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足利氏【その2】


鎌倉府体制の確立

 貞治二年(1363)、鎌倉の基氏は越後から上杉憲顕を招いて執事に任命した。憲顕は基氏を養育した人物で、これまでの経緯はともかくとして基氏にとっては父親にも相当する存在であったようだ。憲顕が勤めた執事職はやがて関東管領となり、憲顕が関東管領の最初となった。関東管領職のことは幕府からも再々申し入れがあったようで、基氏は憲顕をそれにあてることで幕府からの要請を入れたのである。つまり、関東執事は鎌倉府が任命し、関東管領は幕府が任命したということになろう。関東管領の任務は関東公方を補佐するもので、鎌倉府内の最高職であった。この管領職の設置により、鎌倉府の機構は一応の完成をみた。ここに上杉氏は東国における政治的地位を確立し、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏とが結合した勢力として、室町幕府の関東分国に臨む体制が成立したのである。基氏以後、鎌倉公方家は氏満・満兼と続き、反足利勢力を押さえてその威勢は隆々たるものがあった。
 康暦元年(1379)、公方氏満は「土岐氏の乱」に出兵し、将軍義満を攻めてこれに代わろうとした。このとき、管領の上杉憲春は氏満を諌めて自害したが、このことにより、山内上杉氏と将軍家との関係は密接になった。翌康暦二年「小山義政の乱」が起こった。この乱は、下野守護小山義政と宇都宮基綱との所領争いに端を発したが、鎌倉府は上杉憲方、同朝宗、木戸範季らに命じて小山義政を攻めた。このとき、武蔵・上野の白旗一揆が援軍として出陣した。小山氏の乱は、以後、十年間にわたって続いたが、鎌倉府の発した追討軍の中核を担ったのは白旗一揆であった。白旗一揆は畠山国清の乱のとき基氏の命によって岩松直国に従い、宇都宮氏綱・芳賀高名の乱には基氏に属し、小山氏の乱には上杉氏の配下に従っていた。そして、白旗一揆を把握していたのは他ならぬ鎌倉公方であった。
 応永十二年(1405)上杉憲定が関東管領職になったが、憲定は将軍義満と密接な関係にあった。関東公方足利満兼は、応永六年(1399)の「大内義弘の乱」に際してこれに加担しようとしたが、憲定がそれを抑制した。土岐氏の乱に氏満を憲春が諌死したように、憲定は義満と連絡をとって満兼を制したのである。ここにおいて、鎌倉府が関東公方と関東管領が一体であった従来の体制が崩れはじめた。これは、鎌倉府の勢力拡大を幕府が押さえるため、管領山内家を支援する立場をとるようになった結果でもあった。
 そして、満兼のあとを継いだ持氏のとき、「禅秀の乱」が起こった。上杉氏は代々関東管領として鎌倉公方をよく補佐してきた。ところが、上杉氏憲(禅秀)は持氏と衝突して管領職を辞し、関東管領には一族の上杉憲基が就いた。氏憲は将軍義持の弟で不遇をかこっていた足利義嗣にすすめられ、持氏の叔父満隆らと語らって持氏排撃の兵を挙げた。氏憲の檄に関東の諸将で応じるものも多く、氏憲方の威勢は関東を圧するかにみえた。
 応永二十三年(1416)、氏憲軍は持氏の館を襲撃し、持氏はかろうじて館を脱出して駿河に逃れた。そして、氏憲勢と持氏勢とは相模国世谷原において激突した。このとき、幕府は氏憲追討のために駿河守護今川範政に出陣を命じ、今川勢が小田原まで進撃したとの報を受けた氏憲は軍を鎌倉へ返した。さらに、越後守護の上杉房方も幕命をもって兵を進めたため、氏憲は今川勢と越後上杉勢の攻撃を受け、ついに鎌倉で自刃して果て乱は終息した。

