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足利氏(鎌倉公方)
足利二つ引/五三の桐
(清和源氏義家流)


 足利氏は清和源氏で、前九年・後三年の役で活躍した八幡太郎義家の孫義康が下野国足利庄によって、足利氏を称したのに始まる。名字としての足利は、平将門の乱に活躍した藤原秀郷の後裔淵名兼行の子成行が下野国足利を開発して足利を称したのが先になる。
 八幡太郎義家の三男義国は、義家が足利氏の女(成行の孫娘とする説が有力)にとの間にもうけた男子と伝えられる。成長した義国は都にのぼり加賀介に補されたが、やがて、一族の佐竹冠者昌義の起した乱の鎮圧を命じられ、常陸に下った義国は昌義を討ち取った。その間、父義家が死去したことで、本来なら源氏嫡流の家督を継ぐ身にありながら、弟の義忠が義家のあとを継いで源氏の惣領となった。一方、義国は昌義の祖父で叔父にあたる源義光との間で小競合いが起り、さらには勅勘を蒙る身となり、ついには下野に土着したのである。
 義国の嫡男義重は新田荘を開墾して新田義重と称して新田氏の祖になり、二男の義康が足利荘を譲られて足利義康と称した。その後、足利義康は上洛して鳥羽法皇に北面の武士として仕え、蔵人や検非違使に任官し、陸奥守にも補任されて「陸奥判官」とも呼ばれた。保元元年(1156年)の保元の乱では、源義朝とともに後白河天皇方として参陣した。戦後、論功行賞として昇殿を許され、従五位下大夫尉に任官するなど将来を嘱望されたが、翌年病を得て三十歳の若さで歿した。
 平治元年(1159)、平治の乱において源義朝が敗れると、足利荘は平重盛の所領となり、藤姓足利俊綱が管理するところとなった。やがて治承四年(1180)、以仁王が挙兵すると義康の長男足利矢田判官代義清は、以仁王に味方したが敗れて京から逃げ落ちた。その後、義清は木曽義仲の挙兵に加わり、寿永二年(1183)、備中水島の合戦において弟義長と共に討死した。一方、足利荘にあった義康の三男義兼は、早い時期から源頼朝の麾下に加わっていて、兄たちの死後、源姓足利氏の嫡流を継ぐことになった。
 平家に属して勢力を振るった藤姓足利氏は、頼朝に攻められた足利俊綱が家臣の桐生六郎に殺害され、俊綱の子忠綱は壇ノ浦で敗れて没落した。その後、忠綱は足利に帰ってきたが、足利荘はすでに足利義兼の領地となっており、追い詰められた忠綱は飛駒山中で自殺して藤姓藤原氏は滅亡した。

足利氏の勢力伸張

 足利氏の惣領となった義兼の母親は熱田大宮司季範の娘で頼朝の母の妹にあたり、 頼朝とは従兄弟ということも家督相続に有利に働いたものと考えられる。文治五年(1189)の奥州藤原氏征伐にも従軍し、頼朝の「御門葉」として高い位置におり、 将軍への随行などの序列では常に最上位にいた。
 北条氏が源氏将軍断絶後に権力を確立していくなか、足利氏は北条家に協力することで自らの地位を発展保持し、鎌倉時代は北条氏と縁戚関係を結び、義兼のあとを継いだ義氏は三河守護となり、その子泰氏は上総守護をも兼ねて、所領は下野・三河・丹波・美作・上総・下総に散在した。これにより一族は大いに発展していった。しかし、北条得宗家の専制強化によって多くの御家人が失脚、あるいは滅亡し、足利氏も鎌倉末期には「百姓のごとき」生活を送っていたと記している記録もある。たしかに、北条体制が確立されていくにつれ足利氏もその下風に立つようになったが、源家将軍家断絶後は武家源氏の嫡流とみなされ、外様御家人中第一の地位を有して赤橋、金沢などの執権・連署を勤めた北条氏庶流から正室を迎えていた。
 鎌倉時代の足利氏代々のなかで特筆されるのは家時であろう。「難太平記」によれば、足利氏には源義家の「我七代の孫吾生かはりて、天下を取べし」と書かれた置文が伝わっており、家時が丁度七代目に当たっていた。未だもってその時ではないことを嘆いた家時は八幡大菩薩に祈って、「我命をつづめて、三代の中にて、天下を取らしめ給へ」 と語って腹を切ったと書かれている。
 家時の死後、家督を継いだ貞氏は鎌倉幕府が崩壊する直前の元弘元年(1331)九月に没している。貞氏の嫡男高義は死去していたため、高氏が家督を継いだ。高氏は元応元年(1319)に十五歳で元服したが、その前年の文保二年(1318)に後醍醐天皇が即位している。尊氏と後醍醐天皇が同時期に歴史に登場したことは、何ともいえない歴史の符合を感じさせる。ちなみに、高氏の「高」は北条高時から一字を拝領したもので、のちの尊氏は後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を拝領したものである。

