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山内上杉氏
●竹に二羽飛び雀
●藤原氏勧修寺流
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上杉氏は藤原北家勧修寺流藤原氏の流れである。代々蔵人に任ぜられ、朝廷の実務官僚としての伝統をもち、「保元の乱(1156)」には盛憲・経憲が頼長方の首謀者として流罪に処された。鎌倉時代初期の清房は後鳥羽上皇に仕え、「承久の乱(1221)」で隠岐に流された上皇に近侍した。
鎌倉幕府六代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時、親王に従って鎌倉に下向したのが上杉氏の祖藤原重房であった。重房は蔵人出羽守清房の子で、丹波国何鹿郡上杉庄を領しそこを名字の地とした。その子頼重の女清子が足利貞氏に嫁して、尊氏・直義を生んだことで、足利氏と密接な関係を持つようになった。
上杉頼重には、重顕・顕成・憲房らの子がいた。とくに憲房は元弘の動乱の時、足利尊氏と行動をともにし、建武政権が成ると足利氏を代表して新政権の雑訴決断所の奉行に加わった。
「中先代の乱(1335)」を機に建武政権に反逆した尊氏に従って上洛し、京都四条河原で北畠顕家・新田義貞の軍と戦って、尊氏の身代わりとなり討死した。憲房の長子憲藤は鎌倉にあった尊氏の子義詮の執事となったが、建武五年(1338)摂津国で討死した。代わって弟の憲顕が、高師冬とともに義詮の両執事となり上野守護職を継いだ。
■初期略系図
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関東管領職を世襲する
尊氏と弟直義が対立した「観応の擾乱」に際して上杉一族は直義に与し、憲顕は一時失脚した。しかし、平一揆などにおける活躍によって鎌倉府の公方足利基氏は、再び憲顕を執事(のち関東管領)に起用した。基氏が死んだとき子の氏満が幼かったため、憲顕がこれを補佐して関東の政治を取り仕切った。憲顕の死後、子の能憲と犬懸上杉朝房が「両上杉」として関東管領となった。能憲のあと弟の憲春が関東管領になったが、公方氏満が将軍足利義満を討とうとの野心を抱いたため憲春はそれを諌めて自害した。
代わって兄憲方が関東管領となり、初めて鎌倉山内に居館を構え、明月院を創建して氏寺とした。以後、憲方の流れを山内上杉氏と呼ぶようになった。憲方のあと子の憲孝が同職を継いだが、父の病死後、職を辞したことで犬懸上杉氏の朝宗が関東管領となった。山内上杉氏の家督は、憲孝の弟憲定が継ぎ、将軍義満は関東管領の朝宗よりも憲定を信用していたようだ。朝宗辞任後、憲定が関東管領職につき、憲定が病で同職を辞したあとは朝宗の子氏憲(禅秀)が管領に補任された。このように、関東管領職は山内流と犬懸流が交互に就任していた。
ところが、応永二十二年頃(1415)、ある事件を契機に氏憲は公方持氏と対立し管領職を辞退してしまった。代わって憲方の子憲基が関東管領となった。
翌二十三年、禅秀は持氏を討つことを足利満隆らと図り、足利持氏の弟持仲らも語らって兵を挙げた。禅秀に加担する武士も多く、はじめは禅秀方が優勢だったが、管領憲基は一族の上杉氏定・憲長らとともに禅秀方と戦い、幕府の介入もあって翌年に禅秀の乱を平定した。その後憲基は伊豆に隠退し、二十七歳で病死した。憲基が早逝したため、そのあとは越後国守護上杉房方の子憲実が継いで関東管領となった。
