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戦国山城を歩く
八上城址に登る
八上城は丹波富士と称される高城山に築かれた山城で、丹波の戦国大名波多野氏が拠ったところである。
丹波波多野氏は、応仁の乱で細川勝元に仕えて活躍し波多野清秀が、乱ののちに細川政元から多紀郡を与えられ、
朝路(高城)山の麓に奥谷城(蕪丸城)を築いたのが始まりだ。一説に波多野氏は因幡の八上から興ったといい、
それにちなんで八上城と名付けたというが、八上の地名は室町時代の中ごろには存在していた。
清秀のつぎの元清は、細川氏を後ろ盾として勢力を拡大、新たな支配拠点として、朝路山山上に八上城を構築した。
以後、波多野氏の盛衰はあったが八上城は丹波有数の城郭へと整備されていたった。
天正三年(1575)、織田信長の丹波攻めが開始されると、波多野氏は氷上の黒井氏らと結んで
織田軍の大将明智光秀に抗戦した。しかし、天正七年、波多野氏は光秀の和議に応じて謀殺され、
八上城は陥落した。
2005年、国指定史跡に認定され、登山道なども整備された。北側山麓の主膳屋敷址をはじめ、中腹から山上には
曲輪群、堀切などがよく残っている。
波多野氏が最初に拠点とした奥谷城、西方の法光寺山に築かれた法光寺山城、そして、城下町であった殿町一帯
は丹波の戦国時代が実感できるところとなっている。
・城址から篠山市街を見下ろす
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八上城へは城下町のあった奥谷側からが大手道といわれるが、春日神社近くの主膳屋敷跡から本丸を目指す。
整備された道をひたすら登ると、曲輪跡、堀切が散在し、本丸城門跡からは遠く松尾・白髪岳が見える。
・盛夏の八上城址 ・晩秋の八上城址 ・山麓の春日神社界隈 ・主膳屋敷址
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・八上城をめざす・右衛門丸跡の石垣跡・三の丸の土壇・二の丸への上り坂
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本丸附近は綺麗に整備され、東北の岡田丸から本丸東側の帯曲輪方面には石垣が綺麗に残っている。
山上からは沢田城・八百里城・細工所城なの支城群どが遠くに望める。
・本丸跡・朝路池・大堀切
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本丸を後に、茶屋丸から馬駈場を通り、芥丸・西蔵丸跡をめざす。要所、要所には竪堀が切られている。
曲輪群は樹木に覆われているが、木の間越しに天引峠方面、北方に連なる多紀連山、西方の松尾山・白髪岳が望め、
八上城が多紀郡の中核であったことが実感できる。
・茶屋丸横の通路・芥丸に祀られた石仏・西蔵丸から本丸を振り返る・天引峠方面を見る・主膳屋敷へ戻る
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[ 波多野氏
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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・丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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| ……
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