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本願寺
●九条下り藤
●藤原北家日野氏流  
 


 戦国時代、畿内・北陸・東海地方において「一向一揆」が起り、戦国領主と対立した。一向一揆とは浄土真宗=一向宗の教えによって団結した信者(門徒)たちが、みずからの主体性を賭して立ち上がったものである。一向一揆は本願寺門主を盟主とし、本願寺は一揆を指導することで、中途半端な戦国大名以上の勢力を有するに至った。
 越後の上杉謙信は祖父の長尾能景の代より越中の一向一揆と戦い、能景は一揆との戦いで戦死している。また、三河の徳川家康は家臣の多くが一揆方に加わるという苦渋を味わい、尾張の織田信長の晩年は一向一揆との抗争に費やされたといっても過言ではない。さらに、加賀守護の冨樫氏は一揆に敗れ、以後、加賀国は百年間にわたって「百姓がもちたる国」となったことは有名な史実である。
 一向一揆の「一向」とは、ひたすらとか一筋ということで、一つに専念することを意味している。そして一向一揆に冠された「一向」は、浄土宗・浄土真宗の経典の一つである『無量寿経』にある「一向専念無量寿仏」からきたもので、阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、親鸞を開祖とする浄土真宗の呼び名にもなった。

教祖、親鸞の生涯

 浄土真宗の開祖親鸞は、承安三年(1173)、下級公家日野有範の子に生まれたと伝えられている。治承五年(1181)、九歳のとき青蓮院の慈円について出家、比叡山にのぼり、横川常行三昧堂の堂僧として二十年間学行につとめた。しかし、求める教えには出会えず、比叡山そのものの俗化にも絶望をいだくようになった。比叡山を下った親鸞は、建仁元年(1201)法然の門にはいり、専修念仏の人となった。
 当時、法然の学識に対する尊敬もあって専修念仏に対する評価は高かった。旧仏教である南都(奈良)・北嶺(比叡山)や朝廷もその活動を静観していたが、専修念仏の教義や信者の増加に危惧をいだいた南都・北嶺からの圧迫は次第に厳しいものになっていった。そこへ、朝廷の女官の中に法然の弟子と通じる者がいるなどの噂も生まれ、承元元年(1207)ついに「念仏停止」の命令が朝廷からくだされた。そして、法然、親鸞らは還俗させられたうえ、流罪となったのである。
 親鸞は俗名を藤井善信とされ、越後国に流された。この事件を機に、親鸞は自分のことを「愚禿」と称した。「愚禿」とは、戒行破れ果て、僧でもなく俗でもないという意味であった。ここに親鸞の「非僧非俗」と「肉食妻帯」を二本柱とする「在家主義」が確立されたのであった。
 建暦元年(1211)親鸞は流罪をとかれたが、師法然の死を知ったこともあって京都へは帰らなかった。以後、東国を自らの伝道の地とした親鸞は、常陸国稲田に移り住み、主著「教行信証」の執筆と教導とに専心した。 親鸞は二十年間にわたって関東各地の門徒、門人を導き、「教行信証」の推敲をつづけ、文暦元年(1234)、二十七年ぶりに京都にもどった。
 すでに親鸞は七十五歳という年齢であったが著作にはげみ、親鸞の主著とよばれるもののほとんどはこの時期以後に書かれた。その後、関東の弟子たちの疑問に答えるため、息子の善鸞を鎌倉に派遣したが、かえって教義の混乱を招き、善鸞と親子の縁を切る結果となった。
 晩年の親鸞は心の平安をとりもどし、すべてを阿弥陀仏の救済にまかせた「自然法爾」の境地に至り、弘長二年(1262)九十歳を一期として世を去った。
・写真:親鸞の木造( 台東区元浅草 称念寺さまから)