正長元年(1428)将軍足利義持が死去したが、子がなかったため、関東公方足利持氏は猶子となって奉公したいと申し入れ拒否された。将軍職への期待を一蹴された持氏は、兵を率いて上洛しようとしたが、憲実必死の諌めによって出兵を思いとどまったという。しかしこれを契機として、持氏の幕府に対する抵抗は繰り返されたが憲実はよくそれを諌めた。永享六年(1434)、信濃国で小笠原氏と村上氏が対立したとき、持氏はそれに介入しようとし、憲実はそれに反対したが持氏は聞きいれなかった。そのため、憲実は自ら出兵して鎌倉方の兵が信濃に入ることを防いだ。その後、憲実は相模国に退きさらに上野国へと下った。
関東の戦乱
永享十年、持氏は嫡子賢王丸の元服に際して、将軍職から一字を賜る先例を破って義久と名乗らせた。このときも憲実は先例に従うべきだと申し入れたが、持氏は聞かず、逆に憲実追討のために上野国へ兵を発した。この事態をみた幕府は、持氏追討を決して諸国の軍勢を関東に派遣した。結局、この「永享の乱」に敗れた持氏は憲実の再三にわたる助命嘆願も空しく、幕府の命で持氏が自害したことで鎌倉府は滅亡した。
その後、下総国の結城城主の結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸らを擁して挙兵した。上杉清方を大将とする鎌倉勢と、京都から下向した禅秀の子持房を大将とする京勢とが結城城を攻め、氏朝らは討死し捕えられた持氏の遺児らは美濃で斬られた。この「結城合戦」をもって、一連の関東の争乱は一応の終息をみせた。
憲実には数人の男子があったが、二男の房顕のみに在俗を許し、越後国と丹波国の所領を譲り京都奉公をさせた。文安四年(1447)ごろ、幕府は再々にわたる憲実の隠退願いを許し、かれの固い意思に反して嫡男を還俗させ憲忠と名乗らせ「関東管領」に補任した。憲忠の還俗に反対した憲実は、憲忠と義絶している。
宝徳元年(1449)、持氏の遺児永寿王丸が赦されて鎌倉公方家が再興された。新公方となった永寿王丸は成氏と名乗り、さきの乱で父兄に加担して没落した結城氏朝の子成朝を京都の反対にも関わらず復権させるなど、反幕府的姿勢をとった。そのため、幕府寄りの山内・扇谷両上杉氏と対立するようになり、翌年、「江の島合戦」へと発展した。事態は憲実の弟重方の調停で解決したものの成氏の暴政は修まらなかった。
享徳三年(1454)、結城成朝の家人多賀谷兄弟が、憲忠とその執事長尾実景父子を殺害した。「享徳の乱」の勃発で、上杉氏は京から房顕が戻って関東管領に就いた。以後の関東は成氏派と両上杉氏派とに分裂、二十余年にわたって戦いが止むことなく繰り返された。情勢は総じて公方方が優勢であったが、幕府の介入などもあって成氏は鎌倉を逃れ古河に移り、以後、成氏は「古河公方」と呼ばれ関東戦乱の一方の拠り所となった。
古河公方に対抗するため房顕らは将軍家の一族を鎌倉公方として下向させるように訴え、将軍義政は弟政知を下向させ伊豆国堀越においた。これが「堀越公方」である。こうして、房顕は扇谷上杉持朝や越後守護房定らの支援を得て成氏方と戦った。文正元年(1466)、房顕は武蔵国五十子に出陣したが、その陣中において病死した。その跡は、房定の二男顕定が入り家督と管領職を継承した。
長尾景春の乱
文明五年(1473)山内上杉氏の家宰長尾景信が死去し、山内上杉氏の家宰職は弟の忠景が継いだ。長尾氏は景仲・景信の二代にわたって執事をつとめ、武蔵や上野の守護代もつとめたことで所領も多領も多かった。さらに『鎌倉大草紙』にも「長尾四郎左衛門大尉景春ハ、長尾一家ノ大名ニシテ、有勢ノ者ナリ」と記されるように、景春はあなどれない勢力を有していた。
