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足利氏
・鎌倉公方→古河公方→喜連川氏
足利二つ引/五三の桐
(清和源氏義家流)


 永享の乱で一時中断したが、持氏の四子成氏が赦されて再興。このときの関東管領は上杉憲忠で、成氏が父持氏以来のつながりから、宇都宮・小山・結城といった北関東の豪族と接近していくことに対し、憲忠の被官長尾景仲や太田資清らと、小山・千葉・宇都宮氏らとの間でいわゆる江の島合戦が起こり、関東は戦乱の巷と化していく。成氏は上杉憲忠を誘殺。その結果、成氏は将軍の追討を受けることになり、下総の古河に逃れてそこを本拠とし、以来古河公方と呼ばれることになる。
 成氏没後、子の政氏が継いだ。政氏の弟顕実は上杉顕定の養子となり、上杉・足利の緊密な連携のもとに推移したが、政氏の子高基は、そうした政氏の態度に不満をもち、一時、宇都宮成綱のもとに身を寄せるということがあった。
 その後、高基の弟で、義明が父政氏に反旗を翻し、ここに政氏・顕実勢力と高基・義明勢力との争いに発展し、それに上杉氏の内訌が絡まって複雑化していったのである。さらに義明は高基とも仲が悪くなり、下総小弓城に入り、小弓御所と称されることになり、古河公方と対立。義明は里見義堯と結んで、古河公方足利晴氏・北条氏綱らと下総国府台で戦い、敗れて戦死した。
 古河公方家は晴氏の後を継いだ義氏の代に嗣なくして断絶した。しかし、豊臣秀吉がその名跡を惜しみ、義氏の娘と義明の孫国朝とを結婚させて、義氏の後を継がせた。国朝は下野塩谷郡喜連川に住み、喜連川氏を称した。その子孫は江戸幕府から五千石を与えられ、十万石の格式で遇せられた。

→鎌倉公方足利氏 /・・
 


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