本願寺のはじめ

 親鸞の死を看取ったのは末娘の覚信尼で、親鸞の没後は覚信尼がその墓を守った。覚信尼は日野広綱に嫁して覚恵を生んだが、広綱と死別したのち小野宮禅念に再嫁して唯善をもうけた。文永九年(1272)、京都大谷北地の禅念の敷地内に親鸞の墓を移し、廟堂を建てて親鸞の木像を安置した。建治元年(1275)に禅念が没すると、覚信尼は大谷廟堂と土地を親鸞門弟の共有物とした。この大谷廟堂が、のちの本願寺へと発展していくことになる。
 大谷廟堂は覚信尼の長男である覚恵が留守職としてその管理を行うこととなったが、廟堂は門弟の共有物であり、主に東国門弟の懇志によって運営され、留守職への就任は門徒の了承を必要とした。やがて、大谷廟堂は諸国の門徒の参詣と寄進を集めることから、のちに留守職をめぐって覚恵の子覚如と、覚恵の異父弟唯善との間で争いとなり、覚如が辛うじて勝利して自己の家系による留守職の世襲を確立した。覚如は正和元年(1312)に廟堂を寺院化し、大谷本願寺が生まれたのである。
  以来、大谷本願寺は覚如の子孫が継承し、代々、教団の形成を進めていった。親鸞は「御同朋」を唱え、絶対者の救済を信じ、他力の光明を受ける者はあらゆる立場の違いをこえて平等であるとしていた。そのような親鸞にしてみれば、自分の後裔の者が一大教団を形成するようになるとは、夢にも思っていなかったのではないか。それはまた、親鸞のいう「同朋意識」にたって本願寺を支えてきた東国の門徒たちとの仲も自然に疎遠とし、ついには支援も途絶えるようになった。
 東国の門徒たちからの仕送りなどが途絶えたことで、本願寺は経済的にどん底状態に陥っていった。そのため第五代綽如のとき北陸地方へと進出、第七代存如の時代までに加賀、能登、越前、近江などで本願寺教団が形成されていった。

中興の粗、蓮如の登場

 応永二十二年(1415)、存如の長男に生まれたのが蓮如で布袋丸と名付けられた。蓮如の生母は、貧しい本願寺の下働きをつとめる身分が低い女であった。応永二十七年、蓮如の父存如はしかるべき家の女如円を正妻に迎えた。そのため、蓮如の母は身をひかざるを得ない立場となり、わが子の肖像画『鹿子の御影』を描かせて本願寺を去っていった。
 永享十二年(1440)、存如は本願寺第七世を継ぎ、正妻如円との間に男子応玄が生まれた。一方、永享三年、布袋丸は青蓮院にて得度し法名を蓮如と名乗った。当時の本願寺は教団の形成を進めていたとはいえ、参拝する人も少ない寂れた寺に過ぎなかった。蓮如は部屋住みの間に教義の研究に没頭し、そのようななかで妻を娶り子供をもうけた。
 長禄元年(1457)、存如が没した。長男とはいえ蓮如は庶子であり、門主の座は正妻如円の生んだ嫡子応玄が相続するというのが自然な流れであった。しかし、蓮如を推す一族もあり、ここに本願寺門主の座をめぐって内紛となり、親類一同を巻き込む壮絶な勢力争いとなった。結果は、叔父如乗の強力な後押しを得た蓮如が、逆転して本願寺第八世の座を相続したのである。ときに、蓮如四十三歳であった。相続争いに敗れた応玄は、本願寺にあった経典などの聖教類ほとんどを持ち出し加賀国大杉谷に逃げていった。のちに蓮如の下に帰参したことで、蓮如は誰はばかることなく本願寺門主となった。
 蓮如は生涯で五人の妻を迎え、二十七人の子供をもうけている。本願寺法主となった蓮如は、男子は各地の重要拠点に派遣し、女子は有力寺院などに嫁がせて、一気に全国的に浄土真宗の勢力の拡大を図ったのである。
 蓮如が生きた時代は中世の争乱期であり、蓮如は親鸞聖人の教えを分かり易く噛み下した教義を背景とし、不屈の闘志で布教活動に邁進したのである。蓮如の教えは熱っぽく分かりやすく、乱世に望みを失った多くの庶民に受け入れられ、本願寺教団は日本全国へと広がっていった。しかし、寛正六年(1465)比叡山の襲撃によって大谷本願寺を破却された蓮如は京都を逃れ、近畿各地を転々としながら布教活動を続けた。
・写真=崇泰院─親鸞上人旧御廟所・本願寺発祥地・蓮如上人御誕生地


