ヘッダイメージ



三隅氏
庵に久の字
(藤原氏族御神本氏流)


 石見国那賀郡三隅郷を本拠とし、西石見に勢力をもっていた中世の在地豪族。系図によれば石見国御神本氏の一族で、御神本兼高は同国益田に住して益田氏を称したが、その二男兼信は同国三隅・木束・長安の地頭職を得て、三隅高城に拠って三隅氏を称したという。三隅氏からは、永安・竹彦・井村氏などが分流している。

南朝方として活躍

 元弘三年(1333)、後醍醐天皇が伯耆国船上山において兵をつのるや、三隅石見前司兼連は高津長幸・佐波顕連らとともに、一族をひきいてこれに参じ、同年六月には天皇に従って京に入っている。以後、南北朝の内乱期に惣領家益田氏や永安氏は足利方であったが、三隅氏は石見の南朝方中心勢力としてめざましい活躍をした。
 建武三年以降、足利氏に関係の深い上野頼兼が石見守護となった。翌四年、頼兼は大軍を率いて三隅高城を攻めたが、兼連は上野軍を撃退している。興国五年(1344)三隅軍は攻勢に出た。これに対し、上野頼兼と益田頼見は三隅氏の井ノ村城に向かい木束城、三隅高城を攻めた。正平元年(1346)頼兼は益田兼見・吉川経明・田村盛泰・君谷(出羽)実祐らをして三隅高城に迫ったが、武家方は敗退した。
 正平五年(1350)尊氏は高師泰を石見に派遣し、中国の諸将にも出陣をうながした。師泰の大軍は佐波顕連の拠る鼓ケ崎城を陥れて顕連を屠り、三隅高城に攻め寄せたが、三隅軍はよく戦い師泰もたやすく抜くことができず、包囲戦となった。ところが師泰は尊氏からの帰京命令に接し、心ならずも包囲をといて帰洛の途についたが、三隅氏の追撃を受け、かつ所々に起こった義軍のために散々なていで石見を脱した。
 足利直冬は宮方に帰順した大内弘世と結び、正平八年(1353)石見に入った。三隅兼連は直冬を迎えて、美濃郡大屋形村に高嶽城を築きそこに留まらせた。同年九月、直冬は朝廷から尊氏の総追捕使を命じられ、三隅兼連らの兵を率いて京都に入った。そして、足利尊氏の軍勢と洛中各所で戦った。しかし、京都七条の戦いに敗れ兼連は戦死した。兼連の長子兼知も正平七年に山城国男山において討死している。敗れた直冬は石見に戻り、再挙を図ったが諸氏の動向も定まらず、正平十九年(1364)大内弘世も武家方に属して、三隅直連を攻め、正平二十二年、ついに直連は益田兼見に降った。

乱世のなかで没落

 その後も代々、三隅高城に拠って西石見に勢力をはっていたが、明応年中(1492−1500)三隅興信は益田宗兼と争いを起こし、各地で戦ったが、大内義興の仲介で和解した。永正八年(1511)大内義興は足利義稙を奉じて上洛、このとき益田宗兼、周布興兼も供奉した。宗兼の留守中その子尹兼と三隅氏との間に不和を生じ、ふたたび戦となり、三隅洞明寺において激戦となったが三隅氏の降伏に終わった。
 天文二十年(1551)大内兼隆は陶晴賢の謀叛で殺害され、大内氏を滅ぼした陶晴賢は、陶氏に応じた益田藤兼とともに三隅城に迫り兼隆に降伏した。兼隆の跡は隆繁が継いだ。やがて、陶氏を倒した毛利元就が台頭してくると、隆繁の弟三隅国定は周布晴氏とはかってこれに反抗した。しかし、元亀元年(1570)毛利の将吉川氏に攻撃を受けて、周布晴氏は周布城で自刃、三隅国定は三隅高城に籠ったが、九月国定は討死し、隆繁は自刃して、さしもの武威を誇った三隅氏の嫡流は滅亡した。
 庶流寿久の子孫が毛利氏の家臣となっている。


■参考略系図
・島根県在住の鳥屋尾さまの御教示と資料から作成。


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