幕府との対立

 禅秀の乱後、持氏は禅秀の与党となった関東の諸将を呵責なく討伐しはじめた。そのため、禅秀に与した諸将は持氏に反抗し関東各地で合戦が繰り広げられた。応永二十五年、岩松氏の残党を討伐するために一色持定を武蔵につかわし、犬懸上杉氏の守護領国であった上総に本一揆が起こると一色左近将監・木戸憲範懐を将としてこれを討たせた。ついで、小栗満重が常陸で兵を挙げると、小山田上杉定頼に小栗城を攻めさせ満重を降伏させた。さらに、持氏に対する不信と反抗から武蔵・上総・常陸において乱が起こるとこれらの討伐に諸将をつかわした。また、応永二十九年には禅秀方から持氏に降った佐竹氏の一族山入与義を鎌倉で討った。この結果、山入一族は常陸に乱を起こし、下野の宇都宮持綱らがこれに加担した。小栗満重も常陸でふたたび持氏に反旗を翻した。
 このように、常陸・下野に乱が相次いで起こったため、応永三十年、一色左近将監・木戸範懐・吉見伊予守・上杉憲実らを従えて持氏は自ら常陸に出陣した。まず、小栗城を攻略し宇都宮持綱を遂い、桃井・佐々木氏らを捕え、常陸・下野地方を持氏は平定した。このような持氏の行動は鎌倉府の専制体制を確立することにもつながり、それを警戒した将軍義持は持氏に反感を持つ山入・小栗・武田・篠河の足利満貞・白河結城・石川・那須・宇都宮氏らと気脈を通じ、かれらを「京都扶持衆」として親密な関係を結び持氏の行動を監視させた。このことが、山入・小栗・宇都宮氏らが持氏に反抗を繰り返した背景にあった。しかし、かれらが討伐されたことは幕府に衝撃を与え、以後、鎌倉府と幕府の関係は険悪となった。
 応永三十年、幕府は関東の反鎌倉府勢力を援助する方策をとり、甲斐と常陸の守護には京都扶持衆の武田信重と山入祐義を任命した。さらに、持氏討伐を計画して、駿河守護今川範政、信濃守護小笠原政康を関東に侵入させようとした。そして、武州・上州一揆にも命令して小笠原の軍に従軍させ、政康は十二月に上野へ進んだ。翌年、鎌倉の建長寺の勝西堂等の尽力によって、幕府と鎌倉府の和睦が成立し、その結果、常陸守護については鎌倉府が一歩譲って、持氏方の佐竹義憲と幕府方の山入祐義を共に常陸半国の守護とした。甲斐では、守護武田氏の勢力が衰退して逸見・穴山・加藤らの国人勢力が台頭しており、持氏は逸見氏と結んでこれを守護にしようとしたが、幕府は許さず武田信重を守護に任じた。しかし、信重は、国人勢力を恐れて下国せず京都にいて将軍に仕えていた。持氏は信重の入国を主張したが、信重はついに下らず持氏の主張は通らなかった。信重が甲斐国に入ったのは応永三十三年になってからで、甲斐国内は国人の対立で乱れ持氏方の逸見氏は敗れた。そこで、持氏は自ら甲斐へ出陣し、信重の弟で逸見氏らと対立していた武田信長を降伏させ、信長は鎌倉に移って持氏に仕えた。しかし、この持氏の甲斐武田征伐によって、幕府と鎌倉府との和解の一角が崩れた。
 正長元年(1428)、足利将軍義持が死んだとき、子が無かったため、猶子である持氏は将軍職を望んだ。しかし、幕府の重臣たちは、僧籍にあった義持の弟を還俗させて将軍職に就けた。世にいう「くじびき将軍」である。おそらく、幕府の重臣たちは、持氏と比べて御しやすいと思われる義持の弟たちから将軍を選んだものであろう。こうして、義教が将軍となった。これに不満やるかたない持氏は、ことごとく新将軍義教に反抗した。このような持氏に対して管領の上杉憲実は諫言を繰り返したが逆に親幕府的とみなされ、永享十年(1438)、身の危険を感じた憲実は鎌倉を逃れて領国の上野に帰った。これに対して、持氏は憲実討伐の兵を率いて府中に出陣したことで、「永享の乱」が勃発した。幕府は憲実を支援する立場で乱に介入し、結局、敗れた持氏は自害して果て鎌倉府は滅亡した。このとき、鎌倉を逃れた持氏の遺児たちは、下野に逃れて隠れていたが、永享十二年、下総結城城の結城氏朝の支援を得て鎌倉府再興の兵を挙げた。結城方には関東の諸大名も与してその勢いは盛んだったが、翌年、管領上杉清方を大将とする幕府軍の前に落城し遺児らは京都に送られる途中の美濃国垂井で斬られた。この戦いは、のちに「結城合戦」とよばれ、一連の永享の乱の結果、関東は管領上杉氏を中心に戦後処理が行われ上杉氏の勢力が大きく台頭した。