元弘の変

 鎌倉幕府も末期になると執権北条氏の政治にも弛みがみえるようになり、しかも実際の政治は北条得宗家の御内人である長崎氏が壟断していた。一方、朝廷では、十三世紀半以降、皇統が持明院統と大覚寺統の両統に分裂し、皇位の継承をめぐる激しい対立が続いていた。
 大覚寺統の後醍醐天皇は、自己の皇位を安定させ、理想とする天皇中心の政治を実現するため幕府を倒す必要を痛感し、近臣たちとひそかに討幕の計画をすすめた。正中の変であり、それは幕府に露見するところとなった。しかし、後醍醐天皇の討幕の企ては意志は変わらず、元弘元年(1331)、ふたたび計画が露見し、天皇は京都を逃れて笠置山に立て籠った。元弘の変と呼ばれる政変で、幕府軍の攻撃によって笠置山は落城し、捕らえられた後醍醐天皇は隠岐に流罪となった。  事件の主謀著たちもそれぞれ処分されて、元弘の乱は終息したかにみえた。ところが、天皇の皇子護良親王が吉野で楠木正成が千早城でそれぞれ挙兵し、元弘三年(1333)になると播磨の赤松則村が挙兵するなど、各地で反幕勢力が立ちあがった。後醍醐天皇も、閏二月には隠岐を脱出して伯耆の名和長年に奉ぜられ、各地の武士に綸旨を下して討幕を呼びかけた。
 これに対して幕府は、北条氏一門の名越高家と足利高氏を大将として大軍を上洛させた。このとき、高氏は幕府の要求にしたがい、起請文を書き、妻登子と嫡子千寿王(のちの義詮)を人質に置いて、一族・被官以下三千余騎を率いて鎌倉を出発した。『難太平記』には、三河国で一族の吉良貞義が幕府への反逆を勧めたといい、『梅松論』では近江国鏡の駅で細川和氏と上杉重能がかねて密かに賜わっていた後醍醐天皇の綸旨を尊氏に披露し挙兵を促したともいわれる。
 いずれにしろ、入京した尊氏は六波羅の軍議にしたがい、山陰道を伯耆に向けて出京したが、この日、一方の大将として山陽道に向かった名越高家が、赤松則村と戦って敗死したのを聞くと、ついに討幕の決意を固め、そのまま丹波国に入り篠村に陣した。そして、篠村八幡宮の社前で旗を揚げ、同社に願文を奉納して所願の成就を祈ったといわれている。尊氏は、挙兵後しばらく近国の武士の参集を待ち、五月七日、大挙して京都に攻め入り、六波羅は陥落した。

