本願寺
九条下り藤
(藤原北家日野氏流)
戦国時代に織田信長と激しい抗争を展開し、現代に生き残った本願寺の「家紋=寺紋」は、西本願寺が「下がり藤」で、東本願寺が「牡丹」となっている。では、戦国時代以前における本願寺は、どのような紋章を用いていたのだろうか?
本願寺の祖である親鸞上人は、日野家に生まれた。日野家の紋は「鶴丸」で、広橋・烏丸・竹屋などの日野一族も鶴を紋章として用いている。そして、綽如善如・功如・蓮如・実如・順如など本願寺歴代の宗主は日野家の猶子となっており、おそらくその関係からであろう本願寺の紋の一つとして「鶴丸」が伝えられている。 他方、『紫雲殿由縁記』によれば、戦国時代の享徳三年(1530)、宗主証如が九条家の猶子となり、証如のあとを継いで織田信長と対決した顕如も九条家と縁を結び、稙通の猶子になっている。この関係から、九条家の紋である「下り藤」が本願寺に伝わった可能性が高い。さらに、「五七桐」の紋が本願寺の紋となっている。「五七桐」は、本願寺第十一代門主である顕如上人が、永禄元年(1558)、門跡勅許の沙汰を受けて宮中との関係をもったとき、「五七桐」を許されたという。
一方、現在用いられている「下がり藤」「牡丹」は、公家の九条家、近衛家などとの姻戚関係から、用いるようになった。すなわち、明治三十一年、鏡如上人が九条道孝の三女籌子と結婚したとき、籌子が九条家の紋である「下がり藤」を持参してきたものというが、先述のように戦国時代証如が九条家の猶子となったときに伝えられたものではないだろうか。「牡丹」については、浄土真宗の宗祖・親鸞が藤原家の出身ということに由来しているというが、これは信じられない。親鸞の出自をいうのであれば、日野家の「鶴丸」こそふさわしいものであろう。江戸時代の中ごろ、近衛経熈の娘熈子が東本願寺光朗に嫁いでおり、このときにもたらされたものと考えるのが自然だ。
写真:東本願寺の提灯
このように考えてくると、現在の本願寺では「下がり藤」「牡丹」がそれぞれ紋として用いられているが、中世から戦国時代において本願寺が用いた紋章は「鶴丸」、ついで「下り藤」「で五七桐」ではなかったかと想像されるのである。
【掲載家紋:左より牡丹/鶴丸/五七桐】
■本願寺の家伝
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