北の城戸と南の城戸で厳重に防御され、谷筋がそのまま城といってもよい構造となっている。
朝倉館址を俯瞰
城下町跡は昭和四十年代に始まった発掘調査の成果による遺跡の保存・整備と、発掘調査を踏まえて復元された一部の町並みが戦国時代の姿を彷彿させる素晴らしい戦国史跡公園となっている。一乗谷は北の城戸と南の城戸で厳重に防御され、谷筋がそのまま城といってもよい構造となっている。
南城戸 中の御殿虎口石垣 復元された諏訪館庭園跡 朝倉館後方の東斜面堀切
一乗谷の中心をなす朝倉館は、三方を堀が取り巻き、西南隅に櫓台を設けた土塁が巡らされている。館正面の唐門は豊臣秀吉が朝倉義景の善提を
弔うために寄進したものと伝えられる桃山様式のもので、朝倉時代のものか?と錯覚するほどの古寂びたたたずまいが魅力的である。
一乗谷を外的から防御し、城域を区画するのが南北に残る城戸で、それぞれ見事な土塁が残っている。特に北の城戸は空堀と水濠を伴い、
虎口部分には巨石を積み上げた喰い違い虎口が残っていて、一乗谷最大の見どころといっても過言ではない遺構である。
朝倉義景の墓所 朝倉館の土塁と隅櫓址 唐門と濠 復元された街並み
北城戸の虎口と土塁
詰めの城─ 一乗山城に登る
一乗谷東方にある詰めの城址への登山路は、一乗谷から三つのコースがある。
1)下城戸外の安波賀からの尾根伝い道
2)八幡神社横の道、馬出(うまだし)から登る道
3)朝倉館の後方や諏訪館の後方から登る道
われわれは、資料館の方のおススメコースでもある八幡神社からの登山路を辿った。山麓の馬出といわれる曲輪群を通り抜け、山上曲輪群へと続く山道は戦国時代より踏み固められたものであろうか非常に明確で、要所に道標が設置され、城門跡を思わせるところもあり迷うことは無かった。しかし、ときには滑り落ちそうな急登は、毎度のことながら戦国時代の武士はどれくらいの体力があったのか?と驚かずにはいられなかった。
一乗谷朝倉館より詰めの城を遠望
山道をひたすら登っていくと、城址曲輪跡と思しき地形に到達、用意してきた縄張り図をみたがどこにいるのかが特定できない。「ままよ」と登っていくと「不動清水」に到着、縄張り図をチェックすると城址北西端にいることを確認、不動清水を登ったところが城址の本丸となる。立ち位置が分かれば、城址攻めをどうするか相談、縄張り図の通り本丸界隈 →一の丸 →二の丸 →三の丸と探索していくことに決定。
山麓の曲輪址 石垣が見事な馬出跡 登り道の線刻地蔵さん 千畳屋敷址と観音屋敷を仕切る土塁
まず、千畳敷といわれる本丸界隈から探索を開始する。広い曲輪の右寄りのところに仕切り土塁が築かれ、往時は御殿があったらしい礎石が散らばっている。仕切り土塁の向こうの観音屋敷跡は中央に土壇が築かれ、後方山腹にあった赤淵明神跡との斜面は見事な切岸、谷側も土塁で固められている。土塁の一角に虎口が開き宿直曲輪への城道が通じている。
宿直曲輪からの眺望は抜群のもので、眼下に一乗谷、その向こうには福井平野が広がり、天気がよい日には三国湊まで遠望できるそうだ。見張所と留守居を兼ねた宿直曲輪にふさわしい立地のところであった。宿直曲輪の虎口は折れをもち、土塁と石垣、武者隠しを思わせる曲輪を伴った凝った造りのもので城址の見どころのひとつだ。
宿直曲輪から福井方面を眺望する
本丸から一・二・三の曲輪へは、尾根を乗り越え、ヘアピン状の城道を登り返し、土塁・畝状竪掘で防御された土橋状の尾根道を歩く。尾根道を渡りきったところに武者隠しであろう土塁で囲まれた曲輪があり、正面に「一の丸」の高い切岸が聳えている。「一の丸」は城道側に空堀をもち、城道の西側斜面には竪堀が落とされている。城道は一の丸をまくように続き、やがて、一の丸」西端に切られた堀切へと至る。谷川の斜面には帯曲輪が築かれ、ところどころに畝状竪堀が落とされている。もう一筋切られた堀切を過ぎると「二の丸」の腰曲輪で、曲輪は樹木に覆われているが虎口状の登り口、土塁が見え隠れしている。
宿直跡の虎口 一の丸の横堀 二の丸と三の丸の間の大堀切 三の丸南西斜面の畝堀
さらに登っていくと円弧状の土塁で囲まれた虎口受け(馬出?)を思わせる平坦地があらわれ、二の丸のそそり立った切切岸をよじ登るように山道があるが、本来の城道だったのだろうか?。おそらく、先の腰曲輪の土塁が二の丸への城道となっていたのではないだろうか(確認すべきだったと後悔している)。
虎口受けと思しき平坦地の土塁の先は急斜面で、直下の尾根筋には堀切が切られ、その先の尾根筋にも曲輪が連なり、西方に伸びる尾根筋からの攻撃に備えている。縄張り図を見ると、兵が隠れたという小穴が掘られているとある。心ひかれる記述だが、尾根を覆う樹木を藪こぎする根性はなく、今回は割愛することにした。
三の丸、中央に切られた堀切
二の丸と三の丸の間は大堀切と横堀で区画され、三の丸から斜面を見降ろすと見事な畝状の竪掘で斜面を防御している。
三の丸の主郭にあたるピーク部は土塁で囲まれた塹壕状の曲輪で、その先の尾根は堀切で切られ、
堀切を越えた先の尾根筋にも曲輪が確認できる。ここまで、約五百メートルはあろうかという城域は、
さすがに朝倉氏の詰めの城にふさわしい規模である。
とはいえ、本丸は整備が行き届いているが、一・二・三の丸は灌木が茂り探索を諦めざるをえなかった。これだけの遺構群とその良好な残存状態、戦国時代に刻んだ足跡も大きい朝倉氏の山城だけに整備の手が入ることを期待したい。
● 登城 : 2011年5月15日
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