ヘッダイメージ



下間氏
桔 梗
(清和源氏頼光流)

 本願寺の坊官として知られる下間氏は清和源氏頼光流で、源三位頼政五世の孫宗重から始まる。宗重は浄土真宗の開祖親鸞に従って常陸国下妻の地に一宇を建立し、下妻蓮位坊と名乗った。のち地名によって下間と改め、子孫は代々本願寺に仕え、鎰取役・堂衆・奏者などとして、俗務と法務を兼ねて勤仕し続けた。
 下間氏が活躍の場を拡大したのは蓮如の時代で、本願寺が膨張するとともに下間氏一族も数多く登用されるようになり、本願寺教団内に地歩を固め、枝葉を広げ子孫おおいに繁栄した。本願寺の家臣は下間氏だけではなかったが、戦国時代の顕如が門跡に列せられたことで、下間一族から頼良・頼資・頼総が勅許によって坊官に任命されたことで、本願寺内外における地位を確立したのである。
 坊官とは門跡という格式に付随する職で、下間氏はその坊官という格式を与えられ、本願寺内部では年寄・家老として俗務を取り仕切った。そして、一向一揆などの合戦においては、本来の武士という立場をもって大将格として出陣、その役割を果たしたのである。『下間系図』を見ると、本願寺が加賀・越前を領国化したときには守護代をつとめ、本願寺が諸大名と抗争を繰り返す中で多くの下間一族が非業の死を遂げている。
 
●鎰取(カギトリ)役

 監物とともに、庫蔵の管鑰を女官より請進する役である典鑰(てんやく)と同じで、諸国の正倉・社寺、社寺の荘園などの鍵を預る役。近世では郷倉の管理をした村役人をいった。
 『本願寺作法之次第』によれば、 綽如上人のとき下間丹後の同名一人が堂衆と成り、「鎰取とて、御住持御差指合の時は、御戸ひらく人侍りき也。」とみえている。御戸は開山聖人の御御厨子の御戸であり、下間丹後の同名一人がその鍵を管理する役にあったことが知られる。


本願寺重職として活躍

 戦国時代はじめの上野法橋頼慶は、有能な坊官として実如に仕えて重職の地位にあったが、一時、実如のもとを離れ、のちに証如の時代に復職している。永正二年(1505)、幕府管領の細川政元が実如に摂津・河内で一揆を要請するが、坊官や門徒が断ったために頼慶が使者として交渉にあたった。このことが、実如への不信感となり、蓮如九男の実賢を宗主にしようとする御家騒動が起った。驚いた実如から事態の収拾を命じられた頼慶は、実賢や担ごうとした坊官たちを追放し騒動を解決した。
 天文六年(1537)、美濃守護土岐氏が六角定頼に対し、多気郡の一揆と本願寺の関係を尋ねるが定頼はそれを否定した。そのことを定頼に尋ねられた頼慶は、門徒達から事情を聞き否定の文を送っている。このように、頼慶は美濃 の「土岐家」、近江の「六角家」 などの戦国大名との交渉にあたり、武田家や将軍家、織田家との交渉にもつとめるなど、本願寺の外交面をになって活躍した。
 本願寺証如の代、下間氏嫡流の筑前守頼秀が証如の奏者役をつとめた。証如は実如の孫で、本願寺十世の宗主となったとき、わずか十歳の少年であった。そのため、外祖父の蓮淳が後見役となった。しかし、証如に対しては下間氏の影響力が強く、若い証如はそのすすめによって行動することが多く、下間氏の権勢はいや増していった。その結果、寺内に乱脈のきざしがみえ、内部分裂の様相を見せるようになった。ついに享禄四年(1531)、加賀国の一向一揆に内部分裂が起り、「大小一揆」へと発展した。