弛まぬ蓮如の布教

 蓮如は優れた宗教指導者であると同時に、優れた政治的指導者であり、偉大なプロパガンダーでもあった。さらに、蓮如が門徒たちに書き送った「お文(御文書)」は平易な文章で書かれ、蓮如が優れた教育者であったことをうかがわせている。蓮如は腐敗した寺を嫌い野に寝起きした一休禅師とも深い交友があり、まさにスーパーマンのような人物であった。
 応仁元年(1467)、京都で「応仁の乱」が起り、世の中はは戦国時代へと推移していった。このころ、蓮如は堅田門徒を頼って堅田に滞在していたが、翌年、山門衆徒が堅田を全面攻撃したため、堅田衆は逼塞を余儀なくされた。蓮如は大津を離れ布教のための安住地を探して奈良など各地をめぐりながら、ついに叔父の如乗が住する北陸をめざした。
 室町時代、越前国は斯波氏、加賀国は冨樫氏がそれぞれ守護として勢力をもち、応仁の乱のはじめ、北陸の地は西軍が優勢だった。そこで東軍は斯波氏の重臣朝倉孝景を越前国守護職をもって誘い、さらに冨樫政親を立てて越前・加賀を東方にしようと画策した。これが文明三年(1471)のことで、朝倉孝景は西軍の越前守護代斐氏を攻撃して越前の一国支配に乗り出したのである。そして、この年に蓮如は朝倉孝景から吉崎滞在許可を得て吉崎を拠点としたのであった。吉崎に腰をすえた蓮如は、精力的に布教活動を展開する。北陸の地は本願寺派のみならず他派の勢力が強く、また本願寺派の僧たちも異端の教義を信奉しているという状態にあった。
 親鸞の没後、浄土真宗は本願寺をはじめ、高田派・仏光寺派などに分かれて、それぞれが宗祖親鸞の教えを広めていった。ところが乱世のなかで、親鸞の残した教えを庶民が受け入れやすいようにゆがめ、本願寺の貧しさをよそに大いに繁盛するところも出てきた。たとえば、仏光寺は京都はもとより山陽・山陰・北陸にまで勢力を伸ばし、門前市をなす盛況ぶりであった。仏光寺は寺の坊さんを仏の化身として、坊さんにしたがって信心すれば極楽往生まちがいなしと教えた。さらに「名帳」「絵系図」を考案して、これに名前や絵を書けば極楽往生が約束されるとした。当然、名前や絵を書いてもらうには金銭や物品をより多く寺に捧げることが必要となり、それが、仏光寺繁盛の仕掛けであった。
 親鸞は阿弥陀仏の前では一切の人間のはからいをすてて、ただ「念仏」することだけを説き、真実の「教」「行」「信」「証」のすべては阿弥陀仏からくだされるものだとした。そして、「偶像崇拝」をすることはなかった。それは蓮如も同様であり、蓮如は親鸞の教えをゆがめる同門の寺院を異端とし、正しい親鸞の教えを広めようとしたのである。
・蓮如の画像
■ 蓮如の評伝は沢山あるものの、五木寛之氏著の「蓮如(岩波新書)」がお薦めです。


一向一揆の登場

 蓮如は本願寺派の教説を簡単な漢字と、カタカナ交じりでのわかりやすい文章に認め、門徒衆や僧あてに送った手紙を送った。「お文(御文書)」とよばれ、現代でいうところの通信教育であった。このような蓮如の布教活動は着実に浸透していき、庶民の支持をえてその精神的支柱となり、浄土真宗の教えは燎原の火の如くに広まっていったのである。
 蓮如の説く教えによって結ばれた門徒たちは、やがて一揆を結び、ついには武士たちの支配に抵抗を示すようになった。長享二年(1488)蓮如による教勢拡大を背景に加賀一向一揆が起こり、加賀の本願寺教団は守護の富樫氏を追い、「百姓の治める国」といわれる状況が生まれた。その体制は、天正八年(1580)までのおよそ百年間続くことになる。
 もっとも蓮如は門徒たちの武装蜂起に反対であったようだが、門徒たちの勢いを抑えることができなくなった。苦悩する蓮如の姿を目の当たりにした息子たちも危機感を抱き、大津にいた長兄にして次期宗主と目される順如を呼び、順如から蓮如に話をしてもらった。長男順如の諌言をいれた蓮如は、文明七(1475)、ついに吉崎退去を決意し、京都に戻っていったのである。京都に戻った蓮如は山科に本願寺を再建し、北陸には二度と戻ることはなかった。そして、明応八年(1499)八十五歳で大往生を遂げるまで精力的な活動を続けた。蓮如の長男順如は父に先立って死去したため、蓮如のあとは実如が相続した。
 
●蓮如の誤算と苦悩
………
 本願寺教団は、蓮如の時代に一大飛躍をとげ、大教団に発展した。それは、蓮如の布教の的確さによるものとはいえ、当時、政治・経済的に成長する時期を迎えていた庶民が、自分達の行動の思想的拠り所として、真宗を選んだことが教団発展の要因となった。
 次第に拡大していった本願寺教団は、蓮如の思いをよそに、蓮如を頂点としてその下に一家衆寺院、その下に大坊主分や寺院道場がつらなり、門徒はその底辺にあった。いいかえれば蓮如の存在を神格化し、封建主義形態を見せるようになったのである。吉崎に集まる門徒は蓮如を生仏として拝み、それを蓮如が否定すればするほど、蓮如のカリスマ性は強められていった。
 門徒たちは「われは信心を得たり」といって往来を闊歩するようになり、武家を領主にして苛酷な支配を受けるより、坊主を領主としてわがままをいった方がよいと考えるようになり、それが一揆へと発展していったのである。それは、革命というものではなく、単純な奪権闘争であった。肥大化した本願寺教団は、すでに蓮如をもってしても制御不能状態となり、ついに蓮如は北陸吉崎の地を去ることになったのである。

