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扇谷上杉氏
●竹に二羽飛び雀
●藤原氏勧修寺流
 


 扇谷上杉氏は藤原北家勧修寺流藤原氏の流れで、鎌倉の扇谷に住したことから扇谷上杉氏と呼ばれるようになった。勧修寺流藤原重房は、丹波国何鹿郡上杉庄を領し、そこを名字の地とした。この重房が鎌倉幕府六代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時、親王に従って鎌倉に下向したのが上杉氏の始まりである。その子頼重の女清子が足利貞氏に嫁して、尊氏・直義を生んだことで、足利氏と密接な関係を持つようになった。
 頼重には重顕・顕成・憲房らの子がいたが、長子重顕は「元弘の動乱(1333)」に尊氏・直義兄弟に従って活躍した。重顕の家督を継いだ朝定は、室町幕府の引付頭人として主に京都にあった。嫡子朝顕も京都八条に住み、幕府に仕えてその子孫は八条上杉氏といわれた。朝定の養子の顕定は、鎌倉扇谷に住んで鎌倉公方に仕え、扇谷上杉氏の祖となったのである。
 『庶軒目録』に、上杉一族について「京は惣領、関東は庶子」と記し、幕府に仕えた上杉氏を惣領筋、鎌倉府の上杉氏 を庶子筋としている。
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扇谷上杉氏発祥の地(2002/10:鎌倉市内)


関東の争乱

 顕定の子氏定は「上杉禅秀の乱」で公方持氏に属して相模国藤沢道場で討死し、子の持定は禅秀の残党狩りを命じられたがまもなく病死した。家督は弟の持朝が継いだが幼少のため、一族の小山田上杉定頼が名代を務めている。その後、公方持氏は幕府に反抗的な態度を示し、それを諌める管領上杉憲実と対立するようになった。
 永享十年(1438)持氏を見限った憲実は領国の上野に帰った。一方、それを反逆とみた持氏は憲実討伐するため兵を率いて武蔵府中に出陣したことで「永享の乱」となった。この乱に際して持朝は、管領憲実に従い鎌倉永安寺に公方持氏を討った。さらに持氏の遺子を擁して結城氏朝が結城城に籠った「結城合戦」には、攻撃軍の大将山内上杉清方に従って活躍した。その功によって、持朝は相模国守護に任ぜられている。
 宝徳四年(1449)、持氏の唯一残っていた遺児成氏が赦されて鎌倉府が再興された。ところが、成氏は父持氏に加担して没落した結城氏らを取り立て、それに反対する管領憲忠と対立、ついに憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が勃発した。
 このころ、持朝は家督を子の顕房に譲っていたが、康正元年(1455)、持朝・顕房父子は武蔵国分倍河原で成氏方と戦った上杉方は敗れて顕房は討死し、ふたたび持朝が家督となった。この関東の騒乱に対し幕府は上杉氏を支援して成氏追討を決定し乱に介入、幕府軍の攻勢に成氏は下総国古河に逃れ、その後、鎌倉に復帰することはできなかった。以後、成氏は「古河公方」と呼ばれることになる。このころ、扇谷上杉持朝の執事は太田道真・道灌父子で、武蔵国に江戸・川越・岩付の三城を築城し古河公方の攻勢に備えた。

太田道灌の殺害

 応仁元年(1467)に持朝は死去し、そのあとは孫の政真が継いだが、文明五年(1467)に古河公方勢との戦いで敗死した。そこで持朝の子定正が扇谷上杉氏の当主となった。定正の家宰太田道灌は、「長尾景春の乱」をはじめとして武蔵・相模両国において活躍し、扇谷上杉氏を山内上杉氏を凌ぐ勢力に成長させた。
 この事態を恐れたのが山内上杉顕定で、顕定としては山内上杉家の面目を保つうえでも扇谷上杉定正・道灌主従を警戒するようになった。そこで顕定は、定正に説いて道灌を亡きものにしようと考えたのである。
 当時、道灌は江戸と河越両城の普請に専念していてしばらく出仕をしていなかった。これを、顕定は山内家に対する逆意と断定した。一方、道灌も景春の乱の鎮圧に貢献したことに対する評価を上杉氏が与えなかったことに対する不満を抱いていた。
 このようなことから顕定の讒言を定正は信じ込み、文明十八年(1486)道灌を相模国糟屋の館に招き、家臣の曽我兵庫に命じて入浴中を襲わせ殺害した。道灌はこのとき無念のあまり「当方断絶」と叫んでこときれたという。
 道灌の死後、江戸城は扇谷上杉氏の手中に収められ、道灌の子資康は江戸城を逃れて山内上杉顕定に属するようになった。その後の江戸城には、扇谷上杉氏の重臣の曽我祐重が入った。以後、祐重は永正元年(1504)まで、江戸城代の任にあった。