足利成氏と関東争乱

 上杉氏の専制に対して関東の諸将は鎌倉府の再興を幕府に願った。本来なら許されるものではなかったが、「嘉吉の乱」において将軍義教が赤松満祐に殺害され、幕府は関東を平穏におくためにも持氏の子永寿王丸を立てて鎌倉府を再興した。永寿王丸は将軍義成(のちの義政)から一字を賜り成氏と名乗った。このとき、関東管領として成氏を補佐したのが上杉憲忠で、ときに、成氏は十六歳、憲忠は十七歳という若さであった。やがて、成氏は父持氏に従って功のあった里見氏や結城氏の子らを重用しはじめた。これに対して、憲忠は持氏に加担した家の者たちを拒否しようとした。ちょうどこのころ、扇谷上杉持朝が家督を顕房に譲って隠居した。家督を継いだ顕房は十五歳であった。
 このように公方成氏をはじめ、山内上杉憲忠・扇谷上杉顕房らはいずれも若年で、両上杉氏の政務は家宰の長尾景仲、太田資清によって行われた。この両人は「関東不双の案者なり」とよばれ、才幹・武力にすぐれた実力者であった。そして、この両人は禅秀の乱以前の幕府・鎌倉府が一体となって関東を統治し、上杉氏は管領としてこれを補佐し、守護国を支配する上杉氏を主軸とした従来の権力構造の復活を目指した。その結果として、成氏方に出仕する持氏につらなる結城・小田氏らの存在を喜ばなかった。そして宝徳二年(1450)、景仲・資清らは成氏を攻めるという挙に出て江の島合戦が起こった。この合戦は、成氏をとりまく諸将と景仲・資清をとりまく勢力との衝突で、合戦は憲実の弟で憲忠の叔父にあたる重方の斡旋で和議が成立した。しかし、成氏の上杉氏に対する反感は拭えないものとなった。
 成氏は乱後、鎌倉を退去していた憲実・憲忠の父子を帰参させようと努めたが、憲実は鎌倉へ帰らず、憲忠は鎌倉に帰ったものの景仲・資清らも行動をともにしていた。怒りのおさまらない成氏は長尾・太田に味方した武士たちの所領を没収したため、憲忠はその返還を成氏に訴えたが成氏は許さなかった。景仲は武蔵・上野の一揆・被官人を集めて強訴におよび、また、寺社領を押領して一味に与えた。成氏はこれを憲忠に止めさせようとしたが、憲忠に阻止する力はなかった。
 成氏と憲忠の側近の対立に、所領問題が加わって、関東の動揺が激しくなった。享徳三年(1454)、ついに成氏は憲忠を殺害におよんだ。ここに、成氏と両上杉氏の対立が爆発し、「享徳の乱」が勃発した。殺害された憲忠のあとは憲実の二男房顕が継ぎ、房顕は上野平井城に拠った。成氏と両上杉氏の戦いは康正元年(1455)正月より、いつ果てるともなく続き関東は西国に先がけて戦国時代に突入した。両上杉氏の中心となって公方成氏に対抗したのは山内家家宰の長尾景仲であり、扇谷家では資清・資長父子であった。資長はのちに家督を継いで扇谷家の家宰となったが、太田道灌の名で知られている。

