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周布氏
亀甲の内久文字
(藤原北家御神本流)


 石見国の大族に関白藤原忠平の後裔国益を祖とする御神本氏があった。御神本兼栄・兼忠父子は源平の争乱に当たり、源氏に属して各地に戦い、ことに一の谷の合戦・壇の浦の戦いでは勲功を立て、戦後、石見国全域にわたる所領を与えられた。兼忠は所領内の益田に本拠を定めて、以後御神本氏を改め益田氏を称した。
 兼高が益田に移ったのは建久三年(1192)のことで、家督は嫡男の兼季が継ぎ、二男兼信は三隅郷・永安別府などを分封されて三隅氏の祖となり、三男兼広は福屋を領して福屋氏を称し、子孫から福光・横道・井田氏などの庶子家が出ている。
 兼季のあと、益田惣領家を継いだ兼時の弟兼定は周布郷の地頭となって周布氏を称した。その弟三人もそれぞれが分立して、兼直は末元氏、兼忠は丸茂氏、兼政は多根氏を称した。周布氏の歴代については異説があるが、貞応二年(1223)三月の「石見国田数注文」に、すでに「すふ知行」として那賀郡来原を領していることがみえ、それは兼定のことであろうと考えられている。
 来原の地は来原別府と呼ばれ、兼定の弟多根兼政の嫡子弥四郎盛家が地頭職を得て、その子孫は南北朝時代から来原氏を称するようになった。兼定の周布郷・鳥居郷などの地頭職は時兼に譲られ、鳶巣城を本拠として以降周布氏歴代に受け継がれた。
 鎌倉時代の半ば過ぎから周布氏・三隅氏・福屋氏ら、比較的早く独立した庶流各家は、惣領家の本拠である益田から離れた地に居住していたこともあって、次第に惣領家とは別の独立した領主的活動を行うようになり、益田氏を中心とした惣領制は綻びをみせはじめた。
 そうした動きが最も顕著に現われたのが南北朝時代で、惣領益田氏は足利尊氏方に属し、三隅兼連・福屋兼宗・周布兼宗・兼氏父子らは後醍醐天皇方となり互いに相い争うことになったのである。兼氏はのちに九州探題となった今川了俊に属して、武家方に翻意している。
 戦国時代に入ると、周布氏は自然、長門の大内氏に従うようになり、大内氏滅亡後毛利氏の配下に入った。元兼は天正五年(1577)の上月城攻めの際、吉川元春の軍に属して討死している。その子長次のとき関ヶ原の役が起こり、西軍の総帥となった毛利輝元は減封処分を受け、備後広島から長門萩に移り、長次もそれに従って萩に移った。
 その子の元真のとき杉岡氏を称したが、孫兼宣のときに再び周布氏に復した。以後、代々毛利家臣周布氏として存続した。
 幕末に一族から周布政之助が出た。政之助は萩藩の財政再建に取り組んだ村田清風のあとを引き継いで、萩藩革新政権をリードした。しかし、禁門の変、四ケ国連合艦隊の下関来襲、第一次長州征伐など、防長を存亡の危機に追い込んだ責任を痛憤して、元治元年(1864)九月、自らの命を絶っている。



■参考略系図


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