上杉顕定としては景信の死を好機として、長尾景春の台頭を抑えるために忠景を執事に任じたのであろう。当然ながら顕定の処遇を不満とした景春は、北武蔵・西上野の諸氏と語らって顕定から離反して古河公方成氏に味方するようになった。この間、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、長尾氏の一件のほかに北武蔵・西上野の諸氏が顕定の処遇に不満をもっていたのを執りなしたが、顕定はそれを省みることはなかった。
文明八年(1476)景春は武蔵・上野・相模の被官や国人らを糾合して、五十子陣の上杉顕定を襲撃した。翌年にも五十子陣を攻撃し、山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景を上野に追放した。この「景春の乱」に太田道灌が大活躍を示し、景春に加担する石神井城主豊島氏を滅ぼし、景春党を内部崩壊させるなどして景春を追い詰めた。
文明十二年(1480)、景春の籠る日野城は上杉方に落され、景春は古河公方のもとに走り、さしもの景春の乱も一応の終結をみた。こうしたなかで、古河公方成氏は越後守護房定の斡旋を入れ幕府に和睦を申し出て、その後、紆余曲折はあったものの「都鄙の合体」と呼ばれる和睦が成立した。こうして、関東は一時的ながら戦乱がおさまった。
山内上杉氏は、顕定の父房顕のころから上野国平井に城を築き領国経営にあたっていた。しかし、古河公方との和睦が成立したころ、顕定は武蔵国鉢形城に居城を移している。一方、扇谷上杉氏では家宰太田道灌が河越・江戸両城を修理して、扇谷上杉氏の領国である武蔵・相模両国の安定に意を注いだ。このような太田道灌の活動によって、次第に扇谷上杉氏は山内上杉氏を凌ぐ勢いを見せ始めた。これに不安を感じた顕定は、道灌を除く謀略を企てた。文明十八年(1486)、顕定の讒言を信じた定正は道灌を相模国糟屋の館で殺害してしまった。
両上杉氏の抗争
道灌は死に際して無念のあまり「当方滅亡」と叫んで事切れたという。道灌の死後、山内・扇谷両上杉氏の間に確執が起こった。その原因は皮肉にもさきの幕府と古河公方の和睦にあった。古河公方と幕府が和睦した「都鄙の合体」は、越後守護上杉房定の尽力によって成立したが、房定は顕定の父であり山内上杉氏主導で和議が行われた。これに扇谷定正が不満を抱いたことが、両上杉氏の確執に発展したのである。
両上杉氏の抗争は、長享元年(1487)の下野足利荘勘農城の戦いで開始された。以後、二十年近くにわたって「長享年中の乱」が繰り返されるのである。山内顕定は越後の父上杉房定に援助を求め、扇谷定正は古河公方足利政氏と提携した。この両上杉氏の確執に際して、道灌の嫡子資康は扇谷上杉氏を離れ山内上杉氏の庇護を求めている。
両上杉氏の戦いは相模・武蔵などで展開され、顕定は扇谷上杉氏の本拠地である相模に侵入して、実蒔原をはじめ七沢要害や小田原城をつぎつぎに攻撃した。さらに、扇谷上杉氏の持城である河越城を攻撃しようとして、須賀谷原で両軍の合戦が行われた。この合戦は大規模なもので、たまたま顕定に従軍していた太田資康を訪れた万里集九が、その著『梅花無尽蔵』に「戦死者七百余、倒れた馬数百疋であった」と記している。つづいて扇谷上杉・古河公方の連合軍が比企郡高見原へ進出して、山内上杉氏の拠点となっていた鉢形城を攻略しようとしたため、顕定と太田資康が高見原へ出撃して両軍の合戦が行われた。