 十六世紀に入ると、戦国動乱の中で一向一揆は各地で猛威を振るい、本願寺教団は零細な農民から地侍、土豪などの武士階層に至るその組織力を武器に日本各地で活動を活発化させていったのである。天文元年(1532)、「天文法華の乱」により山科本願寺は戦災にあい、焼失してしまった。ときの法主証如は、蓮如が摂津に別院として開いていた石山御坊へ移り石山本願寺とした。以後、この石山本願寺が戦国乱世における一方の拠り所となった。
 石山本願寺は上町台地にあり、淀川河口の河川交通の要衝で、まさに要害の地であった。証如は幕府・諸大名、朝廷との緊密化を図り、本願寺の勢力基盤を安定させた。その一方で、北陸をはじめとする地方の本願寺教団では、本願寺の統制を外れて独自路線を歩む者もあらわれつつあった。浄土真宗の教義を信奉しながらも、それぞれの欲得が行動へとつながっていく、まさに乱世であったといえよう。

信長との死闘

 第十一代顕如の時代になると、本願寺は領土こそもたないものの、事実上、戦国大名と呼ばれるべき存在であった。やがて、尾張にあらわれた織田信長が勢力を拡大し、足利義昭を奉じて畿内に進出し、にわかに群雄から一歩抜きん出てきた。信長は旧弊を嫌い、あろうことか比叡山を焼打ちするなど、宗教勢力から領主権力を奪って統一支配を確立しようとした。
 本願寺宗主を盟主とあおぐ一向一揆は信長と対立し、織田信長は石山本願寺を一揆の元凶として攻撃してきた。かくして、元亀元年(1570)に始まった本願寺と信長の抗争、いわゆる「石山戦争」は、以後、十年にわたって続くことになる。顕如は各地で織田方と戦う本願寺門徒を中核とし、甲斐の武田信玄、中国の毛利氏らと結んで優勢に立ち、信長を大いに苦しめた。この本願寺との泥沼の抗争が、信長の神経を病ませ暴君へと突っ走らせていったとする説もある。
 天正二年(1574)、伊勢国長島一揆が織田氏によって滅ぼされ、ついで翌三年、越前を織田氏から奪還した一向一揆が覆滅されるなど、各地における抵抗はつぶされていった。さらに、天正六年(1578)には木津川の合戦で本願寺と同盟する毛利氏の水軍が織田水軍に壊滅的敗北を喫し、本願寺勢力は敗北を重ねていった。しかし、石山本願寺は雑賀衆などの支援を得て強勢を保ち、信長に屈することはなかった。とはいえ、次第に孤立化を深めていき、ついに天正八年、正親町天皇の勅命を引き出した信長に屈することになった。
 このとき顕如の長子教如は抵抗を続けることを主張したため顕如と仲違いし、次男の准如が後継者に立てられた。その後、門主の座をめぐって教如と准如の対立状態となるが、天正八年、石山本願寺を退去したときに、戦国時代の一大勢力として領主権力を行使した本願寺は消滅したといえよう。文禄二年(1593)、顕如が没すると、准如が門主となった。

本願寺のその後

 関ヶ原の合戦後の慶長七年(1602)、徳川家康が教如に准如の本願寺教団と別の寺地を与えて東本願寺を興させた。このとき、西本願寺となった准如の教団から東本願寺の教如のもとに移る門徒が多くあらわれ、本願寺は東西に分裂した。これは、家康一流の本願寺分離策であり、本願寺勢力を削ごうとしたものにほかならない。かくして本願寺は二分され、以後、東本願寺を大谷派、西本願寺を本願寺派と呼び、ともに明治維新に至った。
 そもそも、本願寺の門主は「本願寺顕如」、「本願寺光佐」というように主の法名や諱に本願寺を冠してよばれたが、それはあくまで便宜上の呼称であった。本願寺宗主の家系が本願寺を家の名字・姓としたわけでも、本願寺氏という氏が存在したわけでもない。それが、明治に名字必称となったことで、両本願寺とも宗祖親鸞の墳墓の地である大谷を名字とし、ふたつの大谷家はともに伯爵を授けられ華族に列した。いまも東西両本願寺とも、日本における大教団としてそれぞれ存続したいる。

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●本願寺の家紋─考察

■参考略系図
・『尊卑分脈』『系図纂要』などの「本願寺系図」から作成。  
■中世本願寺分流系図


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