越後上杉氏
竹に二羽飛び雀
(藤原氏勧修寺流) |
|
上杉氏は勧修寺流藤原氏の一族で、重房のとき将軍に迎えられた宗尊親王に供奉して鎌倉に下向した。重房の子の頼重は足利氏家領の奉行人として丹波国上杉村を管領し、初めて上杉氏を称した。頼重の娘清子は足利貞氏に嫁し、尊氏・直義の兄弟を産んだことが上杉氏繁栄の端緒となった。
上杉氏の台頭
頼重には重顕・顕成・憲房らの男子がいて、それぞれ元弘の動乱に足利尊氏と行動をともにし、建武の新政がなると憲房は新政権の雑訴決断所の奉行に任じられた。建武二年(1355)、中先代の乱をきっかけに新政に反旗を翻した尊氏は、憲房を上野守護に補任した。その後、新田義貞を大将とする討伐軍を箱根に敗って上洛した尊氏は、京都を制圧したものの、ほどなく北畠顕家らと戦って敗れ九州に逃れた。このとき、憲房は京都四条河原の戦いで、尊氏の身代わりとなり討死した。
憲房の長子憲藤は鎌倉にあった尊氏の子義詮の執事となったが、建武五年(1338)摂津国で討死した。代わって弟の憲顕が、高師冬とともに義詮の両執事となり上野守護職に補任され越後国衙領などを与えられた。憲顕は越後守護職も兼帯していたが、尊氏と弟直義が対立した「観応の擾乱(1350)」に際して、憲顕ら上杉一族は直義に与したため憲顕は越後守護職を解任された。越後守護には代わって尊氏党の宇都宮氏綱が任ぜられ、憲顕は越後の南朝方と結んで尊氏党と対立した。
康安元年(1361)、関東公方基氏の執事をつとめていた畠山国清が、基氏に叛いて挙兵したが翌貞治元年降参し失脚した。基氏は越後から上杉憲顕を招いて執事(のち管領職)に任命した。復活した憲顕は越後守護に補任され、守護職を奪われた宇都宮氏綱は芳賀禅可父子とともに憲顕の復帰を阻止しようとしたが、敗れて大きく勢力を失墜した。
基氏の死後の応安元年(1368)、足利義満の元服の祝と諸事報告をかねて上杉憲顕が上洛した。その留守をついて、河越氏を中核とする平一揆が蜂起した。河越直重が指揮する平一揆は、観応の擾乱直後の武蔵野合戦で足利尊氏に味方し、その後、新田義宗を越後に敗走させる功を立てたことで直重は相模守護に任じられた。以後、関東執事畠山国清らとともに鎌倉公方基氏をもりたてたが、憲顕の鎌倉復帰に伴って相模国守護を改替され、頽勢挽回のチャンスを狙っていたのである。一揆軍の反抗は強烈だったが、鎌倉方は関東および甲斐の国人層を動員して鎮圧にあたった。そして、六月十七日の河越合戦に敗れた一揆勢は伊勢国へと敗走し、武蔵で大きな勢力を保持していた河越氏は没落した。
以後、上杉氏は関東公方を補佐する関東管領職を世襲し、関東の中世史に大きな足跡を残したのである。
越後守護上杉氏
さて、憲顕は関東管領職であると同時に越後守護職も兼ね、越後守護職は憲栄が継ぎ、以後、上杉氏は守護職を世襲して戦国時代に至った。ところで、国衙領は扇谷上杉氏の朝房と憲栄に二分されて伝領されたが、のちに扇谷家から憲栄に伝えられた。ちなみに憲顕の嫡流は鎌倉山内に居館を構え、明月院を創建して氏寺としたことで山内上杉氏とよばれる。その意味では、越後上杉氏は山内上杉氏の庶流ということになる。その後憲栄が遁世を遂げたため、守護代長尾氏は関東管領憲方の子房方を越後守護に迎えた。
房方は応永二十一年(1421)京都で死去したため、子の朝方が継いだ。ところが、朝方もその翌年に京都で死去してしまった。子の房朝が守護を継承したもののまだ幼かったため、叔父の上杉頼方が名代をつとめた。
室町時代の守護は在京して将軍に奉仕したため、国元の政治は守護代があたった。そして、越後上杉氏の守護代は長尾氏が世襲していた。また、越後は関東に近いことから鎌倉府の影響を受けることが多く、守護代長尾氏は関東公方・関東管領上杉氏寄りであり、、在京の守護上杉氏は親幕府的立場にあった。応永三十年、京都幕府と関東公方足利持氏との関係が悪化したとき、幼少の守護房朝は京都にあり、国元の守護代長尾邦景は管領上杉憲実とともに関東公方に属していた。守護房朝の名代である上杉頼方は守護代長尾邦景と戦ったが敗れ、名代の地位から斥けられてしまった。その後、持氏は幕府に謝罪したため、京都と鎌倉の間に和解が成立した。