下総古河に拠る

 享徳四年(康正元年=1455)成氏は上杉勢を討つために兵を率いて多摩郡府中に陣を布いた。景仲も房顕を擁して、扇谷持朝および犬懸憲顕らと合体して成氏に対峙した。戦いは、分倍河原で行われ激戦が展開、合戦は翌日まで続き、次第に上杉方が劣勢となり成氏方の大勝利に終わった。敗れた上杉房顕・憲顕らは重傷を負い高八幡不動で自殺した。長尾景仲は遠く常陸まで退却し、上杉氏の重臣大石房重・重仲兄弟らが討死した。これより先に、景仲と房顕は憲忠誘殺のことを幕府へ報じて成氏征討軍の派遣を請い、越後守護上杉房定の出陣も求めていた。分倍河原の合戦に勝利した成氏は、鎌倉に帰ってしばらくは優勢を保った。しかし、幕府は成氏討伐を決定し駿河の今川範忠に出陣を命じた。これに対して、成氏は早く関東の処置をつけようと小栗城を攻めた。また、上州一揆に古河への出陣を命じ、岩松持国に上州一揆を把握させようとしたが上州一揆は退去してしまい、成氏は自ら小栗城攻めに出陣してこれを落し上杉勢を下野へ遂った。
 ところが、幕府の成氏討伐の決定によって諸将は動揺し、上杉方に寝返る者も出始めた。成氏は小栗城攻めのあと下野に軍を進め宇都宮氏を降し、山川城・真壁城を攻め落とすなど諸所に戦った。六月、越後の上杉房定が上野に入った。さらに今川範忠が鎌倉へ来攻してきたことで、鎌倉は戦火に被われ市街はほとんど灰燼に帰してしまった。成氏は逃れて下総古河に走り、以後、「古河公方」と呼ばれるようになった。その後も、公方方と上杉方との合戦は止むことなく繰り広げられた。
 長禄元年(1457)、幕府は関東の情勢を打開するため、渋川義鏡を関東へ下した。幕府は成氏を討伐して、上杉氏を管領として鎌倉府を再興する意図を持ち、その線で渋川義鏡を関東に下向させたのである。さらに、幕府はこの計画を推進するため、将軍義政の弟政知を関東へ下し成氏に代わらせようとした。しかし、政知は鎌倉へは入らず伊豆北条の堀越に居を構えた。以後、政知は「堀越御所」と称され、関東には二人の公方が並び立つ状況になった。
 文明三年(1471)、成氏方の千葉・小山・結城氏らは伊豆へ出撃して政知を討とうとした。政知は今川氏の加勢を請い、三島へ出陣して防戦したが敗れた。そこに、上杉の被官矢野安芸入道と越後の宇佐美孝忠が成氏軍を攻めてこれを破り、成氏方は古河城へ逃れた。対する上杉方は成氏方の伊豆出陣を機として、一挙に古河を攻略しようとした。長尾景信が主将として出陣し、下野足利庄内の赤見城・樺崎城を落した。ついで、幕府は成氏方の有力家臣らに帰属を勧め、成氏方の内部分裂をはかった。以後も、成氏方と上杉=幕府方との抗争は果てしなく繰り返され、関東は合戦に明け暮れた。成氏は幕府の改元にも従わず、享徳の年号を文明九年(1477)ごろまで用い続けるほどであった。