建武の新政

 一方の関東では、新田義貞が後醍醐天皇の旨を体して上野国で挙兵した。そして、鎌倉を目指し小手指原の戦いで幕府軍を打ち破った。しかし、つづく分倍川原の戦いでは大敗し堀金まで兵を退いた。その後、体制を立て直した義貞はふたたび兵を進め、勝利に油断していた北条方の分倍の陣を逆襲しこれを壊滅させ、その勢いで鎌倉へ押し寄せた。こうして、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まったのである。新田義貞の鎌倉討ち入りのとき、尊氏は二男の千寿王をこれに参加させて、幕府滅亡後は、これを鎌倉に留めておいた。建武新政が始まると尊氏は源氏の嫡流として天皇から信任されることが重く、これを伝え聞いた東国の武士たちは、義貞から離れて千寿王の手に属するようになった。
 その後、尊氏の弟直義が後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉へ入った。建武政府が成良親王に委任した権限は関東十ケ国に関する行政・司法権であった。成良親王は四歳であり、実際の権限は直義が代行し、東国の武士は直義に属して旧領を安堵され、その命に従った。こうして、足利氏の勢力が東国に広がっていった。また、鎌倉幕府の職制にならって鎌倉の将軍成良親王の身辺警固のために「関東廂番」を定め、政所を設置した。これは、のちの鎌倉府にもひきつがれて、重要な政治機関となった。廂番のなかには、上杉憲顕、吉良貞家らの名がみえている。
 ところで幕府滅亡のとき、北条高時の二男時行は諏訪氏を頼って諏訪に逃れそこで成人した。建武二年(1335)時行は尊氏打倒の兵を挙げて鎌倉に進攻し、足利直義の軍を破った。この時行の鎌倉回復の挙兵は世に「中先代の乱」と呼ばれる。鎌倉陥落の報に接した尊氏は天皇の許しを得ないまま兵を率いて東下し、三河国吉良庄において直義軍と合流、鎌倉へ兵を進め北条時行を遂って鎌倉を回復した。
 尊氏は時行を討ったあと鎌倉に留まり、ついには後醍醐天皇に反旗を翻した。これに対し、後醍醐天皇は尊氏討伐を決心し、大将に任じられた義貞は大軍を率いて尊氏を討つために東下した。これを箱根竹ノ下に迎え撃った足利勢は、義貞軍を破ると敗走する新田軍を追って京都に入った。しかし、間もなく上洛してきた北畠顕家軍に敗れて京都を追われ九州に落ちていった。尊氏は多々良浜に九州の宮方の強豪菊池氏と戦い勝利を収めると、たちまち体制を立て直しふたたび大軍を擁して東上、摂津湊川に楠木正成の軍を破り、新田義貞の軍を蹴散らして京都を回復した。後醍醐天皇は吉野に潜行され、尊氏は光明天皇を立てた。ここに建武の新政は破れ、以後、南北朝対立の時代が始まったのである。

南北朝の争乱と足利氏の内訌

 足利尊氏が鎌倉幕府滅亡後の建武の新政に失望した武士から棟梁と見なされ、政権を握ることが出来たのは鎌倉期を通して没落の憂き目を見ずに、義家流源氏の嫡流としての地位を保持できたことが大きかった。そのことは、同じ義国流源氏の兄筋にあたる新田氏が鎌倉時代中期に勢力を失墜していたこともあって、鎌倉幕府が滅亡し建武政権がスタートした時点で、足利尊氏と新田義貞とは東西でいずれ劣らぬ功を立てながら、すでに足利氏と新田氏との間には大きな差が開いていたのである。
 直義が上洛後、鎌倉に残った千寿王を補佐したのは斯波家長であったが、建武四年に戦死したため上杉憲顕が鎌倉に下って千寿王を補佐した。
 やがて、直義と尊氏の執事である高師直との不和が深刻な状態を呈してきた。憲顕は直義に呼ばれて上洛し、師直の従兄弟高師冬が鎌倉へ下り千寿王の執事役を勤めた。これは関東における師直の代理である。のちに憲顕はふたたび鎌倉に下ったが、これはあきらかに直義の代理であった。京都における直義と師直の対立は鎌倉へ持ち込まれ、憲顕・師冬の両執事という形をとったのである。
 貞和五年(1349)、直義と高師直の対立が表面化した。師直はクーデタを起こし直義は失脚し、千寿王の義詮が鎌倉から京都へ迎えられ、直義に代わって政務を取るようになった。代わって、義詮の弟基氏が鎌倉へ下った。
 観応元年(1350)、直義は京都を脱出して尊氏討伐の兵を集め、「観応の擾乱」と呼ばれる足利幕府中枢部の分裂が生じた。関東では憲顕の子上杉能憲が直義に呼応して挙兵し、鎌倉にいた父の憲顕もこれに加わった。高師冬は基氏を擁して上杉氏討伐の軍を出したが、途中で基氏を奪われたため甲斐に赴き逸見城に拠った。翌年、憲顕の子憲将が師冬を攻めてこれを自殺させ、鎌倉では直義方が師直方に対して勝利を収めた。直義は憲将方として戦功のあった将士に関東分国内の闕所地を与えることを憲顕に命じた。尊氏の子基氏は鎌倉にいたものの、直義の権力が関東を支配し、鎌倉もその支配下にあったのである。
 やがて、劣勢に追い込まれた尊氏は直義と和睦し、その結果、高師直一族は直義方の上杉能憲のために殺害された。その後、尊氏と直義との間が不和となり、各地で戦いが繰り広げられたが、劣勢となった直義は北国に下り、ついで直義の勢力下にあった鎌倉に入った。