「応永の乱」と呼ばれる内乱で、和解が成立したあとも上杉頼藤・長尾朝景らは守護方を標榜し、伊達持宗の支援をえて長尾邦景らと対立した。しかし、持氏が幕府に謝罪していたこともあって、邦景も守護方に決定的な勝利をおさめることができず乱は終熄した。その後、将軍足利義量が死去したことで持氏は将軍職を望み、その野望を果たそうとして上杉清方らに命じて甲斐の武田信長らを討伐させるなど勢力拡大につとめた。それは、越後にも影響を与え揚北衆は守護代方の三条島城に攻め寄せた。
このように越後は内乱が続き、国人領主たちは守護代方・守護方に分かれて戦いを繰り返した。そして、それら国人領主たちの調停者として守護・守護代の力が高まることになり、それは守護・守護代のいずれが勝利しても統制力を強めることにつながっていった。
<守護代長尾氏の台頭
正長元年(1428)、新しい将軍に義教が就任すると将軍の地位を欲していた持氏は決定的に幕府に対立し、管領上杉憲実は持氏を諌め続けたが、かえって兵を向けられたことでついに持氏を見限った。このとき、長尾邦景も鎌倉府に見切りをつけ、将軍義教に近付き守護代を安堵された。一方、持氏は越後国侍に忠節を尽すように御教書を送ったが、邦景はそれを義教に報告し、おおいにほめられ太刀一腰を与えられた。持氏に近かった上杉清方も邦景の仲介で義教に忠節を誓った。こうして、越後の軍勢は鎌倉府との対立姿勢を明確にしたのである。
永享十年(1438)、上杉憲実が鎌倉を退去したのをきっかけに、幕府方の軍勢は持氏打倒の行動を起した。「永享の乱」とよばれるもので、越後の軍勢を率いた邦景の子実景は、上杉憲実に従って武蔵府中に進み、決戦をしぶる憲実を励まし持氏軍を撃ち破った。その結果、持氏は捕らえられ憲実が助命に奔走したものの、ゆるされず自害して果てた。ここに鎌倉府は滅亡し、憲実に代わって上杉清方が関東管領となった。永享十二年、持氏の遺児春王・安王兄弟を擁した結城氏朝が兵を上げ、持氏恩顧の関東諸将たちが加担した。
この「結城合戦」に際して、上杉清方が攻城軍の総大将となり、長尾実景は越後勢を率いてそれに従った。そして、結城城陥落のとき、実景勢は春王・安王を捕らえるという大功をたてた。この抜群の手柄に対して義教は実景に「赤漆の輿」に乗ることを許し、実景は将軍直臣の待遇を与えられた。直臣とはすなわち、大名格にほかならないものであった。
まさに実景は絶頂のなかにあった。ところが、将軍足利義教が、播磨守護赤松満祐によって殺害されてしまったのである。「嘉吉の乱」であり、この乱によって将軍義教に接近し過ぎていた長尾邦景・実景の株は大きく下落したことは否めない。宝徳元年(1449)守護房朝が死去し、新守護となった房定は関東の諸大名とともに鎌倉府再興の運動をつづけ、ついに鎌倉府再興をなしとげた。ここに至って邦景の立場はなくなり、新公方足利成氏を襲撃した長尾景仲に加担した。
翌宝徳二年、越後に入部した房定は邦景を切腹させたため、実景は信濃に逃れて再起をはかったが、幕府はその討伐を房定に命じた。享徳二年(1453)実景は越後に攻め入ろうとし、房定は越後の軍勢を西頚城に集結し実景軍を撃破した。以後、実景の消息は不明となり、新しく守護代には長尾頼景が就任した。
上杉房定の全盛
享徳三年、関東公方成氏は亡父持氏の仇として管領上杉憲忠を謀殺した。これが引き金となって「享徳の乱」が起り、公方成氏と管領上杉氏との間で合戦が繰り広げられた。房定は管領上杉氏を応援して関東に出陣したが、その戦いのさなかの寛正七年(1466)管領上杉房顕が死去したため、房定の子顕定が関東管領職を継いだ。以後、上杉房定は実子の顕定を援けて享徳の乱に活躍、また幕府に対して接近するなどして押しも押されもせぬ実力者となった。そして古河公方と幕府との和睦を仲介し、ついに「都鄙の合体」と呼ばれる幕府と古河公方の和解を成立させたのである。