両上杉氏の対立は明応年間(1492〜1500)に入っても結着がつかず、明応三年(1494)顕定はふたたび扇谷上杉氏の分国へ侵入して、武蔵の関戸要害や相模の玉縄要害を陥れた。このころ、扇谷上杉氏では重臣の小田原城主大森氏頼や新井城主三浦時高があいついで死去して、家運が次第に衰退してきた。さらに、当主の定正までが顕定と高見原で対戦中に戦死するという事態となった。
定正の死後、扇谷上杉氏は養子の朝良が継いだが、朝良は凡庸な武将であったようで、古河公方からも見放されて、扇谷上杉氏はさらに衰運の一途を辿ることになる。このように、両上杉氏が争っている間に、新興の伊勢宗瑞(北条早雲)は堀越公方を滅ぼして山内上杉氏の分国伊豆を奪い取り、さらに小田原の大森氏を遂い相模西部に勢力を確立した。この早雲の台頭によって、関東は本格的な戦国時代に突入したのである。
扇谷上杉朝良は早雲と結び、これに対し顕定は古河公方政氏の支援を得て相模国に兵を入れた。そして、永正元年(1504)、顕定・憲房父子は越後の上杉房能の支援を受け、駿河国守護今川氏親と北条早雲の援助を得る朝良の軍と武蔵立河原で戦った。やがて、劣勢に追い込まれた朝良が、翌永正二年、和睦の使者を顕定に送ったことで両者の間に和睦が成立した。
後北条氏の台頭
永正四年、越後守護の上杉房能が守護代長尾為景の下剋上によって自害させられた。房能は顕定の弟でもあり、復仇のために越後に侵攻した顕定は為景勢を打ち破ると、越後の政局安定のために越後に留まった。しかし、勢力を盛り返した為景に敗れ、関東に逃げ帰る途中を為景勢に捕捉され戦死した。顕定の敗死により、長尾為景と通じた北条早雲に内応した扇谷上杉氏の被官上田政盛が兵を挙げた。これに対し、上杉方には成田・藤田・大石の諸氏や南武蔵一揆、それに長尾顕方、景長の代官らが参陣し、政盛の反乱は制圧された。一方、このころより古河公方政氏・高基父子が不和となり、山内上杉氏でも憲房と顕実の間に対立が起こった。
顕実は古河公方政氏の弟であり、憲房は上杉憲実の孫で、それぞれ顕定の養子であった。上杉氏の内紛は憲房の家宰長尾景長が顕実を鉢形城に攻め、これを古河城に遂い、顕実が古河において病死したことで解決した。
上杉氏が内紛で揺れている間、北条早雲は相模国内を着々と平定していった。大永四年(1524)、早雲の子氏綱が江戸城を落すと上杉氏の被官らは氏綱に降り、惣社長尾氏も後北条方に通じるなどして、後北条氏は確実にその勢力を拡大していった。そのようななかで憲房は死去したが、かれの子憲政はまだ幼少だったため、公方高基の子憲寛が入って山内上杉氏の家督を継ぎ関東管領になった。
このころ、山内上杉氏は越後の長尾為景と和睦している。そして、憲寛は為景に高基の嫡子亀若丸の元服式の費用負担を依頼し、無事、元服式を成功させた。享禄四年(1531)、憲寛は憲政に攻められ上総国宮原に移った。山内上杉氏の家督となった憲政は、天正十年(1541)、武田・村上連合軍に領地を奪われた海野幸綱の要請をいれて信濃国に兵を出したが思うような成果はなかった。そして、同十四年、憲政は台頭著しい後北条氏を阻止するため、扇谷上杉朝定と結び駿河国の今川義元に北条氏康の背後を突かせ、北条綱成の守る武蔵河越城を囲んだ。これが、史上有名な「河越合戦」の引き鉄となった。
古河公方晴氏も氏康と手を切って憲政に加勢したため、その兵力は一説に八万ともいわれる大軍であった。兵力に劣る氏康はそれでも八千騎を率いて河越城の救援に向かった。しかし、あまりにも隔絶した兵力の差を埋めるため必死の戦略をもって、連合軍の間に油断をもたらした。ころ合いをみた氏康は夜襲を敢行、数倍にのぼる晴氏・憲政らの連合軍を撃ち破った。