和睦の成立、両上杉氏の対立

 文明十一年(1479)古河公方成氏は越後の守護上杉房定を仲介として、幕府へ和議を申し出た、ついで、翌年幕府へ和睦を申し入れた。やがて文明十四年(1482)に至って、幕府は成氏との和睦に応じ「都鄙の合体」が成立したのである。幕府は、古河公方の実力とその存在を認めざるを得なかったのである。ここに、成氏の反幕府・反堀越・反上杉的行動も一応停止された。成氏は和睦後も古河におり、堀越公方政知は堀越にいた。政知は幕府公認の公方として堀越にいたのである。そして、公方の権限は政知の手にあり成氏のもとにはなかった。こうして、関東は一時的ながら小康状態が訪れた。
 しかし、その平穏も長くは続かず、山内・扇谷両上杉氏の間で対立が起こった。それは、成氏に対する山内顕定の和睦策に扇谷定正が反対の態度をとったことに端を発した。加えて、都鄙の合体も山内顕定と越後の房定によって進められ、扇谷定正は関係しなかったことも定正は面白くなかった。この間、扇谷上杉の家宰である太田道灌は、定正に従って江戸・河越両城を補修し、山内上杉氏の家宰職をめぐって起こった「長尾景春の乱」を鎮圧するなど武蔵・相模の安定を図り関東の静謐を維持しようと努めた。この太田道灌の活躍によって扇谷上杉氏の勢力は山内上杉氏をしのぐ勢いを見せるようになった。これを危惧した山内上杉は道灌の態度が両上杉に対する謀叛と扇谷定正に讒言し、それを信じた定正によって、文明十八年、道灌は相模糟屋の定正の館に招かれ殺害された。この道灌の死によって、両上杉氏の仲は修復されることなく、さらに対立を深めていった。
 両者の対立はやがて武力抗争に発展し、長享二年(1488)には、山内顕定・憲房父子と扇谷定正・朝良父子の軍勢が相模・武蔵の各地で対戦した。二月に、相模実蒔原で戦い、六月、武蔵須賀谷原で対戦し、いずれも扇谷定正が勝利をえた。そして、十一月には、武蔵高見原において対戦し、この合戦も定正が勝利した。これら一連の両上杉氏の戦いにおいて、古河公方政氏は扇谷方に味方しその勝利に貢献したようだ。扇谷氏は三度の戦いに勝利したものの疲れは著しく、一方の山内方は軍勢も多く、扇谷氏が山内氏の息の根を止めることは容易ではなかった。その後、古河公方は扇谷定正から離れ山内顕定と和睦しようとしたため、定正の立場はますます苦境に陥った。この事態を重くみた扇谷家の重臣大森氏頼は、定正に和睦を進めたが聞き入れられなかった。
 明応三年(1494)両上杉氏は軍を進め、山内顕定は扇谷方の諸城を落した。このとき、扇谷定正は伊豆韮山城の北条早雲の救援を得て、北上して高見原に進み荒川を隔てて顕定と対陣した。ところが、その五日後に定正が急死したため、早雲は伊豆へ引き揚げ、扇谷軍も河越城へ帰っていった。この合戦こそ、早雲が初めて武蔵に軍を進めた戦いであった。
 これより先の延徳三年(1491)堀越公方政知が死んで、その子の茶々丸が跡を継いだ。しかし、茶々丸は粗暴な性格をもち、政知の旧臣たちも心服しなかったため、伊豆は混乱状態に陥った。それをみた北条早雲は伊豆に攻め入り、茶々丸を滅ぼして韮山城に拠った。そして、明応四年に大森氏頼が死去すると、その子の藤頼の守る小田原城を奪って相模に進出し、関東の戦国時代に大きく台頭してきた。  早雲によって堀越公方が滅亡したあと、古河公方政氏がふたたび関東公方としての立場に立ち、山内上杉氏はその管領という立場になったようである。そして、永正二年(1509)両上杉氏は和睦した。この和睦は、台頭著しい北条早雲を阻止するためともいわれる。しかし、すでに伊豆・相模に着々と地盤を築いていた早雲にとって両上杉氏の和睦は脅威とはならなかったようだ。以後、小田原を本拠にした後北条氏が関東の戦国時代を席巻するようになっていくのである。