房定の政治的業績は高く評価され、幕府は朝廷に奏して、文明十八年(1486)相模守に任じている。相模守は鎌倉時代の執権・連署の受領で、北条得宗家に限られたというもので破格の待遇を受けたことになる。そして、実子が関東管領職にある房定は山内上杉氏の実質的な棟梁でもあった。また、房定は越後の国政に意を用い、文明十五年から十九年にかけて四回の検地を行い、領主権の浸透と守護被官の所領の再掌握を押し進めた。
永年の関東出兵によって御内・外様への統制を強化した房定は、内政面でもそれを推進し実現したのである。しかし、房定の政策は国人領主らの既得権を脅かすものであり、揚北衆の有力者本庄房長は守護に対して謀叛を企てたが、房定はこれを一蹴している。そして、能登守護畠山義統と婚姻関係を結び、越中を手に入れようとしているという噂さえたつほどに越後守護上杉氏の全盛時代を現出した。
越後の名君上杉房定は明応三年(1494)に死去し、三男の房能があとを継いだ。明応七年、房能は「国中の御内・外様が郡司不入と称して、守護の任命した役人の職権を妨げているのはけしからん。不入の証文のない土地は郡司が検断権をもつ、役人の不正は直接守護へ申し出よ」という政令を発した。不入というのは、関東から越後に入った上杉氏が国侍たちの本領を安堵させ、そこへの守護権力の介入を排除できることを認めた特権である。
越後の戦乱
房定の代に押し進められた検地による内政整備と軍事活動とは、国人領主が鎌倉期以来の支配体制を続けることを、そのままにしておけなかった。一方で、守護不入の特権を排除されることは、いままで慣習的に行ってきたことは否定されることでもあり、国人たちの間に大きな動揺が生じた。上杉氏にとって、それらを押さえて一国支配を実現できるか否かが、戦国大名に飛躍できる分かれ目でもあった。
とくに、守護上杉氏を補佐する守護代長尾能景は「七郡の御代官」としてもっとも多くの不入地をもっていた。房能としては、長尾氏の勢力を削減することはもっとも必要なことであり、上杉氏の被官らもその政策を支持したのである。しかし、能景は房能に反抗することなく率先して版籍奉還を行ったが、内心の不満は隠しおおせるものではなかった。ましてや国人領主や長尾氏の一族は、能景ほど房能に従順であったとは思えない。加えて、房能は気位が高く、たび重なる関東出兵に疲れた国人領主たちの窮状に思いやる心が欠けていた。とはいえ、能景一代の間は何事もなく過ぎた。そして、永正三年(1506)能景は越中の戦いで戦死したため子の為景が守護代を継いだことで事態は急変する。
為景は父能景のように守護に対して不満を押さえるということはなく、守護権力を排斥することを企て永正四年(1507)房能の養子定実を擁して反乱の兵をあげた。このとき、房能は越後諸将に参陣を呼びかけたが、かられは為景に加担するものが多く、房能は府中を捨てて関東に逃れようとした。しかし、為景方の追撃によって、天水で一戦を交えたが敗れて近臣の山本寺・平子氏らとともに討死した。「永正の乱」の発端となったこの為景の下剋上をもって、越後の戦国時代は始まったとされる。その後、房能の兄で関東管領の顕定が越後に兵を進め、敗れた為景・定実は越中に逃れた。しかし、顕定は暴政を行ったため国人らの反感をかい、そこへ態勢を立て直した為景が進攻してきたことで敗北、関東に逃れる途中に討ち取られてしまった。
こうして、為景・定実の政権が発足したが、実権は為景が握り定実は守護とは名ばかりのお飾りに過ぎない存在であった。定実は為景の横暴に対して、実家の上条上杉氏の上条定憲、琵琶島城主宇佐美房忠らを味方にして為景排斥の兵をあげたが、為景に一蹴され守護の座を逐われ幽閉の身となった。以後、為景が越後の絶対権力者として君臨したが、上条定憲を盟主とする守護勢は為景に対する反抗を止めず、定憲は享禄三年(1530)にふたたび挙兵し「上条の乱」となった。この乱も揚北衆を味方につけた為景の勝利に終わったが、定憲はなおも対立姿勢を崩さず、天文二年(1533)三たび兵を挙げた。