山内上杉氏との抗争

 享徳の乱、長尾景春の乱が終熄したのち、関東にはつかの間の平穏が訪れた。ところが、道灌謀殺をきっかけとして、扇谷上杉定正と山内上杉顕定は対立するようになった。それは武力衝突へと拡大し、「長享の乱」となった。
 山内顕定は父の越後守護房定と結び、扇谷定正は古河公方と結んで両上杉氏は相模・武蔵国で合戦を繰り返した。扇谷定正は人格はともかくとして、武略に富んだ武将で、山内上杉氏との戦いを有利に展開した。ところが、その最中の明応二年(1493)、定正は武蔵国高見原で顕定と対陣中に戦死(病死ともいう)してしまった。
 代わって甥で養子の朝良が家督を継ぎ、古河公方政氏の支援を受け顕定と戦った。しかし、定正が生前家臣の曽我祐重に送った書状によれば、朝良は武将としての嗜みがないので、祐重から訓戒して欲しいと記されている。このことから、朝良は凡庸な武将であったと思われ、やがて古河公方からも見放されて、扇谷上杉氏は衰退の一途をたどることになる。
 対して、山内顕定は好機到来として明応五年(1496)に、扇谷上杉氏の分国である相模へ軍を進めてきた。朝良は家臣上田氏の籠る実田要害へ出陣して後詰めにあたった。このころに古河公方は従来の扇谷上杉氏支援の態度を改めて、かえって山内上杉氏に味方をするようになった。
 文亀二年(1502)山内顕定は上戸に在陣して、河越城の扇谷上杉軍と対峙して、河越城を攻撃したが落城にはいたらなかった。この陣で、顕定は古河公方足利政氏の動座を願い、政氏は簗田・一色・野田・佐々木氏ら三千余騎の兵を率いて上戸の陣へ駆け付けている。永正元年(1504)になると両軍の動きは活発化し、顕定は河越城を攻めさらに白子に進出して扇谷上杉氏の江戸城を狙った。

北条早雲の登場

 ところで、扇谷定正が死去する前々年の延徳三年(1491)、今川氏に客将として遇されていた伊勢新九郎長氏(のちの北条早雲)が、伊豆の掘越公方の内紛に乗じて駿河から伊豆に進出し、茶々丸を殺害して韮山に拠点を築いた。さらに、明応四年(1495)には、小田原大森氏を襲って小田原に進出した。関東の戦乱のなかに早雲が登場してきたことによって、時代は本格的に戦国時代へと移行していくことになる。
 山内上杉氏と抗争を続ける扇谷朝良は、山内顕定と戦うため伊豆の北条早雲と駿河守護今川氏親を味方につけ、永正元年(1504)武蔵国立河原で顕定と一大合戦をした。この戦いは激戦で、山内上杉氏は長尾六郎・上州一揆長野房兼以下千八百余人の戦死者を出して敗れ、顕定は鉢形城へ引き揚げたという。
 とりあえず、山内上杉氏を撃破した朝良は、朝良は河越城へ帰り山内上杉氏に備えた。一方、敗れた顕定は越後守護の上杉房能の援助を依頼し、守護代の長尾能景が代官として大軍を率いて到着した。援軍を受けた顕定は、上野勢と越後勢をもって扇谷方の諸城を落し、河越城に朝良を包囲した。朝良は顕定に和睦を申し入れ、朝良が江戸城へ隠退することを条件に両者は和解し「長享の乱」は終熄した。
 永正七年、朝良の重臣上田政盛が早雲に内通して反逆を企てたが、朝良は山内上杉氏の応援を受けてこれを降した。その後、古河公方と山内上杉氏にそれぞれ内紛がおこり、朝良はこれをとりなしている。この間に早雲は相模国岡崎城の三浦道寸を攻め、扇谷上杉方の同国真田城・大庭城を攻め落とし、同国三浦郡新井城に道寸を攻めて三浦一族を滅ぼした。まさに、早雲はその実力に加えて「漁夫の利」を得ることで勢力を拡大していったといえよう。
 後北条氏が勢力を拡大していくなかの永正十五年、朝良は江戸城中において死去した。そのあとは、朝興が家督を継承した。

