波多野氏
丸に抜け十字
(藤原氏北家秀郷流?) |
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波多野氏の家紋は、書物によって「鳳凰の丸」、「鳳凰に竪二つ引」、「井田」、「丸に二つ引両」などとある。
「鳳凰に竪二つ引両」は『見聞諸家紋』にみえるもので、幕府奉公衆・越前波多野氏の家紋である。丹波波多野氏は、
藤原氏秀郷流波多野氏の分かれとする説、清和源氏吉見氏の後裔とする説など、諸説紛々で出自は必ずしも明かではない。
篠山市内にある誓願寺は、波多野秀治が将軍足利義輝の菩提を弔うため、義輝の遺児覚山天誉上人を開山に迎えて造営、
寄進したものである。誓願寺の楼門には「丸に竪二つ引き両」「丸に抜け十字*」の紋が据えられ、まず波多野氏に関わる紋とみて間違いないだろう。また、『多紀郷土史考』に紹介されている多野秀治の位牌に据えられた紋は「丸に抜け十字」で、キリシタンとの関係からこのような紋を据えたのではないかとの説がなされている。実際、篠山にはキリシタンの遺跡が伝来し、波多野氏はキリシタン信者の多かった摂津武士との関係も深かっただけに頷ける説である。
一方の「丸に竪二つ引き両」は、足利将軍家との関係から用いたものと思われる。波多野氏に属して「丹波鬼」の
異名をとった細工所城主荒木氏の後裔にあたる家では「三つ柏」」を定紋に用い、替紋に「丸に二つ引両」を
用いているという。そして、同家の家伝には「丸に二つ引両」は「波多野氏から賜った」ものと記されているそうだ。
【写真:誓願寺楼門】
波多野氏は明智光秀に降伏したのち、安土城下で処刑されて滅亡したことになっている。いまも、多紀郡(篠山市)には波多野秀治の後裔を名乗る家があり、その家紋は「丸に抜け十字」である。さきの誓願寺の境内墓地には、波多野秀治の古い墓碑があり、その傍らに近世波多野家の墓石も建立されている。そこに据えられた家紋は、いずれも「丸に抜け十字」である。さらに、市内の墓地にある波多野家の墓石を見ると、
「丸に十字」「三つ鱗」などの紋が据えられている。
■波多野氏の家紋
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左から:鳳凰に竪二つ引・丸に竪二つ引両・丸に十字・丸に三つ鱗
このように丹波波多野氏の家紋を見ると、室町幕府奉公衆波多野氏とは別流と思われ、石見吉見氏の後裔とする説がにわかに真実味を帯びてくる。実際、石見吉見氏の家紋は「二つ引き両」であった。おそらく、丹波波多野氏は、元々「二つ引き両」を用い、摂津武士との関係、城下のキリシタン信仰の広がりなどから「丸に抜け十字」も用いるようになったのではなかろうか。もっとも、波多野氏は石山本願寺とも良好な関係を結んでおり、キリシタンであったと断定はできないが、
当時、流行していたキリシタン文化に鈍感だったとは思えない。「丸に抜け十字」を用いるようになった始めは、
同紋が位牌に据えられた波多野秀治であったと推察される。
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丸に抜け十字は「出轡」とも呼ばれるが、波多野氏のものは墓石の紋などから十字紋のバリエーションと考えられる。
■波多野氏の家伝
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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