大小一揆の勃発

 この「大小一揆」に際して、証如の側近の地位にある下間頼秀と弟頼盛は超勝寺方(大一揆)を支援し、加賀の一門寺といわれる加賀三ヶ寺(小一揆=本泉寺・松岡寺・光教寺)と対立した。
 加賀にあった頼秀は一旦帰京すると、改めて山科本願寺で出陣式を行い加賀へ向かった。一方、頼盛は尾張、三河、美濃、飛騨の門徒を編成し加賀へ向かった。争乱のなかで、三ヶ寺方の松岡寺蓮綱は幽閉され四ヶ月後に死亡、その一ヶ月後、子の蓮慶、孫の実慶・慶助、松岡寺付きの下間頼宣・頼康・頼継らが逃走しきれず自刃した。かくして、争乱は頼秀・頼盛が支援する大一揆方の勝利に終わった。「大小一揆」は「享禄の錯乱」とも呼ばれ、頼秀・頼盛兄弟の活躍は大きかったが、実質的に乱を主導したのは蓮淳であった。
 この事件の原因は、細川政元の養子澄元、澄之の争いが飛び火したものである。さらに、その対立が足利義晴と細川晴元に代わると、超勝寺は晴元、三ヶ寺は義晴に味方した。義晴が不利になると、晴元支持のために証如を後見する地位にあった蓮淳が頼秀らを超勝寺に派遣したのである。一方でこの対立の背景には、本願寺内部における改革派と保守派の対立、証如をめぐって下間氏嫡系の頼秀らと、叔父頼慶系との対立などがあり、いずれが正で、いずれが邪か判別しがたいものがあった。
 乱の結果として、真宗教団のなかで重要な地位を占めていた加賀三ヶ寺は追放破却され、三ヶ寺の下で教団を指導してきた大坊主や門徒土豪らは失脚し、真宗教団の組織を一変させることになった。以後、本願寺は直参衆を基盤として門徒の組織化を図り、戦国大名化への途を歩み出すことになる。いいかえれば、本願寺がさらに発展するために、避けて通ることができない内部抗争であったともみられるが、その後の本願寺の歴史に残した影響は大なるものがあったといえよう。
 本願寺の勢力は幕府内の抗争に利用され、一向一揆が近畿各地で起った。やがて、一揆は暴走を始め、そのすさまじさを見た細川晴元はこれを警戒するようになり、ついには本願寺とは敵対関係となったのである。晴元は法華衆や在地勢力を糾合し、次第に一向宗勢を追い、その本拠地である、京都山科の本願寺を焼打ちにした。「天文の乱」であり、本願寺は追い詰められていった。そして、天文の乱の和平条件として頼秀・頼盛兄弟は責任を追求され、大坂退去となった。その後の天文六年、別心衆として謀反人の扱いをうけ下間氏の嫡流は没落となった。 結局、頼秀・頼盛兄弟は体よく利用され、結局使い捨てられたといえよう。

戦国乱世と下間氏

 十六世紀中ごろになると、戦国の争乱はいよいよ激化していったが、その一方で天下統一への兆しも見えてきた。
 本願寺は大坂御坊を城塞化し、一向一揆を指導して戦国大名に匹敵する存在になった。やがて、尾張から起った織田信長が足利義昭を奉じて上洛、にわかに天下統一に向けて群雄から一歩抜きん出てきた。そして、一向一揆を指揮する本願寺は否応なく信長と対立関係に置かれていったのである。
 元亀元年(1570)、織田信長から石山本願寺の明け渡しを申し渡された顯如上人は、全国の門徒に仏敵信長と戦えと下知を飛ばした。伊勢長島の願證寺へは本願寺より下間三位頼旦、下間頼盛が総大将として送られた。
 元亀元年十一月、長島輪中の一向一揆の門徒勢が、尾張小木江城を守っていた織田信興を攻め、城主織田信興を自害させるという勝利をえたが、下間頼旦・下間頼盛の奮戦は目覚ましかった。翌元亀二年、織田信長は信興の弔い合戦と称し、伊勢長島に五万五千の兵を出し、自らも津島まで出陣した。
 佐久間右衛門・柴田勝家・氏家ト全らが村々に放火しながら攻め寄せ、対する長島門徒勢は篠橋砦・符丁田砦・森島砦に雑賀の鉄砲衆や門徒、地侍らが待ち構え下門頼旦の合図で一勢に織田軍を狙い撃ちした。織田方は多くの将兵が討ち取られ、柴田勝家は右手を負傷し、さらに勝家にかわって防戦した大垣城主氏家ト全が戦死するという信長軍にとっては散々な敗北となった。
 天正元年(1573)、信長は年来の怨敵長島願證寺を討つため、桑名に入り、十月八日 東別所に陣をかまえたが、おりからの風雨に乗じた長島願證寺の奇襲により、信長軍はふたたび惨敗し岐阜に逃げ帰っていった。翌年四月、信長は三たび長島願證寺を攻めるため岐阜を発した。再三にわたる敗戦に懲りた信長は、九鬼・滝川の水軍によって願證寺を厳重包囲し、願證寺側の砦を一つひとつ個別撃破しつつ願證寺を兵糧攻めに追い込んでいった。
 八月に至って、ついに長島城は開城し、門徒勢は多芸山 北伊勢 河内方面へ逃げ散ったた。しかし、最後まで信長軍に抵抗した願證寺は、幾重にも柵をはられ、四方から火を放たれ老若男女五万余人の門徒勢が焼き殺された。この大虐殺によって、願證寺は落城断絶した。ときに天正二年九月二十九日のことであった。