後北条氏の台頭

 武蔵への進出を目論む北条早雲は古河公方家に謀略の手を伸ばし、やがて、政氏の子高基は上杉氏を嫌って父と不和になる。結果、公方家は政氏と高基およびその弟義明の二派に分かれて対立するようになり、永正九年政氏は古河を去った。同十一年、高基は宇都宮忠綱、結城政朝らと組んで、佐竹義舜と組んだ父政氏と戦いこれを打ち破った。政氏は久喜に隠居し、高基が古河公方になった。大永元年(1521)、高基は子の晴氏に北条氏綱の娘を室として迎え、天文四年(1535)に没した。
 これより先に、義明は父兄との不和から古河を去り、上総の武田氏の庇護を受けて下総国小弓に住み小弓御所と称されていた。義明は元来僧籍にあって鎌倉に住していたが、武勇を好んで還俗した人物であった。そして、後北条氏やこれと接近した高基および晴氏を快からず思っていたのである。
 天文六年(1537)、北条氏綱は扇谷朝定と戦って大勝し、朝定は河越城を捨てて上野の山内憲政のもとに逃れた。以後、河越城には北条綱成が城将として入り、後北条氏に対抗する岩付太田氏の勢力を脅かした。その翌年、小弓御所足利義明は安房の里見氏に奉じられて氏綱と下総国府台で戦ったが、小弓義明は討ちとられ里見氏は安房に敗走した。義明の子頼純は安房に逃れ、この頼純の子が喜連川国朝である。一方、後北条氏はこの勝利によって、関東制覇の基礎を築くにいたった。天文十年、氏綱が死ぬとその子氏康が事業を継承した。
 天文十四年、山内憲政は後北条氏の勢力拡大を阻止するため、駿河の今川義元に支援を頼み、扇谷朝定とともに六万五千騎(数には諸説あり)の兵を率いて河越城を包囲した。憲政は古河公方足利晴氏にも使者を送り、河越包囲軍に加え、後北条氏との決戦を企てたのである。河越城の城将北条綱成の手勢は三千騎という寡勢であったが、よく連合軍の攻撃をしのぎ合戦は年を越えた。小田原の氏康は河越城救援のため兵八千を率いて出陣したが、敵のあまりの多さに驚いた氏康は、一計を案じ上杉方を油断させ上杉氏の陣に夜襲をかけた。この氏康の率いる決死の後北条軍の攻撃に、数をを誇った上杉軍はたちまち大混乱に陥り、朝定は戦死して扇谷上杉氏は滅亡、憲政は平井城へ古河公方晴氏は古河へ逃れるという大敗北を喫した。これが、世に名高い「河越の夜戦」で、氏康と後北条氏の武名を一挙に高め、関東の中世的秩序を一気に崩壊させたのである。
 平井城に逃れた憲政は北条氏の追撃を受け、厩橋城に逃れ勢力を維持しようとしたが氏康は攻勢の手を緩めなかったため、厩橋城も支えきれず、ついに天文二十一年、越後の長尾景虎を頼って関東を逃れ去った。景虎は憲政を庇護し、関東の秩序を恢復するために兵を関東に送った。そして、永禄三年(1560)みずから越後の兵を率いて関東に出陣、以後、十数回にわたって関東への出陣を繰り返すことになる。景虎はたちまち北関東を平定すると、翌四年には、長駆小田原城を攻撃し、鶴岡八幡宮において憲政から譲られた関東管領職の就任式を行った。このとき上杉の名字などを譲られ、長尾景虎を改め上杉政虎(のち輝虎、謙信と改名)と名乗った。