越後は為景方と上条方とに分かれての内乱となり、各地で合戦が繰り返された。はじめは幕府を後楯にする為景方が優勢であったが、幕府の政権抗争で為景に近い細川高国が敗れたことで状況は一変した。すなわち、状勢を睨んでいた揚北衆、長尾一族の上田長尾房長らが上条方に加わったのである。戦況は為景の降りに動き、ついには四面楚歌となった為景は嫡子の晴景に家督を譲って隠退、乱は自然に終熄していった。
定実の返り咲き
為景のあとを継いだ晴景は反抗する国人衆らと妥協するため、為景によって幽閉されていた定実をふたたび守護に奉じて事態の収拾につとめ、対抗する上田長尾房長の嫡子政景に妹を嫁がせるなどしたことで越後は一応の平穏をえた。一方、定実にとっては思い掛けない事態の転変であった。ところが、定実には男子が無かったため、定実は自分の死とともに守護上杉氏が断絶することを憂いて養子を迎えようとした。
定実が白羽の矢をたてたのがみずからの曾孫にあたる伊達稙宗の子時宗丸(のちの伊達実元)であった。しかし、そこに問題が発生した。すなわち、時宗丸は揚北衆の有力者中条藤資の甥であり、もっとも養子縁組を熱心に推進進したのも藤資であった。養子縁組が成ることは中条氏の勢力が強力化することにつながり、他の揚北衆である本庄・色部氏らは養子の一件に反対したのである。府中の守護代長尾晴景も定実に後継者のできることはみずからの地位が脅かされることになると判断して養子反対の立場を示した。
この養子の件を引き金として、ふたたび越後は内乱状態となった。ところが、伊達家中においても乱が起った。稙宗の嫡子晴宗は時宗丸を上杉氏へ養子に出すことに反対し、父稙宗を幽閉する挙に出たのである。こうして、伊達父子が家中を二分して争う「天文の大乱」となった。この乱は南奥州の諸将を巻き込み、奥州戦国時代における歴史的事件となった。その結果、時宗丸養子の一件も沙汰止みとなり、落胆した定実は引退しようとしたほどであった。
越後は内乱状態となり、それを治めるべき晴景は生来の病弱であり、戦乱を収拾する能力にも欠けていた。そのため、晴景は弟の景虎(のちの上杉謙信)を栃尾城に入れて揚北衆を制し、反抗する中越の国人衆らの征伐にあたらせた。景虎の活躍によって中越は制圧され越後の争乱も治まるかとみえたが、今度は長尾晴景と弟景虎の対立が表面化した。対抗勢力を制圧した景虎の武名に晴景と対立する中条藤資が着目し、それに本庄実乃・長尾景信・高梨氏らが加担し晴景に代わって景虎を国主にしようとする動きになったのである。以後、晴景派と景虎派に分かれて内乱となったが、定実が調停に立ち晴景に隠退を進め景虎に家督を譲らせたことで内乱は終熄した。
その後も定実は景虎から越後守護として遇されたが、その実権はなかった。そして、天文十九年(1550)死去。越後上杉氏は断絶した。定実の死によって長尾景虎が名実ともに越後の国主となり、戦国大名への途を歩み出すことになるのである。
越後上杉氏余禄
ところで、仙台伊達氏の家紋は「竹に雀(仙台笹)」として知られるが、これは、時宗丸養子の一件のときに越後上杉氏から引出物として贈られたものである。そして、時宗丸は定実の一字を与えられて実元を名乗った。これらのことは、当時における上杉氏の家格の高さを示したものといえよう。そして、実元の子が伊達政宗麾下の勇将として片倉景綱と並び称される伊達成実である。
また、景虎はのちに上杉姓を名乗っていることから、越後上杉氏を継いだものか?と誤解されることがあるが、こちらは小田原北条氏に逐われて景虎を頼ってきた関東管領上杉憲政から永禄四年(1561)に譲られたもので、定実が死去してのちも長尾景虎を名乗っていた。
●もっと詳細情報へ
・上杉氏一族のページにリンク…
●山内上杉氏/
●扇谷上杉氏/
●勧修寺流上杉氏
■参考略系図
|
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
そのすべての家紋画像をご覧ください!
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
|
|
|