織田信長との死闘

 信長との抗争において、下間一族は本願寺宗主を支えて本山で、あるいは地方の拠点で活躍した。
 越前の戦国大名朝倉氏は本願寺系浄土真宗を厳しく禁止し、加賀一向一揆と朝倉氏の対立は約六十一年間も続いた。やがて、戦国期の政治抗争の変化にともない、永禄十二年(1569)朝倉義景は本願寺と結んで一向宗の禁圧を解除し、反織田信長連合を形成した。しかし、天正元年(1573)織田信長の越前侵攻により朝倉氏は滅亡し、その後は織田方の桂田長俊・溝江長逸らが越前を支配した。
 翌年、蜂起した一向一揆は、織田方の桂田・溝江氏らを討つほか、平泉寺などの敵対勢力を攻撃し、越前を本願寺領国として支配するに至った。本願寺は下間少進家の筑後守頼照(述頼とも)を総大将として越前に下向させ、越前支配の強化を図った。しかし、一揆内部の坊主分・坊官と門徒の対立などもしばしばおこり、その支配は思うように行かなかった。越前の奪還を企図する信長は、天正三年(1575)八月、十万余の軍勢を率い越前に向けて出陣した。
 本覚寺・西光寺・専修寺などの坊主分の率いる一揆勢の主力は、木ノ芽峠・鉢伏山一帯を守備し信長の侵攻に備えたが、またたく間に防禦線を破られ越前は織田軍に制圧された。信長は徹底した一揆狩りを行い、一揆の総大将下間頼照は高田系の称名寺門徒に討たれ、一向一揆の越前支配は一年半で終わった。
 このようにして、各地の一向一揆はひとつひとつ信長軍との戦いによって潰滅していった。信長は一揆を討伐すると同時に、石山本願寺を包囲攻撃していた。石山本願寺は武田氏・毛利氏などと同盟し、さらに紀州の雑賀衆の支援を得て、信長に徹底抗戦を続けていた。本願寺の籠城戦を指揮したのが刑部卿法橋頼廉で、本願寺顕如を支えて本山の家老をつとめ、本願寺一の砲術の使い手という武闘派であった。
 元亀元年(1570)に始まった本願寺と信長の抗争も、次第に本願寺方の劣勢に傾き、ついに天正八年、本願寺は正親町天皇の勅命を引き出した信長に屈することになった。この和議において、頼廉、下間宮内卿家の頼龍、下間少進家の仲孝の三人が署名血判した。
 頼廉は顕如に従って本願寺から退去して天満に移り、天正十九年、秀吉の命により七条猪熊に宅地一町を与えられ、京都本願寺町奉行に命ぜれている。他方、頼龍は本願寺総領家執事職を務め、能の名手であった仲孝は秀吉・秀次・利家・家康らに招かれて能の上演や指導をし、能関連書「能之留帳」はじめ数冊の著述を残したことが知られる。
 その後、本願寺が東西に分立すると、下間氏も分かれ、東本願寺の教如方には頼龍らがつき、西本願寺の准如方には頼廉・仲之・頼芸がついた。西本願寺では頼廉の流れ「刑部卿家」、仲之の流れ「少進家」、頼芸の流れ「宮内卿家」の三家が坊官職を継承した。そして、この三家がとくに「下間三家」と称された。

参考資料:本願寺・一向一揆の研究/本願寺教団の展開・蓮如と七人に息子 ほか】


下間氏、余聞

 本願寺総領家執事職を務めた頼龍の妻は、織田信長の異母弟信時の女であった。信時の女は、はじめ信長の臣飯尾敏成に嫁いだが、本能寺の変で敏成が戦死すると、池田恒興の養女となり頼龍と再婚して頼広を生んだ。
 頼広は、慶長十四年(1609)、教如上人と争って本願寺を出奔した。頼広は大力豪勇の人物で、武士としての立身を志して母方の叔父である姫路藩主池田輝政に仕えた。輝政は頼広の才幹を高く評価し、新参者でありながら三千石を与え、当時備前岡山に在城していた長子利隆の後見役を命じ、岡山藩二十八万石の軍政を統轄させたのである。
 慶長十八年(1613)、輝政の跡を継いで姫路藩主となった利隆から、池田姓と「揚羽蝶」の家紋の使用を許されて一門衆に加えられ、池田越前守重利と改名した。翌年には駿府で初めて徳川家康に拝謁し、時服と名馬を賜っている。元和元年(1615)、大坂の陣に従軍した重利は、徳川家の直轄領尼崎城を守衛して戦功を挙げ、戦後、摂津国川辺郡などで一万石を与えられて大名に列した。同三年(1617)、播磨国揖東郡に移封され、寛永三年(1626)、播磨新宮に陣屋を構えた。
 以後、播磨新宮藩主として続いたが、寛文十年(1670)、四代藩主邦照が十三歳で早世した。邦照には弟重教がいたものの、「大名が十七歳以下で没した場合、弟があっても家督相続は許されない」という「武家諸法度」の定めにてらされて無嗣廃絶となった。その後、本家の備前岡山藩主池田光政・因幡鳥取藩主池田光仲らの奔走で、弟重教が宮陣屋周辺で三千石を与えられ、大名に準ずる寄合格式の旗本として家名の存続を許された。

・家紋:揚羽蝶

●お薦めページ─加賀一向一揆/ 本願寺の情報


■参考略系図


●詳細系図


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