擾乱の終熄

 尊氏はこれを討つために東下し、直義と尊氏は駿河由比・蒲原、ついで薩タ(土偏に垂)山に戦い直義勢を破った。この戦いで直義勢の中心となったのは上杉憲顕と石堂頼房であった。また、直義は尊氏方の宇都宮勢の参陣を阻止するために、桃井直常と長尾景忠を上野へ差し向けた。しかし、こちらも那波庄における戦いで宇都宮軍に敗れたため、ついに直義は尊氏に降伏した。そして、文和元年(1352)鎌倉において急死した。一説に毒殺されたともいわれている。ここにおいて、関東から直義の勢力は拭いさられ、基氏の政治的地位が確立した。直義が死去したあとの上杉氏は、信濃に逃れついで越後にあって南朝方に通じ抵抗を続けた。
 正平七年=文和元年(1352)、足利氏の内部分裂に乗じて新田義興・義宗兄弟と従兄弟の脇屋義治の三人が兵を挙げ、その軍勢は十万余騎と称するほどになった。尊氏はこれを迎え撃つために、決死の思いで鎌倉を出立した。武蔵野合戦とよばれるこの戦いは尊氏軍が総崩れとなり、尊氏はかろうじて石浜に逃れえた。その後、新田勢は尊氏軍に敗れて越後へ退却していった。
 正平十三年(1358)尊氏が死去すると、そのあとを継いで義詮が二代将軍となり、鎌倉には基氏がいた。基氏は、父尊氏と叔父の直義が争ったことを身をもって知っており、兄義詮が二代将軍になり自身が鎌倉公方となっても将軍家との衝突を極力避けていた。しかし、京都と鎌倉の間はとかく不穏なものがあった。そこで、執事の畠山国清(道誉)は基氏の代理人として関東の兵を率いて上洛し南朝方を攻撃して義詮の疑惑を解くことに努めた。ところが、康安元年(1361)畠山道誉は基氏に叛いて挙兵したが翌年降参し失脚した。何故、国清は基氏に叛乱を企てたのであろうか。関東は新政の初め、成良親王を奉じた足利直義が執政として諸政を取りしきったことで、多くの関東諸将は直義に服するようになった。
 擾乱において直義が失脚したあと尊氏が鎌倉に留まったのも、そのような関東における親直義色を払拭するためであり、都に帰るに際して股肱の臣である畠山国清を基氏の執事として遺したのである。当然、国清は尊氏の施策に沿って基氏を補佐した。しかし、関東の武士たちに浸透した直義色は根強く、基氏も次第に尊氏の施策から外れて関東の政治情勢に迎合することで政治の安定を図るようになった。この事態は国清としては黙過できるものではなく、ついに叛乱というかたちで尊氏路線を守ろうとしたと思われ、その結果、国清は粛正されたのであった。

●ダイジェスト版 ●足利将軍家


■参考略系図
 

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