公方家の衰退

 話は前後するが、天文二十一年(1552)、北条氏康は古河公方晴氏の嫡子藤氏をさしおいて、自分の甥にあたる義氏を古河公方に擁立した。ここにおいて、北条氏康は関東管領の地位に付き、関東の国人領主間の抗争に介入、調停する伝統的な権威を手に入れた。これに対し、義氏の父晴氏は嫡子藤氏とともに、義氏とそれを擁立する北条氏康に対して古河籠城事件を引き起こした。これは古河公方体制の回復を図ろうとしたものであったが失敗、公方家が分裂すると当然家臣団も大きく動揺した。
 この間の事情を公方家の重臣である野田政保にみると、政保は義氏から所領を宛行われており、野田氏が義氏側に立っていたことを示している。義氏の背後に北条氏康が控えている以上、野田氏も氏康とまったく無関係でいることはできなかった。たとえば、弘治二年(1556)氏康が小田氏治攻撃の軍を催したとき、野田政保は後北条軍とともに常陸へ出陣している。その後、野田氏に対する氏康の締め付けは強くなり、義氏と晴氏・藤氏父子との古河城争奪戦において、氏康は晴氏・藤氏を「当御所様」に対する「謀叛人」ときめつけ、政保に義氏のために彼等を逮捕するように命じている。政保は公方家の家臣であり、義氏と藤氏との板ばさみにあいながらも、氏康の強い圧力と所領宛行という条件に屈して藤氏たちを逮捕し、これまでどおり栗橋城主としての地位を保つとともに、所領も獲得したのであった。このように、氏康は古河公方家の内訌をその家臣野田氏をつかって落着させ、義氏・氏康に対する野田氏の忠誠心をも試すことができた。
 その後、義氏は、小田原・鎌倉などに住み、やがて、氏康のはからいで関宿城に入った。しかし、永禄三年(1560)に関東へ出陣してきた上杉謙信のために関宿を追われ、下総小金などを経て鎌倉に移っていた。そして永禄十二年、越相同盟の成立によって古河城に入城したのである。しかし、元亀年間(1570〜73)以降の古河公方義氏は、かつてのように関東の領主たちに大きな影響を与えることはなくなっており、実質的には特殊な権威をもつ後北条領国の一領主という存在に変わっていた。いわば、門地格式だけが高い有名無実な存在に過ぎなかった。そして、天正十年義氏は没し、以後、古河公方家は無嗣廃絶の状態となった。
 ところで、氏康が義氏を公方に擁立したとき、たとえば常陸の佐竹義昭は公方義氏は私的な存在であることを見抜き、越後の長尾景虎と結んで公方義氏=管領氏康と対立した。この義昭の解釈は的を射たもので、義氏が公方になった時点で公方は自立した権威では無くなった。激しく対立・抗争を続けた北条氏康と上杉謙信は、永禄十二年(1569)越相同盟を結盟した。そのとき、謙信はみずから擁立していた公方藤氏がすでに死去していたこともあって氏康が推戴する足利義氏を古河公方として承認している。謙信も関東管領であり、氏康も関東管領であった。この越相同盟においても、改めて古河公方が氏康に擁立された私的な存在にすぎないことが明らかにされたのである。そして、またそのことは古河公方と関東管領を頂点とする東国社会の中世的秩序が崩壊したことを如実に示すものであった。その意味で古河公方家は義氏が当主にあったとはいえ、晴氏とその子藤氏が相州秦野に幽閉された時点で事実上滅亡していたといえよう。

古河公方家のその後

 義氏の死後、遺臣たちは義氏の娘氏女を擁して古河城主としていた。天正十八年(1590)秀吉は後北条氏を滅ぼした後、下野宇都宮城に「関東仕置」のため下向した。このとき、足利頼純の娘島子(月桂院)が自家再興を願い出て秀吉の寵愛を受け、親の養い料として下野喜連川に三千五百石を与えられた。しかし、秀吉は古河公方家の廃れることのほうを憐れんで、島子弟の国朝をもって公方家を嗣がしめ氏女をその妻室とした。そして、島子が所領を国朝に譲って国朝が喜連川を称し、ここに喜連川氏が関東足利氏の嫡流となった。国朝は、文禄二年(1593)の「朝鮮の役」に際して、肥前国名護屋城に赴く途中の安芸国で病没した。翌年、弟の頼氏は上洛して兄の遺領を継ぐことを秀吉に願い出て許された。ただし、国朝の妻室も引き受けさせられている。
 慶長六年(1601)、頼氏は千石を加増されたものの万石には届かず、諸侯に列することはできなかった。が、喜連川氏は十万石格として扱われ交代寄合をつとめた。江戸幕府は、喜連川氏を徳川氏と主従関係にあるとは見ていなかったようで、江戸城内での殿席は将軍の代によって異なったが、頼氏の代は尾張・紀伊・水戸の三家に次ぐものであった。余談ながら、喜連川氏が徳川幕府に差し出した系図には足利基氏が初代となっている。そして、喜連川氏の家紋は「十六の菊」「五七の桐」それに足利氏の「二つ引両」と最高格式のものばかりが連ねている。余談ながら、明治維新後、喜連川から「足利」に復姓している。



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