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福屋氏
一文字に久文字
(藤原北家御神本流)


 福屋氏は藤原北家流御神本氏の一族で、益田氏の庶流になる。天応元年益田兼高の子兼広が福屋に移住し、本明城主となった。以後、福屋しを称するようになったという。兼広は、安濃郡鳥居・邇摩郡福光の地頭職も有していた。三隅氏・周布氏は同族になる。
 益田氏の一族の家紋には、いすれも「久」の一字が配されている。益田氏が「藤に久文字」、三隅氏が「庵に久文字」、周布氏が「亀甲に久文字」。福屋氏が「一文字に久文字」である。
 福屋氏は代々本明城を本拠として、出雲に勢力を培っていった。南北朝期は兼景の代にあたり、兼景は南朝方として忠義を尽くしている。
 天文九年、隆兼は吉田に出陣している。これは尼子氏の毛利攻めに従軍したもののようだ。翌年には松山氏の拠る邇摩郡松山城を攻め滅ぼし、弟隆任を松山城に置いている。こうして隆兼は邑知・邇摩の諸邑を兼併し、その勢いは大いに挙がった。
 やがて毛利氏が吉川元春を先鋒として押し寄せ、福屋氏の支城中村城を攻め落とし、さらに松山城へ押し寄せてこれも切り崩し、ついに福屋氏の本城に迫った。ここに至って福屋氏は、ついに敵せず毛利氏に降ったという。
 また、安西軍策によれば、永禄四年二月、松山城を攻めるために毛利元就父子四人は大江に陣を張った。城中には兵千五百程が立て籠り、毛利氏が攻めれば切り出し、切りだして攻防を繰り広げた。毛利氏方では福原十郎三郎、江田木工助あが討死した。しかし、やがて城の諸方より毛利勢が乱入し、福屋方で討ち取られた首級は千七百余であったという。
 こうして福屋氏は頼みの松山城を攻め落とされて、本城の阿登城に拠ったが、元春が先陣となって攻めてくるとの噂が聞こえ、元就も出陣したとの報も伝わってきた。ここに至って、隆兼は再起を期して夜中に城を出て、出雲に落ちて云った。その後の福屋氏の消息は伝わっていない。


■参考略系図
    


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