高輪原の合戦

 北条早雲のあとを継いだ氏綱は、早雲におとらぬ傑物で本格的に武蔵国へ進出するようになった。氏綱の武蔵進出の標的となったのが江戸城で、大永四年(1524)、江戸城内の太田資高・資貞兄弟の内応を得た氏綱は伊豆・相模二万の兵を率いて来襲した。
 『相州兵乱記』によれば、「大永四年正月、上杉の家老太田源三郎が謀叛を起し、小田原衆と引合、相図を定め、北条新九郎氏綱伊豆相模の軍兵を引率して江戸の城へ寄せ給ふ」とあり、この事態に朝興は、いながらに敵を待つのは武略のないことであるとして、討って出る作戦をとった。上杉軍は曽我神四郎を先陣として、品川に陣を張り後北条勢を待ち構えた。
 両軍は高輪原で激突し、「七八度もみ合」っても勝敗は決せず、一計を案じた氏綱は軍を二手に分けて、上杉軍を挟撃する作戦に出た。これが奏功して、上杉勢は江戸城方面へ押され、ついに朝興は夜陰に紛れて江戸城から落去したが、板橋あたりまで追撃を受ける有様であった。こうして、江戸城は後北条氏の手に帰し、扇谷朝興は河越城へ走ったのである。
 後北条氏は江戸城を修築すると、遠山四郎兵衛を城代とし、後北条氏に内通した太田資高には氏綱も女を配して、江戸城中の三の丸に住させた。以後、後北条氏は江戸周辺の人心収攬につとめ、それは一定以上の効果ををあらわし、上杉氏が江戸城を回復することはなかった。

後北条氏の関東制覇

 翌年、朝興の有力部将太田資頼の拠る岩付城が北条氏綱によって奪われた。朝興病死後、朝定・朝成は武蔵国三木原で氏綱と対陣し朝成は捕えられ、朝定は河越城を捨てて上田政広の守る松山城へ逃れた。このように、後北条氏は勢力を着実に拡大し旧勢力である上杉氏を追い詰め、河越城には娘婿の北条綱成を入れ武蔵進出の拠点としたのである。
 氏綱のあとを氏康が継ぐと上杉氏は攻勢に転じ、駿河の今川氏の協力を得て後北条氏の後方を攪乱させ氏康の動きを西方に向けさせると、天文十四年(1545)、朝定は関東管領上杉憲政、古河公方足利晴氏らと連合して北条綱成の拠る河越城を囲んだ。その数、八万騎といわれている。
 翌年、綱成を救援するため北条氏康は八千の軍勢を率いて河越城の救援に出陣してきた。連合軍のあまりの多さに一計を案じた氏康は油断を誘い、ころ合いをみて夜襲を敢行した。これが史上有名な「河越夜戦」で、油断をしていた連合軍は氏康の率いる後北条方の精鋭に翻弄され、潰滅的な敗北を喫した。
 この戦いにおいて朝定は討死し、扇谷上杉氏の嫡流は絶えた。一方、憲政は上野国平井城に晴氏は古河城に逃れた。以後、後北条氏の勢力はいよいよ拡大し、天文二十一年、管領憲政は越後の長尾景虎を頼って関東から落ちていった。
 永禄三年(1561)憲政の要請を入れた景虎は関東に出陣し、松山城を攻め取ると上杉朝寧の子憲勝を入れた。しかし、北条綱成に攻められた憲勝は後北条方に降った。その子孫は、近世に入り江戸幕府に仕え、旗本になったという。

扇谷上杉氏の没落

 扇谷上杉氏は関東管領上杉氏の有力一族として、また相模国守護として、その領域支配を展開した。さらに、武蔵国・下総国・相模国などの有力大名と姻戚関係を結び、支配領である相模国人たちをその麾下に収め、相模国を支配した。しかし、関東の争乱の過程、すなわち、公方と管領、両上杉氏の対立などによって権力が分裂していくと、国人たちは新しい支配者として登場した後北条氏に応じて、旧来の支配層である扇谷上杉氏、そして三浦・大森氏などに反抗した。そのことが、上杉氏体制をたちまちにして崩壊させることになったのである。
 すなわち、室町将軍を頂点とする守護体制の崩壊と戦国時代の奔流が、上杉氏を押し流してしまったといえよう。それは、秩序の回復を委ねられた天下の名将上杉謙信をもってしても止めることができなかった時代の趨勢だったのである。・2004年11月08日

●上杉氏の家紋─考察

・上杉氏一族のページにリンク… ●山内上杉氏/ ●越後上杉氏/ ●勧修寺流上杉氏



■参考略系図


●旧バージョン系図 ●ダイジェスト判


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