蓮如の子供を中心とした本願寺一門の広がりを系図から見てみた。本願寺は北陸に教勢を拡大していったが、それは蓮如が吉崎を拠点としてことで爆発的な広がりを見せた。系図を見ると、本願寺代々が北陸に扶植してきた路線に乗って、さらに蓮如が教団形勢を推進したことが見て取れる。それは、多くの子女たちを既成の寺院に養子、あるいは室として入れ、また、子女に新しい寺院を起させるというもので、そのやり方は当時の戦国大名の勢力拡大の方法に酷似したものであった。さらに、蓮如の考えのどこかに一族の「血のつながり」を重視するところがあったようで、近親結婚の多いことに驚かされる。 かくして、蓮如は多くの子女をもって教団の拡大を進め、本願寺が「虎の子」とした北陸に、本泉寺、松岡寺、光教寺の、蓮如の子らを住とする「三ケ寺」をもって本願寺の勢力を定着させていったのである。それは、あたかも本願寺による封建体制というべきものであった。 蓮如の死後に起った「大小一揆」は、蓮如の子らによる内部抗争とでもよべるべきものだが、その火付け役となったのは証如を後見する蓮淳であり、蓮淳は北陸の一大勢力である「三ケ寺」の支配体制を突き崩して、新たな本願寺体制を築こうとしたのである。とはいえ、多分に蓮淳の本願寺教団経営に対する野心もあったことは否定できないが。 |