この戦いで扇谷上杉朝定は戦死し、憲政方の藤田・大石らは後北条方に降り、憲政自らは上野国平井に逃げ落ち、晴氏は下総国古河へと逃れた。この一戦によって、関東の政治地図は大きく塗りかえられた。
上杉謙信の登場
平井城に逃れた憲政は権威回復のため、箕輪城主の長野業政らの諫言をきかず、天文十六(1547)年、信州佐久に出陣、志賀城を攻める武田晴信(信玄)と小田井原で闘い大敗、関東諸将は憲政を見限って続々と後北条氏に投降・帰参した。天文二十年(1551)二月、北条氏康は二万の軍勢を率いて平井城を攻略するため小田原城を進発、蔵・上野国境の神流川を挟んで対陣、激戦の末、北条綱成、康成(氏繁)らの活躍で北条が勝利し、憲政は平井城に立て籠った。
氏康は深追いせずに一旦兵を退き、同年秋にふたたび平井城を攻撃、憲政は翌天文二十一(1552)年二月にわずかの供を従えて平井城を脱出、越後の長尾景虎を頼って関東から落ちていった。このとき、平井城には嫡子の龍若丸を残し、後見として目加田新介・長三郎兄弟と九里采女正を配したが、目加田、九里らは氏康に龍若丸を差し出して降伏・開城した。龍若丸は小田原の一色松原海岸で斬られ、目加田、九里らも「不義不忠の逆賊」として磔刑に処された。
その後、憲政は景虎を養子とし「政」の一字と上杉家の名字、系図・重宝、関東管領職を譲った。こうして名を上杉政虎と改めた景虎は、永禄三年(1560)、憲政を奉じて関東へ出陣した。のちに政虎は、将軍義輝から一字を賜り輝虎を称し、さらに出家して謙信を名乗ることになる。
以後、上杉謙信による関東出兵が繰り返され、各地で後北条氏との間で合戦が繰り広げられた。しかし、次第に後北条氏の優勢となり、謙信は天正二年(1574)の出陣を最後に関東への出兵を行わなかった。その後の天正六年、満を持した謙信は関東出兵の陣ぶれをしたが、その直後に急病のため死去。上杉氏の関東回復はならなかった。
山内上杉氏の終焉
憲政は越後国三条で給地を与えられ同地に住し、館は尊敬をこめて「御館」と呼ばれていた。謙信が死去したのち、二人の養子が残された。ひとりは謙信の姉の子で長尾政景の子の景勝、一方は、越相同盟のとき養子として送られた北条氏康の子景虎であった。この景勝と景虎が謙信後の上杉氏の家督をめぐって対立、越後の諸将は二派に分かれての内乱となった。景勝はいち早く春日山城を抑えたため、景虎は憲政を頼って御館に奔った。この乱が「御館の乱」と呼ばれるのはここに由来する。結果として憲政は景虎方に与するかたちとなった。
内乱は、当初実家の小田原北条氏、甲斐の武田氏、会津の葦名氏らの支援を得る景虎が有利にみえたが、次第に景勝の巻き返しが効を奏し、翌年になると景勝優勢となった。この情勢をみた憲政は調停を試みるため、景虎の子を伴って春日山に赴こうとした。その途中に待ち伏せをした景勝の手兵によって殺害された。それから間もなく御館も落ち、脱出した景虎も追い詰められて自害、乱は景勝の勝利に終わった。憲政の死をもって山内上杉氏嫡流の血脈は絶えた。上杉家の名跡は景勝が継いだが、それはすでに別物の上杉氏であったといえよう。・2004年11月25日
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●扇谷上杉氏/
●越後上杉氏/
●勧修寺流上杉氏
■参考略系図
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